聖ルネ・グピル
St. René Goupil
カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)のひとりである聖ルネ・グピル (St René Goupil, 1608 - 1642) はフランス北東部ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏アンジェ
(Angers) 近郊の小村サン=マルタン=デュ=ボワ (Saint-Martin-du-Bois) に生まれました。パリでイエズス会の修練士となりますが、耳が不自由で体も弱かったために、やむを得ず数ヵ月後に退会し、ヌーヴェル=フランスのイエズス会士のもとで、「ドネ」(donne)
として,、医療を通じて宣教活動に加わることを選びました。ドネとは 17世紀ヌーヴェル=フランスにおけるイエズス会の宣教活動を支援した人たちのことで、俗人でありながらイエズス会の命じる仕事に身をささげて生涯を送る誓いを立てていました。
1640年、聖ルネ・グピルはケベックに渡ってイエズス会の雑用係として 2年間働き、また医師としての仕事もこなしました。1642年 7月、ヒューロン族の地で宣教活動に携わる
聖イザック・ジョーグ (St. Isaac Jogues, 1607 - 1646) らがケベックを訪れた際、現地のイエズス会の上長者ヴィモン神父 (Barthelemy Vimont, 1594 - 1667) に対して、現地で緊急に必要とされている外科医として聖ルネ・グピルを連れ帰りたいとの申し出があり、これが許可されて
8月 1日にケベックを出発しました。
ここからあとの記述は、聖イザック・ジョーグの証言に基づきます。翌 8月 2日、一行を乗せたカヌーはイロクォワ族に属するモホーク族の待ち伏せに遭い、同行したヒューロン族のほとんどは逃げ、フランス人たちは24、5人のヒューロン族とともに捕虜になりました。聖ルネ・グピルは聖イザック・ジョーグに告悔をして罪の赦しを受け、すべてを神の摂理に任せました。
モホーク族はその場で聖人たちの爪をはがす、指を潰すなどの拷問を行い、捕虜にしたヒューロン族を一人殺したあと、彼らとともにシャンプラン湖(シャンプレイン湖)畔の村に向かいました。連行される途中、聖ルネ・グピルは聖イザック・ジョーグに対してイエズス会の誓願を行い、また自ら傷を負いながらも、捕虜仲間のみならずモホーク族にも同等の熱意を持って傷の治療を行いました。連行中の監視の目は比較的緩やかであったので、聖イザック・ジョーグは聖ルネ・グピルに逃げるように諭しましたが、聖ルネ・グピルはすべてを主のご意志にお任せしますと答えて、逃げようとしませんでした。
シャンプラン湖畔の村には 200人のモホーク族が一行を待ち受けており、聖人たちは棍棒や鉄棒で殴打され、村の中心に設置された枷に繋がれました。モホーク族は半死半生の聖ルネ・グピルをさらに3回、棍棒で力任せに殴りつけ、聖イザック・ジョーグの左親指を切断した後、聖ルネ・グピルの右手の親指も切断しました。その間、聖ルネ・グピルは「イエズス、マリア、ヨセフ」と唱え続けていました。聖人たちは枷に繋がれた状態のまま6日間放置され、村人たちから虐待され続けました。夜になると子供が聖人たちに赤熱した石炭や砂を投げつけました。聖イザック・ジョーグはその多くをうまくかわしましたが、敏捷に動けない聖ルネ・グピルは大やけどを負いました。しかし聖人はそれでも子供たちに優しく接しました。
モホーク族が聖人たちを捕虜にしておよそ 6週間後の 9月 29日、聖イザック・ジョーグと聖ルネ・グピルが祈るために村外れに出かけると、モホーク族の若者ふたりがやってきて、村に戻れと命じました。村の入り口まで来ると、男のひとりが隠し持っていたトマホークで聖ルネ・グピルの頭部を一撃し、聖人はイエズスの御名を唱えながらうつぶせに倒れました。聖イザック・ジョーグと聖ルネ・グピルは、天に召される際にはイエズスの御名を唱えようと、かねてから話し合っていたのでした。
聖イザック・ジョーグもトマホークの一撃を覚悟して跪きましたが、男たちは何もしようとしなかったので、瀕死の聖ルネ・グピルのもとに駆け寄り、罪の赦免を与えました。男たちは聖イザック・ジョーグの頭部をトマホークでさらに2回殴り、聖人は絶命しました。
モホーク族はプロテスタントのオランダと同盟関係にあり、フランス人のカトリック信仰を毛嫌いしていました。聖ルネ・グピルがフランス人のなかでまっさきに殺されたのは、カトリック信仰の業を隠そうとしなかったせいでした。
聖人はモホーク族の家に収容されていましたが、その家の主人である年長の男の前でも堂々と祈っていました。ある日、その家で愛らしい 4歳の幼児を見かけた聖人は自分の被り物を取って幼児の頭に載せ、十字の切り方を教えました。これを見た男は、同居する若者に聖人を殺すことを命じ、若者はそれを実行したのでした。
祈りの際に跪く聖イザック・ジョーグに対して、モホーク族は「われわれがお前を殺そうとするのは、お前たちがそのように振る舞うからだ。お前の仲間の男(聖ルネ・グピルのこと)を殺したのも、十字を切ったからだ。われわれの友オランダ人はそのような振る舞いをしない。」と言いました。
聖イザック・ジョーグは聖ルネ・グピルを埋葬するために、命懸けで村の囲い柵の外に出て聖人の遺体を探し、村のそばの川岸で遺体を見つけました。遺体は子供たちが首に縄をかけて引きずってきたまま放置され、犬が脇腹の一部を食いちぎっていました。聖イザック・ジョーグは次の日に埋葬するつもりで遺体を隠しましたが、若者たちがそれに気付いて聖人の遺体を近くの林に隠し、聖イザック・ジョーグは聖人を埋葬することができませんでした。春になって聖イザック・ジョーグがついに聖人を見つけたとき、遺体は動物に食べられて、頭と数本の骨だけになっていました。
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