アレクサンドル・カバネル作 「エフタの娘」 1885年のサロン出品作 パリ、グピルによるフォトグラヴュール 128 x 179 mm

Alexandre Cabanel, "La Fille de Jephté", une photogravure par Goupil & Cie, 1885


絵画部分のサイズ  横 128 mm  縦 179 mm


フランス  1885年



 アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823 - 1889)の油彩「エフタの娘」("La Fille de Jephté", 1885)に基づくフォトグラヴュール。主題は旧約聖書に基づいています。





 神はアブラハムに対し、ナイル川からユーフラテス川に至る広大な土地をアブラハムの子孫に与えると約束し給いました(「創世記」十五章十八節から二十一節)。アブラハムの子がイサク、その子がヤコブ、その子がヨセフです。ヨセフはエジプトでファラオに取り立てられて高官になり、父ヤコブと兄弟たちをエジプトに呼び寄せました。ヨセフとその兄弟たちはイスラエル十二部族の祖です。それゆえヨセフの時代以降、イスラエル十二部族(イスラエル人、ユダヤ人)はエジプトに住むようになりました。「創世記」はヨセフの死で終わります。

 エジプトに住むようになったイスラエル人たちは大いに繁栄しました。エジプト人たちはイスラエル人の勢力を脅威と看做し、やがて彼らを迫害するようになりました。神はモーセに対し、ユダヤ民族の指導者となって、イスラエル人たちをエジプトから脱出させるように命じました。モーセに率いられたユダヤ人たちはエジプトを脱出しましたが、神はイスラエル人たちの不信仰ゆえに、彼らが「乳と蜜の流れる地」、すなわちヨルダン川西岸の豊穣の地に入ることを許さず、イスラエル民族は四十年間に亙って荒れ地をさ迷いました。

 モーセの死後、イスラエル人たちはヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、当時カナン人が住んでいた「乳と蜜の流れる地」を武力で制圧しました。その過程を記録したのが「ヨシュア記」及び「士師記」(ししき)です。「士師」(羅 JUDEX 複数形 JUDICES)は「裁く人」という意味で、ヨシュアの死後にイスラエル人たちを統率した指導者たちをこう呼んでいます。「ヘブライ人への手紙」十一章三十二節には、「信仰によって国々を征服し、正義を行い、約束のものを手に入れ」た人々として、数人の名前が挙げられています。このうちのギデオン、バラク、サムソン、エフタはいずれも士師です。

 ヨルダン川を渡って西岸に達したイスラエル人たちは、当地で暴虐の限りを尽くします。その悪逆非道は十三世紀のモンゴル軍や第二次世界大戦時の日本軍と変わらず、「ヨシュア記」と「士師記」を現代人の感覚で読めば吐き気さえ覚えます。しかしながら彼らは神の命令を実行しているに過ぎません。旧約聖書の時代、神が愛するのは選民イスラエル人のみであり、他民族の命や幸福には芥子粒ほどの重みも置かれません。





 「エフタの娘」の故事は、「士師記」十一章に記録されています。エフタは士師の一人ですから、これはイスラエル民族内部の物語ですが、現代人の感覚からするとやはり恐ろしい出来事です。

 士師エフタは神に誓いを立ててアンモン人と戦い、勝利を得ました。「士師記」十一章三十節から四十節には次のように書かれています。日本語訳は新共同訳によります。

   30     エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら
   31    わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」
   32    こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。
   33    彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。
       
   34     エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。
   35    彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」
   36    彼女は言った。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。」
   37    彼女は更に言った。「わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。」
   38    彼は「行くがよい」と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。
       
   39     二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。
   40    来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。






 引用個所の三十一節にある「焼き尽くす捧げもの」とは、生贄(いけにえ)のことです。旧約聖書時代においても、イスラエル人の間に人身御供の風習はありません。「創世記」二十二章においてアブラハムが息子イサクを生贄にしようとした際に、神はこれを制止しています。それゆえエフタの娘に関しても、父が実際には娘を殺さず、一生を処女のまま過ごさせたと解釈できそうにも思えます。しかしながら引用個所の四十節にはイスラエルの娘たちが「エフタの娘の死を悼んで」家を出る、と書かれていますから、父エフタはやはり娘を殺して生贄に捧げたのでしょう。

 娘が二か月後に殺されて生贄になったわけではないとした場合、一生を神に捧げられた処女として過ごし、子孫を生まなかったことになります。この場合、処女である娘に恋人があったとしても、その恋人とは身を捧げることなく別れなければなりません。これは娘本人の不幸であるだけでなく、子孫を残せない父の不幸でもありました(三十四節)。アレクサンドル・カバネルの作品において、エフタの娘が寄りかかる人物は恋人であるように見えますが、娘の表情には深い悲しみが宿っています。娘の実際の運命が生贄、または一生の処女のいずれであったにせよ、士師エフタは軽率な誓いを立てたことにより、愛娘と自分自身に取り返しのつかない不幸を招いてしまいました。





 アレクサンドル・カバネルは 1885年のサロン展に二点の作品を出品しました。「エフタの娘」("La Fille de Jephté")はそのうちの一点で、もう一点は肖像画です。

 本品は「1885年サロン展」(Henry Havard, "Salon de 1885 - Cent planches en photogravure par Goupil & Cie.", M DCCC LXXXV)という本から採られた実物のアンティーク版画で、現代の複製ではありません。本の出版元はパリ、ブールヴァール・サン=ジェルマンの美術書専門出版社、リュドヴィク・バシェ(Ludovic Bachet, Éditeur, 125, Boulevard Saint-Germain, Paris)で、「1885年サロン展」は同年に七百二十部限定で出版された豪華本です。

 本品の版画技法、すなわち版の制作に使われている技法は、古典的フォトグラヴュールで、版元はパリのグピル(Goupil & Cie)です。古典的フォトグラヴュールは金属の平版を用いる版画技法で、写真の原理を応用したものですが、明度を無段階に表現する再現性は、写真よりもはるかに優れています。技術的に未発達であった十九世紀の写真は言うに及ばず、デジタルカメラによる現代の写真においても、極端に明るい部分や暗い部分は写真でうまく再現できません。明るい部分は真っ白に色が飛び、暗い部分は真っ黒に潰れてしまいます。これに対してフォトグラヴュールは明暗の階調を、肉眼で見えるとおりに、無段階的に正確に再現します。


 本品はフランス語で「パピエ・ド・リ」(papier de riz 「米の紙」の意)、英語で「ライス・ペーパー」(rice paper 同)と呼ぶ極薄の東洋紙が台紙に貼り付けられ、フォトグラヴュールはこのパピエ・ド・リ(ライス・ペーパー)に刷られています。パピエ・ド・リは台湾等に産するカミヤツデ(Tetrapanax papyrifer)の繊維で作られる平滑な紙で、稲や米とは無関係ですが、この紙が西洋にもたらされた際に米が原料であると誤認されたため、現在もこのような名前で呼ばれています。

 版画の精細度は、版の細密さによると同時に、画像を転写する紙の質にも大きく左右されます。それゆえフォトグラヴュールにはきめの細かな高級紙が使われます。フォトグラヴュールに使われる紙の質を究極まで高めたのが、「シン・コレ」と呼ばれる技法です。「シン・コレ」(chine collé)とはフランス語で「ライス・ペーパー貼り付け技法」というほどの意味です。

 「シン・コレ」においては、サポート(英 support 台紙の役割を果たす厚めの紙)に、パピエ・ド・リ(ライス・ペーパー)を貼り付けます。版画はパピエ・ド・リに刷られます。版画を台紙に直接刷らず、台紙に貼ったパピエ・ド・リに刷る理由は、パピエ・ド・リの肌理(きめ)が西洋紙に比べて格段に細かいからです。パピエ・ド・リによるシン・コレは、古典的フォトグラヴュールが誇る細密性を最大限に引き出してくれます。

 リュドヴィク・バシェの「1885年サロン展」は、出版された七百二十冊のうち、三十二冊めから七百二十冊めまでのフォトグラヴュールが、中国のパピエ・ド・リを使用したシン・コレとなっています。本品はそのうちの一枚です。







 本品は無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を施しました。上に示したサンプル写真では、同一の額に二種類の別珍張りマットを使用しています。額は八つ切りサイズ、外寸 26 x 32センチメートルの木製で、ごく淡い金色、あるいはわずかに金色がかった銀色の箔が張ってあります。マットは無酸紙でできています。商品価格にはフォトグラヴュール、額、マット、別珍、工賃、税がすべて含まれます。別珍張りマットは、青、クリーム色もご用意できます。

 版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。





本体価格 68,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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