オズワルド・ウォルターズ・ブライアリ作 「航行する大英帝国海軍艦ガラティア号」 雄飛する大英帝国 アーサー・ウィルモアによる海洋画エングレーヴィングの傑作 1875年

H. M. S. "Galatea" on a cruise


原画の作者 オズワルド・ウォルターズ・ブライアリ (Sir Oswald Walters Brierly, 1817 - 1894)

版の作者 アーサー・ウィルモア (Arthur Willmore, 1814 - 1888)


画面サイズ  縦 152 mm  横 262 mm



 激しい波濤のなか、外洋を航行する大英帝国海軍のフリゲート艦、ガラティア号 (H. M. S. Galatea) を描いた作品。憑かれたように船を描き続けたイギリスの海洋画家、オズワルド・ウォルターズ・ブライアリによる作品です。

 ブライアリの作品はいずれも美しいですが、なかでもこの作品は最もドラマティックなもののひとつであり、風景画エングレーヴィングの名手アーサー・ウィルモアの手によって、色彩を捨象したモノトーンの濃淡のうちに、見事な版画作品に仕上がっています。


【原画の作者について】

 オズワルド・ウォルターズ・ブライアリ卿 (Sir Oswald Walters Brierly, 1817 - 1894) は、船の絵を得意としたイギリスの画家です。ロンドンで絵画を、プリマスで造船を学んだ後、1839年に王立アカデミーで作品を展示しました。1841年、当時イギリスの植民地であったオーストラリアに渡って、ニュー・サウス・ウェールズの入植地ボイドタウン (Boydtown) に十年に亙って暮らしました。

 その間、1848年に英海軍艦ラトルスネーク号 (H. M. S. Rattlesnake) に乗り込んでグレート・バリアリーフ、パプア・ニューギニアの東端にあるルイジアード諸島、及びパプア・ニューギニア本島の一部を、また1850年には英海軍艦ミアンダー号 (H. M. S. Meander) に乗り込んでニュージーランド、トンガ、タヒチ等を、それぞれ調査探検しました。1851年、ブライアリはミアンダー号でイギリスに帰国しました。

 ミアンダー号の指揮官はヘンリー・ケッペル提督 (Sir Henry Keppel, 1809 - 1904) でしたが、ブライアリはこの人と親交を結びました。1853年、ケッペル提督は「ミアンダー号によるマレー諸島航海記」("A Visit to the Indian Archipelago in HMS Meander, with portions of the private journal of Sir James Brooke", 2 volumes, 1853).を出版しましたが、ブライアリはこの本に挿絵を描いています。

 翌 1854年、英・仏・トルコ・サルディニアとロシアの間にクリミア戦争が起こると、ケッペル提督は前年に建造された大砲101門の新造艦「サン・ジャン・デイカー号」(H. M. S. St. Jean d'Acre) にブライアリを同乗させて、1855年から海戦の指揮を執りました。ブライアリは「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」(The Illustrated London News) 紙の特約画家として多数の艦に乗り込み、黒海とその内海のアゾフ海、及びバルト海の海戦における連合艦隊の活躍を描きました。1856年にはロンドンで、「ウィリアム・ブラアイアリ氏」(Mr. William Brierly) という名前を使い、「海と海岸の素描集」("Portfolio of Marine and Coastal Sketches") を出しています。

 ブライアリはケッペル提督と親しくなっていましたが、提督はイギリス皇太子エドワード(後の国王エドワード7世 Edward VII, 1841 – 1910)と親しかったので、ブライアリのもとには王室からの制作依頼が来るようになりました。皇太子エドワードは1960年にカナダとアメリカ、翌1861年にドイツを訪問し、1868年には妃を伴ってナイル川を遡りました。またヴィクトリア女王の次男(皇太子の弟)であるエディンバラ公アルフレッド (Alfred, 1844 – 1900) は、1866年、大英帝国海軍のフリゲート艦、ガラティア号 (H. M. S. Galatea) の指揮官となり、翌1867年から1868年までガラティア号で世界各地を歴訪し、いったんイギリスに戻った後、再び1870年まで各国の訪問を続けました。ブライアリはこれらの外国訪問に同行し、航海の様子を描きました。

 エディンバラ公の航海については、公に同行したジョン・ミルナー師 (Reverend John Milner) が著書「ガータ勲章受章者、エディンバラ公閣下が船長を務めた大英帝国海軍艦ガラティア号の航海 1867 - 1868年」("The cruise of H.M.S. Galatea: Captain H.R.H. the Duke of Edinburgh, K.G., in 1867-1868", W. H. Allen, 1869) に記録し、ブライアリが絵を担当しました。ブライアリの作品はサウス・ケンジントンでも展示されました。

 ヴィクトリア女王の御用海洋画家であったジョン・クリスチャン・シェトキー (John Christian Schetky, 1778 - 1874) が亡くなると、ブライアリはその後任に任命されました。1885年にはナイトに叙せられています。ルイジアード諸島のうちのひとつ、ならびにオーストラリアの岬一箇所が、ブライアリに因んで名付けられています。ブライアリはグリニッジにある王立海軍大学 (The Old Royal Naval College) の評議員を務めました。トルコとギリシアからも勲章を受けています。


【版の作者について】

 風景画を得意とするエングレーヴァー、アーサー・ウィルモア (Arthur Willmore, 1814 - 1888) は、1814年6月6日、バーミンガムに生まれました。14歳年上の兄でやはり風景画のエングレーヴァーであったジェイムズ・ティベッツ・ウィルモア (James Tibbetts Wllmore, 1800 - 1863) の下で働いた後、18歳の頃からプレートにサインを入れ始めました。初期の代表作としては、G. N. ライトの「中国」(G. N. Wright, "China", 1843) に収録されたトーマス・アロムの作品10枚、及びW. ビーティの「イングランドの城と修道院」(W. Beattie, "Castles and Abbeys of England", 1845 - 1851) に収録されたバートレットの作品6枚が挙げられます。バートレット作品に関しては、バートレット自身の画集,、すなわち1849年の「ナイルの船」("Nile Boat")、1851年の「主の足跡」("Footsteps of Our Lord")、1853年の「シチリア画集」("Pictures from Sicily")、1854年の「ピルグリム・ファーザーズ」("The Pilgrim Fathers")、1854年の「エルサレム再訪」("Jerusalem Revisited") に収録された作品の版も、数多く手掛けています。

 1876年から1879年にかけて出版された「美しきヨーロッパ」("Picturesque Europe") では、「メルローズ修道院」("Melrose Abbey") の版を担当しています。アーサー・ウィルモアの「メルローズ修道院」は、19世紀イギリスの風景画エングレーヴィングにおいて、筆者(広川)が最も高く評価する作品の一つです。


(下) アーサー・ウィルモアによる「メルローズ修道院」 当店の商品です。




 ブライアリの海洋画に関しては、ブースの「オーストラリア」(Edwin Carton Booth, "Australia", Virtue and Company, London, 1873 - 1876) に収録された作品の版を担当したほか、本品「航行する大英帝国海軍艦ガラティア号」("H. M. S. "Galatea" on a cruise", 1875)、「前衛艦の攻撃」("Attack of the Vangard, 1588", 1884) の版を制作しています。

 アーサー・ウィルモアは1888年11月3日、肺の病気で亡くなりました。病気の原因は、長年、版の上に身をかがめて作業を続けたためといわれています。


【19世紀の軍艦と、ガラティア号について】

 19世紀の軍艦は、海戦における役割によって「戦列艦」(ships of the line) と「フリゲート艦」(frigates) に分かれていました。「戦列艦」は大型の艦で、舷側に多数の大砲、多い場合には百数十門の大砲を備えており、交戦する際には戦列艦同士が縦一列に並んで敵に砲を向けます。フリゲート艦はより小型の軽武装の艦で、船体が軽いゆえに高速であり、連絡や哨戒を中心とした任務にあたりました。

 19世紀は蒸気機関の時代で、軍艦も蒸気船となりました。初期には外輪船も使われましたが、これは敵の攻撃に対して脆弱(ぜいじゃく)であったので、まもなくスクリューが採用されました。また従来通りの帆も備えており、外輪の無いスクリュー推進の軍艦は、帆船と同様の外見をしていました。特にフリゲート艦は身軽な特性を活かして遠距離の航海に使用されましたが、蒸気機関の燃料である石炭が航海中に滞りなく補給できるとは限らなかったので、従来の帆船とまったく変わらない全艤装(ぜんぎそう)が施されました。


 ガラティア号 (H. M. S. Galatea) はグリニッジに近いテムズ川のウルリッチ造船所 (Woolwich Dockyard) で建造され、1859年に進水、1862年に完成した全艤装(フル・リグド full rigged)のフリゲート艦で、26門の大砲を積んでいました。全長 85.3メートル、キール長 74.9メートル、ビーム長 15.2メートル、排水量 4,686トンで、800英馬力の機関を積み、スクリューは一基、乗組定員は450名でした。






【この版画について】

 この版画はD. アップルトン社 (D. Appleton & Company, New York) が出版した1875年版「アート・ジャーナル」("Art Journal") から採られたもので、厚みのある上質の中性紙に刷られています。版画技法はスティール・エングレーヴィングで、部分的にエッチングを併用しています。

 「ガラティア号」は全艤装(フル・リグド)、つまり三本のマストに横帆を張ったフリゲート艦で、スクリュー推進の蒸気船ではありますが、帆船と同様の外見です。この版画では強風ゆえにいくつかの帆を閉じ、外洋の激しい波に翻弄されつつも、風力をうまく利用して快速で航行しています。

 この作品「航行する大英帝国海軍艦ガラティア号」("H. M. S. Galatea on a cruise") は、エングレーヴァー、アーサー・ウィルモア (Arthur Willmore, 1814 - 1888) がおよそ60歳の時に制作した作品です。ウィルモアは円熟した技術によって、波濤を蹴って進む軍艦ガラティア号の姿を、美しく力強いタッチで描いています。


 一見したところ、この作品は海と船を描いた単なる風景画のように見えます。しかしながらこの版画が制作された1875年は、蒸気機関の発明によって産業革命が起こり、「人類進歩の思想」が自明のこととして信じられていた時代でした。科学技術はますます発展し、人類はより幸福になり、未来は限りなく明るいと信じられていました。

 飛行船の初飛行成功が1852年、ナダールが気球でパリを空撮したのが1858年、ジュール・ヴェルヌが「海底二万マイル」("Vingt mille lieues sous les mers") を発表したのが1870年です。帆船の優美さを持ちながらも先進の蒸気機関を備えたスクリュー推進のフリゲート艦「ガラティア号」を描いたこの作品を、時代のコンテクストに置くならば、この力強い作品が当時の人々の胸中に喚び起こしたであろう印象を、21世紀の我々も感じ取ることができます。

 自然の元素と戦いつつ進むガラティア号の雄姿は、モノトーンの版画となることで明暗が強調され、何物にも邪魔されずに意志的に歩み、光へと向かう人間の勇気と叡智を象徴しています。「航行する大英帝国海軍艦ガラティア号」は、1875年という時代の雰囲気を敏感に反映した作品であり、ブライアリとウィルモアはこの作品において、強大な自然に対する人間の勝利を高らかに謳い上げているのです。


 画面下中央には、作品名「航行する大英帝国海軍艦ガラティア号」(H. M. S. "Galatea" on a cruise) が彫られています。"H. M. S." とは "Her Majesty's Ship"(女王陛下の船)の意味です。画面下の左には原画の作者名、右には版の作者名が、それぞれ次のように彫られています。

O. W. BRIERLY, PINXt  O. W. ブライアリが(原画を)描いた。

A. WILLMORE, SCULPt   A. ウィルモアが(版を)彫った。


 この作品を含め、19世紀のエングレーヴィングにおいては、版画の左下に原画の作者名、右下に版の製作者名を記し、原画の作者名のあとには PINXT を、版の製作者名のあとには SCULPT を付けます。それぞれラテン語で PINXIT(絵の具で描いた)、SCULPSIT(彫った)の意味です。

 本品は非常に良い保存状態で、特筆すべき問題は何もありません。およそ140年前のものとはにわかに信じ難いほどです。


【額装について】

 版画は未額装のシートとしてお買い上げいただくことも可能ですが、 当店では無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を提供しています。下の写真は額装例で、外寸 40 x 31センチメートルの木製額に、青色ヴェルヴェットを張った無酸マットを使用しています。この額装の価格は 24,800円です。



 額の色やデザインを変更したり、マットを替えたりすることも可能です。無酸マットに張るヴェルヴェットは赤や青、ベージュ等に変更できますし、ヴェルヴェットを張らずに白や各色の無酸カラー・マットを使うこともできます。


 アンティーク・エングレーヴィングの細密さは、原寸大の写真によって再現することができません。コンピューターのモニターで表示するために、版画の全体像を把握しやすいサイズまで画素数を落とすと、細部はすべて失われます。細部がどのように彫られているかを示すためには、版画の数か所を選んで接写し、顕微鏡写真のような拡大写真で示すしかありませんが、拡大写真は現物のサイズとかけ離れています。これに加えて、現物のアンティーク・エングレーヴィングは、拡大写真でも判別が困難な細密さを有しており、それらの細部は版画作品の全体を肉眼で見たときの驚くべき写実性に貢献しています。

 私がここに書いていることを理解するには、現物をご覧いただくしかありません。アンティーク・エングレーヴィングの現物は写真で見るよりもはるかに美しく、購入された方には必ずご満足いただけます。


 版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。





エングレーヴィングの本体価格 45,800円 在庫切れ 取り寄せの可否はお問い合わせください。

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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