ピブラックの聖ジェルメーヌ・クザン
Ste. Germaine Cousin de Pibrac
聖ジェルメーヌ・クザン (Ste. Germaine Cousin, 1579 - 1601) はトゥールーズの西十数キロメートルにある村、ピブラック
(Pibrac) の貧しい農夫の家庭に生まれました。生まれつき右手が変形しており、病弱であったために瘰癧(るいれき)に罹り、また幼くして母を亡くしました。再婚した父はジェルメーヌに愛を注がず、幼いジェルメーヌは継母からも疎まれて、眠るにもベッドを使わせてもらえず、また「しつけ」と称して殴打される、熱湯を掛けられる等の虐待を受けました。
継母の子供たちに瘰癧がうつるのを防ぐためと称して、ジェルメーヌは9歳のときに家の中から追い出され、羊の番をさせられました。夜になると家に帰り、納屋の藁、あるいは屋根裏の寝床で眠りました。屋根裏の寝床とは、葡萄の小枝を集めたものでした。
ジェルメーヌはひとりきりで羊の番をしながら、紐に結び目をつけて作ったロザリオで祈りました。また教会のミサには必ず出席し、羊の番をしている時でも、ミサの時間になると、羊たちを守護天使に委ねて教会に行きました。ジェルメーヌが羊の番をしていた場所は森に接しており、森にはオオカミがたくさんいましたが、ジェルメーヌの羊がいなくなることはありませんでした。また近所の子供たちを集めて教理問答を教えたり、パンと水だけの貧しい食事のなかから、空腹な子供にパンを分け与えたりしました。
ある日、継母が、盗んだパンをエプロンに隠しているとジェルメーヌを責め、手にした棒で叩こうとしました。ジェルメーヌがエプロンを広げると、時は真冬であったにもかかわらず、夏の花々がこぼれおちました。
「夏の花の奇蹟」のカニヴェ。
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またジェルメーヌが雪融けで増水したクールベ川を渡ろうとすると、川が道を開き、ジェルメーヌは水に濡れずに向こう岸に渡ったともいわれています。
「クールベ川の奇蹟」のメダイ。
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村人たちは信心深いジェルメーヌを最初のうちは小馬鹿にしていましたが、やがてジェルメーヌの聖性に打たれ、彼女を聖女として敬うようになりました。父は継母がジェルメーヌを苛めることを禁じ、ジェルメーヌにはまともなベッドで眠るよう勧めましたが、ジェルメーヌはこれを断って、従来通りの生活を続けました。
1601年、22歳のときに、ジェルメーヌはブドウの小枝の寝床で亡くなりました。朝、いつもの時間に起きてこないのを不審に思った父が様子を見に来て、冷たくなった娘を見つけたのでした。ジェルメーヌの遺体はピブラックの聖堂内、説教壇の前に埋葬されました。
1644年に墓所が開かれた際、ジェルメーヌの遺体がまったく腐敗していないことが判明し、信徒たちが遺体を見ることができるように、説教壇の傍らに安置されました。その後、ある貴婦人がジェルメーヌの執り成しによって胸にできた悪性の潰瘍を癒され、さらに病気で死にかけた幼い息子も助かったことを感謝して、鉛張りの柩を寄贈し、ジェルメーヌの遺体はこの柩に納められて聖具室に安置されました。ジェルメーヌの柩は
1661年と 1700年に開けられ、いずれのときもトゥールーズの司教総代理によって検認されましたが、腐敗は起こらず、亡くなった時のままでした。フランス革命期の
1793年にジェルメーヌの遺体は棺から取り出されて、聖具室の床に掘った穴に一緒に投げ込まれ、上から生石灰と水を撒かれましたが、革命後に掘り出された遺体は傷んでいませんでした。
ジェルメーヌに対する崇敬は、1644年に不朽の遺体が見つかって以来続いていましたが、1850年には列福に向けての手続きが始まり、400以上の奇跡の事例が教皇庁に報告されました。その結果、教皇ピウス9世はジェルメーヌを
1854年5月7日に列福、1867年6月29日に列聖しました。
図像における聖ジェルメーヌは、羊飼いの杖または糸巻き棒を持つ少女の姿、あるいは夏の花々がエプロンから咲きこぼれる少女の姿で表されます。傍らには羊または牧羊犬を伴います。
聖ジェルメーヌは病気や障害、貧困、虐待に苦しむ人の守護聖女です。トゥールーズ司教区における聖ジェルメーヌの祝日は6月15日です。
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