アープレーイウス作「メタモルフォーセース」(変身)におけるクピードーとプシューケー
synopsis du récit "Cupidon et Psyche" (Ἔρως καὶ Ψυχή) - Apuleius, "Metamorphoses" Liber IV, 28 - Liber VI, 24




(上) Wilhelm von Kaulbach, "Cupido und Psyche", eine Photogravüre von 1881 クピドーの翼が鳥に似る一方で、プシューケーの背には蝶の翅(はね)が生えています。これはギリシア語「プシューケー」(希 ψυχή)に「蝶」の意味があることによります。フォトグラヴュールは当店の商品。


 アフリカのラテン著述家アープレーイウス(Lucius Apuleius Madaurensis, c. 123 - c. 170)は、「メタモルフォーセース」(Metamorphoses 「変身」 註1)第四巻二十八節から第六巻二十四節に、愛を擬人化した神クピードー(羅 Cupido)と、魂を擬人化した少女プシューケー(羅 Psyche)の物語を記しています(註2)。「クピードーとプシューケー」の梗概(こうがい 粗筋)は、次の通りです。


   第四巻 
     二十八節から三十一節
        昔、ある国に、王様とお妃さまがいました。二人の間には三人の娘がありました。上の二人はほどほどの縹緻(きりょう)好しで、自国の近くにある小さな国の王様たちに嫁入りしました。末娘のプシューケーはというと、人間の言葉ではとてもいい表すことができない美しさで、国民は新しいウェヌス様だと崇め奉り、ウェヌス神殿に参詣するよりも、むしろプシューケーに祈りと供物をささげ、プシューケーが踏む道に花を撒き、おかげで当の女神の神殿は訪れる人も無くなって荒れ果ててしまいました。この事態に激怒したウェヌスは、息子クピードーを呼び、プシューケーをこの世で一番卑しく惨めな男と激しい恋に陥らせるように命じました。
       
     三十二節から三十五節
        神々しいまでに美しいプシューケーはただ伏し拝まれるばかりで、誰ひとり言い寄る男もおらず、寂しい毎日を過ごしていました。両親の悩みは、ほどほどの縹緻の姉たちが片付いたのに、女神のように美しいプシューケーにはいつまでたっても結婚相手が現れないことでした。心を痛めた父王がミーレートスのアポローンに伺いを立てると、「娘に死装束をさせて高い山の頂に置け。翼を持って天を飛び、あらゆるものを苦しめる男を待ち受けるがよい」との神託が下りました。両親もプシューケーも国民も嘆き悲しみましたが、神託に逆らうわけにはゆかず、アポローンに命じられた通り、死装束のプシューケーを山頂まで送り、少女を一人残して、皆は嘆きつつ下山しました。山頂で泣き伏したまま眠ってしまったプシューケーは、いつしか西風によって花咲く草地に運ばれていました。
       
   第五巻
     一節から四節
        眠りから覚めたプシューケーは、この上なく立派な御殿を見つけて中に入り、世界中の財宝が山のように集められているのに驚きます。ベッドで休み、湯あみしたプシューケーは、姿が見えない声だけの侍女たち、召使たちに傅(かしず)かれつつ、美食とお酒と音楽を楽しみました。夜、ベッドに入ると、この上なく優しい夫に抱かれましたが、部屋は真っ暗でしたから、プシューケーは夫の姿を見ることができません。夫は明るくなる前に出かけてしまいました。
       
     五節から十節
        次の夜、暗さのゆえに姿が見えない優しい夫は、プシューケーの二人の姉が彼女を探しに来ることを予告し、声が聞こえても返事をしてはいけないとプシューケーに言い聞かせました。このことを心苦しく思った優しいプシューケーは、次の夜、夫に甘えながらせがんで、姉たちと会う許しを得、その次の日も山に来た姉たちを、西風に命じて連れてこさせました。プシューケーが暮らす御殿を見て度肝を抜かれた姉たちは、すぐに嫉妬と不平の塊になりました。何しろ自分たちの境遇ときたら、片方の姉の旦那はヒョウタンみたいにつるっぱげのヨボヨボで、そのうえ大のけちんぼです(註3)。もう一人の姉の旦那は腰が曲がって滅多に可愛がってくれないし、マッサージまでさせられて、これではまるで働き詰めの女医者です(註4)。不満を募らせた姉たちは、自分たちを見事に出し抜いたプシューケーから、全ての幸せを奪ってやろうと話し合います。
       
     十一節から十三節
        夜に通ってくる夫は、姉たちの悪巧みをすべて見抜いており、「可愛いプシューケーよ、姉たちはお前の夫について聞き出そうとするが、何も喋ってはいけないよ。お前が秘密を守り通せば、おなかにいる子供は神になるが、秘密を喋れば人間にされるのだ」といいます。プシューケーは自分が神の子を身ごもっていると知って、この上ない喜びに浸ります。夫はプシューケーが姉たちと会うのを止(や)めさせようとしますが、プシューケーは大丈夫だからと言い張り、優しい夫は根負けします。
       
     十四節から二十三節
        妹が住む御殿に通うようになった姉たちは、「あなたは夫の姿を見ていないでしょう。あなたの夫は恐ろしい大蛇で、おなかの子が育ってきたら、母子ともども食べてしまうつもりなのよ。寝室にランプと小刀を隠しておいて、夫が寝入ったら一思いに首を刎(は)ねなさい」と唆(そそのか)します。姉たちの言葉を信じてしまったプシューケーは、その夜も真っ暗な中で愛された後、夫が眠ると小刀を握り、ランプを取り出しました。すると、何ということでしょうか。ランプに照らされてようやく姿が見えた夫は、怪物どころか、愛の神クピードーだったのです。プシューケーはランプが照らし出す夫の美しい姿に、うっとりと見とれます。そのときランプからこぼれた熱い油がクピードーの肩に落ちました。激しい痛みに目を覚ましたクピードーは、あっという間に飛び立ちます。
       
     二十四節
        プシューケーは夫にしばらくの間すがりついていましたが、やがて疲れて地上に落ちてしまいました。クピードーはプシューケーが倒れているところに戻って言いました。「私は母の言いつけに背き、お前を愛して妻にしたのだ。それなのに私は、こんなにお前を愛しんでいる眼の付いた頭を、お前に斬り落とされるところだった。こうならないように、私はたびたびお前に言い聞かせたではないか」 こう言い残すと、夫は飛び去ってしまいました。 
       
     二十五節から二十七節
        プシューケーは悲しみのあまり川に身を投げましたが、水は少女を沈めずに、草花が咲き乱れた川岸に置きました。川岸にいたパーンも、少女を慰めました。プシューケーが歩いてゆくと町に出ました。片方の姉の夫が治める国だと気付いたプシューケーは、宮殿で姉に会うと、「夫は大蛇なんかではなくて、クピードー様だったの。クピードー様は私を追い出して、姉さんと結婚するって言ってたわ」と出まかせを言いました。欲に眼がくらんだ姉は、妹が最初に置き去りにされた山の頂上に急ぎ、西風が吹いていないのも構わずに崖から飛び降りました。姉の体はばらばらになり、鳥や獣の餌になりました。プシューケーがもう片方の姉の国に行って同じことを話すと、もう片方の姉も欲に目がくらんで山から飛び降り、同じ死に方をしました。
       
     二十八節から三十一節
        息子がプシューケーに恋い焦がれていることを知ったウェヌスはヒステリーを起こして、息子をののしりながら家を飛び出し、向こうからケレースとユーノーが歩いてくるのに出会いました。クピードーの矢が恐いケレースとユーノーは、ウェヌスの機嫌を取りつつクピードーの弁護をしましたが、ウェヌスは聞く耳を持たずにそのまま行ってしまいました。
       
   第六巻
     一節から七節
        プシューケーは夫を探してさ迷いました。道中でケレースやユーノーに会い、ウェヌスの怒りから匿(かくま)ってくれるように頼みましたが、ふたりともウェヌスとの付き合いがあるからと言って助けてくれません。いっぽうウェヌスはメルクリウスを貸してくれるようにユピテルに頼み、プシューケーの手配書を世界中に配らせました。もはやこれまでと観念したプシューケーは、ウェヌスの御殿に自ら出頭しました。
       
     八節から十節
        高笑いでプシューケーを迎えたウェヌスは、二人の侍女「心配」と「悲しみ」に命じてプシューケーを苛(さいな)ませました。また「あんたはこんなに大きなお腹をして、わたしはまだまだ若いのに、お祖母さんにしてくれようってわけ?」と言うと、自ら嫁に飛び掛かって、着物を引き裂き、髪をむしり、頭を揺さぶって散々な目に遭わせた挙句、召使の試験と称して、小麦、大麦、粟、芥子の実、小豆、豌豆、ソラマメをごちゃごちゃに混ぜた一山を、夕方までに綺麗に分別するように命じて、出かけてしまいました。プシューケーが呆然としていると、蟻たちがプシューケーに同情し、またウェヌスの無情さに腹を立てて、総出で分別を済ませてくれました。
       
     十一節から十五節
        酔っぱらってパーティーから戻ったウェヌスは、分別が終っているのを見ると、フンと鼻で笑って少女にパン切れを投げ与え、寝室に入りました。息子のクピードーは同じ御殿にいましたが、火傷の痛みで寝込んでいたうえ、女と会わないよう厳重に見張られていました。翌朝出かける際、ウェヌスはプシューケーに、森の泉から金色の羊毛を取ってくるよう言いつけました。プシューケーが途中の川に身を投げようとすると、川辺の葦が少女を憐れんで、羊がとても危険であること、しかしながら金色の羊毛を安全に手に入れる方法があることを教えてくれました。プシューケーは葦に教えられた方法で金色の羊毛を無事に手に入れましたが、ウェヌスは気に入らず、今度は険しい山の頂から、泉の奥底の水を汲んでくるように命じました。しかし山に近づいてみると、岩は険しく、竜に守られ、水自体が「あっちへ行け」と声を立てて、水を汲もうとする者から自分を守っています。プシューケーが途方に暮れていると、大きな鷲が飛んできて、竜をかわしつつ、上手に水を汲んでくれました。
       
     十六節から十九節
        それでもウェヌスは気に入らず、薄笑いを浮かべながら、さらに難しい仕事を命じました。黄泉に降ってプロセルピナに会い、プロセルピナの美しさの分け前を、持参の小箱に入れてもらえというのです。命運尽きたプシューケーは高い塔から身を投げようとしましたが、塔が急にしゃべり始め、黄泉の入り口がある場所を教えてくれました。また途中で出会う者たちの願いを聞いてはいけないことや、ケルベロスに与える団子、カローンに与える渡し賃の銅貨二枚を持ってゆくべきこと、ディース(プルートー、冥王)の宮殿でご馳走を勧められても固いパンしか食べてはいけないことなどを教えてくれました。
       
     二十節から二十四節
      塔の忠告にしたがってプロセルピナから小箱を受け取り、無事に地上に戻ったプシューケーですが、箱の中身が見たくてたまりません。プシューケーが箱を開けると、中に入っていたのは「眠り」で、プシューケーはその場に死人のように倒れてしまいました。そこにクピードーが駆けつけて、妻から眠りを拭い取り、小箱に戻しました。目を覚ましたプシューケーに、クピードは「母(ウェヌス)に届け物を持って行って、言いつかった仕事を早く終らせるように」と言いました。

 一方、恋の病にやつれたクピードーは、母の本気の怒りを空恐ろしく思い、ユーピテルに助けを願いました。ユーピテルはクピードーの願いを聞き入れ、今度クピードーが可愛い娘を地上で見つけたら、自分に譲らせることで話がまとまりました。ユーピテルは全ての神々の前でクピードーとプシューケーの結婚を布告し、プシューケーにアンブロシアを与えて彼女を女神とし、人間によって立派な血統が汚されるのではないかというウェヌスの心配を解消しました。続いて結婚の祝宴が開かれ、やがてクピードーとプシューケーの間には、「歓び」の女神が生まれました。


 アープレーイウスが語る「クピードーとプシューケー」の物語には、世界各地の昔話に共通する多数の要素が含まれます。それゆえアープレーイウスはこの物語を全く創作したのではなく、口承伝承に基づいて書いたものと考えられています。

 口承文学の研究は、グリムのメルヒェンに関して最も進んでいます。グリムのメルヒェンをはじめとする口承文学研究の光に照らして、「クピードーとプシューケー」の物語を分析すると、次のような特質が明らかになります。


1. 時と場所を特定しない話の始まり方

 グリムは「ドイツ伝説集」(Deutsche Sagen, 2 Bände 1816, 1818)の前書きで、昔話(メルヒェン)と伝説(ザーゲ)を対比し、伝説(ザーゲ)は特定の人物や場所に関連して語られるとしています。しかるに「クピードーとプシューケー」の物語は、「むかしむかし、或る国に、王様とお妃さまがいました」という言葉で始まります。グリムの言葉にしたがえば、時と場所を特定せず、登場人物を歴史上実在する人物に比定しない語り方は、以下で指摘する諸点とともに、「クピードーとプシューケー」が伝説(ザーゲ)ではなく昔話(メルヒェン)であることを示しています。


2. 全体的構造

 ロシアの口承文学学者ウラジーミル・プロップ(Владимир Яковлевич Пропп, 1895 - 1970)は、アファナシエフ(Александр Николаевич Афанасьев, 1826 - 1871)の昔話集を分析し、すべての昔話に共通する構造があること、登場人物の行為(機能)は順序が常に同じであることを示しました。「クピードーとプシューケー」における話の運びは、プロップが提示した構造によく当てはまります。


3. 人間界と神界がシームレスにつながるという一次元性

 昔話に登場する人間は全くの平常心で超自然的存在者と交流し、動植物や物品が口をきいても、神々や仙女が出現しても、臆する様子がありません。「クピードーとプシューケー」においても、プシューケーは人間なのに神々と臆せず話し、動物や塔が口を利いても驚きません。チューリヒ大学のマックス・リューティ(Max Lüthi, 1909 - 1991)は、昔話の世界に見られるこのような「一次元性」を、昔話の本質的特徴であると指摘しています。


4. 姉たちが残酷な死に方をしても、描写に現実味がない様子

 昔話の登場人物は首を切断される、四肢がばらばらになる等の残酷な死に方をしても、まるで人形を壊すかのようで、一滴の血も流れません。登場人物は生身の体も魂も持たず、まるで紙に描いた絵のようです。マックス・リューティはこれを「平面性」と呼んで、昔話が有する本質的特徴の一つに挙げました。「クピードーとプシューケー」においても、プシューケーの二人の姉は崖から飛び降りて手足がばらばらになり、鳥と獣の餌になるという悲惨な死に方をしますが、描写に現実味がなく、恐ろしさは感じられません。心優しい女性であるはずのプシューケーも、姉たちの最期を何とも思っていない様子です。


5. 義母あるいは継母が娘に対して幾つもの無理難題を命じ、娘は超自然的な助力者によって全ての命令を全うするという筋書き

 プシューケーの義母にあたるウェヌスは、プシューケーに対して、混ぜ合わせた小さな種や穀物を短時間で分別せよと要求したり、常人が取りに行けば生きて戻れないような物を取ってくるように命じたりしますが、プシューケーはそのたびに超自然的な助力者に救われます。これと同様の例は、グリムのメルヒェンをはじめ、世界中の昔話に極めて多く見られます。

 また昔話では、意地悪な継母や義母等によって、同じような試練が繰り返し与えられます。不可能と思われた一度目の試練を主人公がうまく潜り抜けたときに、どうやって潜り抜けたのかを追及すればよさそうなものなのに、そのような対応もせずに繰り返し試練を与え、そのたびにうまく切り抜けられてしまいます。二度目の試練は最初の試練に内的関連性を持たず、三度目の試練は二度目の試練に内的関連性を持たず、毎回同じような試練と解決が羅列的に繰り返されるのです。マックス・リューティはこれを「孤立性」と呼び、やはり昔話が有する本質的特徴として指摘しました。

 「クピードーとプシューケー」においても、ウェヌスはプシューケーに毎回試練を切り抜けられますが、どのようにして試練を切り抜けたのかを追求しようとはせず、羅列的に新たな試練を課すのみです。プロセルピナの国から地上に戻った時、もしもクピードーの介入が無ければ、ウェヌスから次の試練を与えられていたことでしょう。それゆえウェヌスが与える試練の孤立性に関しても、「クピードーとプシューケー」は昔話の典型であることがわかります。


6. いったん失った幸せが、最後に取り戻されるという筋書き

 クルト・ランケ(Kurt Ranke, 1908 - 1985)は、昔話と伝説がそれぞれに反映する人間の心性に注目しました。伝説における人間は環境を変える力を持ちません。伝説に登場する人間は、超自然的な者たち(小人や魔物など)が定めた掟に背くと、決して幸せな結果になりません。これに対して昔話の主人公は、超自然的な力の助けを借りて、幸せな結果に至ります。この違いに注目したクルト・ランケは、伝説には「人生の運命は変えられない」と諦める心性が、昔話には「神話的な高みから人生の困難を克服しよう」と憧れる心性が、それぞれ反映されていると考えました。

 「ドイツ伝説集」に収められている「ブラバントのローエングリン」では、妻が約束を破って夫に身分を尋ね、夫は妻のもとを去ります。妻がいくら嘆いても、夫は二度と戻りません。しかるに「クピードーとプシューケー」では、妻プシューケーが約束を破って夫クピードーの姿を見、夫はいったん妻のもとを去りますが、最後にふたりは祝福されて結婚します。これは「ブラバントのローエングリン」が伝説(ザーゲ)であること、他方、「クピードーとプシューケー」が昔話(メルヒェン)であることを示しています。


 以上で明らかなように、「クピードーとプシューケー」は「伝説」(ザーゲ)ではなく「昔話」(メルヒェン)であり、人生の困難は克服し得るものだという心的姿勢のもとに語られています。愛する人と一緒になりたいと願い、幾多の困難を経てそれを実現するプシューケーの物語は、愛する人を見出し、ともに人生を送りたいと願うすべての人のために語られているのです。


 なおアープレイウスの高雅な散文ラテン語を味わっていただきたいと考え、この挿話の佳境と思われる場面、すなわち「メタモルフォーセース」第五巻、二十一節後半から二十三節において、姉に唆(そそのか)された少女プシューケーが、夫の言いつけに背いてその正体を見てしまう場面を選び、ラテン語原文と、筆者(広川)による日本語訳を掲載しました。当該ページに移動するには、ここをクリックしてください。




註1   アープレーイウスの著作「メタモルフォーセース」(羅 "Metamrphoses" 「変身」)は、「アシヌス・アウレウス」(羅 "Asinus Aureus" 「金でできた驢馬」あるいは「金色の驢馬」)の別名でも知られています。


註2   「クピードー」(cupido)は「アモル」(amor)と同じ意味で、「愛」「恋」を表します。ここに引用する有名な物語で、アープレーイウスは「アモル」ではなく「クピードー」を使っています。ただしラテン語全体に視野を広げれば、この二つの語はどちらも同じように神格名として使われ、同一の「愛の神」を表します。「クピードー」と「アモル」はいずれも本来のラテン語(外来語ではないラテン語)です。「クピードー」または「アモル」をギリシア語でいえば、「エロース」(ἔρως)です。

 「プシューケー」(psyche)はラテン語としても使われますが、ギリシア語からの外来語です。ギリシア語で書けば、"ψυχή" です。「プシューケー」は「魂」のことで、本来のラテン語でいえば「アニマ」(anima)です。ここに引用する物語で、アープレーイウスは「アニマ」ではなく「プシューケー」を使っています。

 アープレーイウスが語る「クピードーとプシューケー」に基づいて、絵画や彫刻、文学作品など、多数の創作物が後世に作られており、「クピードーとプシューケー」あるいは「アモルとプシューケー」という作品名が付けられています。芸術作品の名前において、愛の神の名が「クピードー」であったり「アモル」であったりする一方で、少女の名は常に「プシューケー」で、「アニマ」と呼ばれる例はありません。筆者(広川)が考えるに、これはおそらくラテン語「アニマ」がキリスト教と強く結びついたため、ローマ多神教文化に連なる芸術作品を「クピードーとアニマ」「アモルとアニマ」と名付けると、違和感があるためでしょう。


註3 「クピードーとプシューケー」は紀元二世紀、わが国でいえば弥生時代に書かれた小説ですが、姉たちが旦那について言う少々下品な悪口や、プシューケーを苛める意地悪なウェヌスの描写(本文に後出)は、現代でも十分に起こり得るようなことであるとともに、王妃とも愛と美の女神とも思えない小人的水準で、リアルな描写に思わず噴き出してしまいます。

 滑稽な言い回しや下品な性描写で筆者(広川)がふざけていると思われないように、テキストのこの箇所で片方の姉が口にする旦那の悪口のラテン語原文を、原文に忠実な日本語訳を添えて示します。日本語訳は筆者によります。

     At ego misera primum patre meo seniorem maritum sortita sum, dein cucurbita calviorem et quovis puero pusilliorem, cunctam domum seris et catenis obditam custodientem.    でもあたしの惨めなことったら、第一にお父様よりも年上の旦那をあてがわれたのだし、それに加えてあいつときたら、ひょうたんよりも禿げていて、どこもかもが子供よりも弱っちくて、たくさんの閂(かんぬき)と鎖で家じゅうを厳重に守っているんだから。

 "maritum"(夫、旦那)は、形式所相動詞 "sortior"(籤で引き当てる)の対格補語。"patre meo seniorem"(わが父よりも年長の)、"cucurbita calviorem et quovis puero pusilliorem"(ひょうたんよりも禿げていて、どこもかしこも子供よりも弱い)、"cunctam domum seris et catenis obditam custodientem"(いくつもの閂と鎖で閉鎖した家全体を守っている)は、いずれも "maritum" を限定(修飾)する形容詞句。

 クピードーの立派な御殿は財宝があふれていますが、どの部屋にも鍵はかかっておらず、声だけの侍女たちはそれらの財宝がすべて奥様、つまりプシューケーのものですと言います(第五巻第二節)。旦那が「たくさんの閂(かんぬき)と鎖で家じゅうを厳重に守っている」と言う姉の不平は、プシューケーの身分を自分と引き比べているのです。


註4 もう片方の姉が口にする旦那の悪口のラテン語原文と、原文に忠実な日本語訳を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Suscipit alia: "Ego vero maritum articulari etiam morbo complicatum curvatumque, ac per hoc rarissimo Venerem meam recolentem sustineo, plerumque detortos et duratos in lapidem digitos eius perfricans, fomentis olidis et pannis sordidis et faetidis cataplasmatibus manus tam delicatas istas adurens, nec uxoris officiosam faciem sed medicae laboriosam personam sustinens."    他方の姉が受けて言うには、あたしなんか、旦那はリューマチで腰が曲がっちゃって、そのせいであそこだって滅多に耕してくれないのよ。曲がって石みたいに固まった旦那の指をたびたび擦(こす)ってやって、嫌なにおいの塗り薬やら、汚いぼろ布やら、くっさい湿布やらで、この柔らかい両手を荒れさせちゃうし、これじゃ世話好きの奥様っていうより、働きづめの女医者の役まわりだわ。

 "Ego vero maritum articulari morbo complicatum curvatumque, ac per hoc rarissimo Venerem meam recolentem sustineo." 直訳 「わたしはと言えば、関節の病気で折りたたまれ、曲がっていて、そのせいでわたしのあそこを極めて稀(まれ)に耕す旦那を持っている。」

 articulari morbus 関節の病気、関節リューマチ

 Venus 性愛と美の女神(ウェヌス、ヴィーナス)、性交、女性器 ※ ここでは最後の意味。

 recolo, ere, colui, cultum 再び耕す、たびたび耕す;新たに行う、再開する

 plerumque adv. 最も多く、頻繁に

 faetidus = foetidus = fetidus ひどく臭(くさ)い

 aduro, ere, ussi, ustum v. a. 焼く、焦がす ※ ここでは「(肌を)荒れさせる」意。

 "nec uxoris officiosam faciem sed medicae laboriosam personam sustinens." 直訳 義務に忠実な妻の顔ではなくて、働き詰めの女医者の仮面を着けている。 ※ 「ファキエース」(facies 顔)と「ペルソーナ」(persona ギリシア演劇の仮面)を対置した表現。



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