手彩色石膏彫刻 《ジェルメーヌ・クザン 花の奇跡 高さ 39 cm》 優しい聖女の悲しみ フランス第二帝政期 1850 - 70年頃


重量 1,750 g

台座を含む全体の高さ 39 cm  像の最大幅 12 cm  台座の直径 14 cm



 ピブラックの聖ジェルメーヌ・クザン(Ste. Germaine Cousin de Pibrac, 1579 - 1601)を模(かたど)った石膏像。十九世紀半ば、第二帝政期のフランスで制作された作品です。




 聖ジェルメーヌ・クザン(Ste. Germaine Cousin, 1579 - 1601)はトゥールーズの西十数キロメートルにある村、ピブラック(Pibrac オクシタニー地域圏オート=ガロンヌ県)の貧しい農夫の家庭に生まれました。生まれつき右手が変形しており、病弱であったために瘰癧(るいれき)に罹りました。瘰癧とは結核菌によるリンパ節炎のことで、抗生物質の無かった時代にはよく見られた病気です。パリまで行けば国王に触れてもらって治すことも期待できましたが、ピブラックはパリから直線距離でも五百八十キロメートル離れており、ジェルメーヌが国王に拝謁するなどということは考えられませんでした。





 ジェルメーヌは幼くして母を亡くし、再婚した父はジェルメーヌに愛を注ぎませんでした。また幼いジェルメーヌは継母からも疎まれて、眠るにもベッドを使わせてもらえず、躾(しつけ)と称して殴打される、熱湯を掛けられる等の虐待を受けました。継母の子供たちに瘰癧がうつるのを防ぐためと称して、ジェルメーヌは九歳のときに家の中から追い出され、羊の番をさせられました。夜になると家に帰り、納屋の藁、あるいは屋根裏の寝床で眠りました。屋根裏の寝床とは、葡萄の小枝を集めたものでした。





 ジェルメーヌはひとりきりで羊の番をしながら、紐に結び目をつけて作ったロザリオで祈りました。また教会のミサには必ず出席し、羊の番をしている時でも、ミサの時間になると、羊たちを守護天使に委ねて教会に行きました。ジェルメーヌが羊の番をしていた場所は森に接しており、森にはオオカミがたくさんいましたが、ジェルメーヌの羊がいなくなることはありませんでした。また近所の子供たちを集めて教理問答を教えたり、パンと水だけの貧しい食事のなかから、空腹な子供にパンを分け与えたりしました。





 ある日ジェルメーヌが羊の世話に出かけたときのこと、継母はジェルメーヌが盗んだパンをエプロンに隠していると考え、手に棒を持ってジェルメーヌの後を負いました。継母はクザン家に向かう数人の村人と路上ですれ違いましたが、怒りにゆがんだ継母の形相を見た村人たちはジェルメーヌが暴行されるに違いないと考え、ジェルメーヌを救おうと道を引き返して継母を追いました。継母と村人たちがジェルメーヌのもとに現れ、村人達がジェルメーヌにエプロンを開かせると、時は真冬であったにもかかわらず、夏の花々が零れ落ちたと伝えられます。





 この出来事は最もよく知られているジェルメーヌの奇蹟で、本品石膏像の主題ともなっています。なお上に引用した奇跡の描写は、パリのヴィクトル・ルコフル書店から 1917年に出版された「聖ジェルメーヌ・クザン」によります(Louis Veuillot, Ste. Germaine Cousin, Librairie Victor LeCoffre, Paris, 1917, pp. 56 - 57)。同書の著者ルイ・ヴイヨ(Louis Veuillot, 1813 - 1883)はフランスの作家で、篤信のカトリック信徒として知られます。

 村人たちは信心深いジェルメーヌを最初のうちは小馬鹿にしていましたが、やがてジェルメーヌの聖性に打たれ、彼女を聖女として敬うようになりました。父は継母がジェルメーヌを苛めることを禁じ、ジェルメーヌにはまともなベッドで眠るよう勧めましたが、ジェルメーヌはこれを断って、従来通りの生活を続けました。





 1601年、22歳のときに、ジェルメーヌはブドウの小枝の寝床で亡くなりました。朝、いつもの時間に起きてこないのを不審に思った父が様子を見に来て、冷たくなった娘を見つけたのでした。ジェルメーヌの遺体はピブラックの聖堂内、説教壇の前に埋葬されました。

 1644年に墓所が開かれた際、ジェルメーヌの遺体がまったく腐敗していないことが判明し、信徒たちが遺体を見ることができるように、説教壇の傍らに安置されました。その後、ある貴婦人がジェルメーヌの執り成しによって胸にできた悪性の潰瘍を癒され、さらに病気で死にかけた幼い息子も助かったことを感謝して、鉛張りの柩を寄贈し、ジェルメーヌの遺体はこの柩に納められて聖具室に安置されました。ジェルメーヌの柩は 1661年と 1700年に開けられ、いずれのときもトゥールーズの司教総代理によって検認されましたが、腐敗は起こらず、亡くなった時のままでした。フランス革命期の 1793年にジェルメーヌの遺体は棺から取り出されて、聖具室の床に掘った穴に一緒に投げ込まれ、上から生石灰と水を撒かれましたが、革命後に掘り出された遺体は傷んでいませんでした。


 ジェルメーヌに対する崇敬は、1644年に不朽の遺体が見つかって以来続いていましたが、1850年には列福に向けての手続きが始まり、400以上の奇跡の事例が教皇庁に報告されました。その結果、教皇ピウス九世はジェルメーヌを 1854年5月7日に列福、1867年6月29日に列聖しました。聖ジェルメーヌは病気や障害、貧困、虐待に苦しむ人の守護聖女です。トゥールーズ司教区における聖ジェルメーヌの祝日は6月15日です。





 近代フランス社会は保守と革新の間を激しく揺れ動きます。1852年から 1870年まで続いた第二帝政期は、カトリック教会の力が強まった保守的な時代でした。近現代の聖母や聖人の家庭用石膏像は高さ数センチメートルから十数センチメートル程度である場合がほとんどですが、本品は台座を含めて 39センチメートルの高さ、1,750グラムの重量があり、フランス第二帝政期の雰囲気を色濃く反映する稀少な作例です。優れた造形と丁寧な手彩色はこの時代の祈りを吸い込んで、キッチュ(俗悪)な量産品とは一線を画します。





本体価格 138,000円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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