聖オディリア、聖オディル、聖オッティーリエ
SANCTA ODILIA, Ste Odile, Hl. Ottilie, c. 660 - 720
(上) 聖オディリア Ste. Odile
ストラスブール司教区のウェブサイトから
聖オディルまたは聖オッティーリエ、聖オディリア(仏 Ste Odile 独 Hl. Odilia/Ottilie 羅 SANCTA ODILIA,
c. 660 - 720 註1)はアルザス公を父に持つメロヴィング時代の聖女で、アルザスの聖地として知られるオアンブール女子修道院(l'abbaye
de Hohenbourg 註2)の創設者及び初代院長です。聖オディリアは教皇レオ九世(Leo IX, 1002 - 1049 - 1054)によって列聖されました。カトリック教会では12月14日、正教会では12月13日が祝日となっています。
聖オディリアは近世以前から目が不自由な人の守護聖人、ならびにアルザスの守護聖人とされてきました。1946年、教皇ピウス十二世は聖オディリアがアルザスの守護聖人であることを正式に宣言しました。ロレーヌのジャンヌ・ダルクと並んで、アルザスの聖オディリアはグラン・テスト地域圏の最も重要な聖人です。2020年12月13日からの一年間、ストラスブール大司教区では聖オディリア千三百年祭が祝われました。
【聖オディリアの生涯】
聖オディリアの伝記としては 950年よりも少し早い時期に書かれた逸名著者の聖オディリア伝がありますが、その内容は奇跡譚を鏤(ちりば)めた
ハギオグラフィ(聖人伝)であり、歴史的資料としての有用性は限られています。
・前半生
(上) 聖オディリアの両親であるアルザス公夫妻、アダルリックとベルスウィンデ ベルシュ(Bœrsch グラン=テスト地域圏バ=ラン県)の画家シャルル・シュピンドラー(Charles Spindler, 1865 - 1938)がオアンブール女子修道院に描いたフレスコ画の一部
聖オディリア(Ste Odile, Odile de Hohenbourg, c. 660 - 720)はフランスとドイツの国境に近いオベルネ(Obernai グラン=テスト地域圏バ=ラン県)で、アルザス公エティション=アダルリック(Etichon-Adalric
d'Alsace, c. 635 - 690 註3)とその妃ベルスウィンデ(Berswinde/Bereswinde d'Austrasie,
c. 640 - 690 註4)の間に、最初の子供として生まれました。跡継ぎの息子を欲しがっていたアダルリックは女の子が生まれたことに失望しましたが、そのうえ娘が生まれつき盲目であったので、子供の命を絶とうと考えました。妻のベルスウィンデは夫をなんとか説得して娘を乳母に預け、オベルネから南西に百四十キロメートル以上離れたパルマ(Palma)、現在のボーム=レ=ダム(Baume-les-Dames ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ドゥー県 註5)のベネディクト会修道院に退避させました。少女は修道院で育てられましたが、洗礼は受けていませんでした。
少女が十三歳になった頃、ラインラントで宣教を行っていた聖エルハルト(St. Erhard de Ratisbonne 註6)が神の声を聴き、ボーム=レ=ダムのベネディクト会修道院で盲目の少女に洗礼を施すように命じられました。聖エルハルトは啓示に従い、数日後、少女に洗礼を授けました。その際聖エルハルトが少女の眼に聖油を塗ると、少女の視力が回復したと伝えられます。このときから少女はオディリアと呼ばれるようになりました(註7)。視力回復の奇跡は大きな評判を呼びました。
オディリアは修道生活に身を捧げました。ボーム=レ=ダム修道院を訪れる巡礼者から、オディリアは自分に男四人と女一人、合計五人の兄弟がいることを知りました。兄弟の一人フゴン
Hugon(ユーグ Hugues)は数週間後にオディリアを父アダルリックのもとに連れ帰りますが、父はオディリアを受け容れようとしないのみか、オディリアを連れ帰った息子フゴンに腹を立て、フゴンの頭を笏で殴って殺してしまいました(註8)。
息子を殺害した直後に、アダルリックは自らの行いを深く悔いて、城に付属する建物にオディリアが住むことを許しました。城に居場所を得たオディリアは質素な生活を送り、貧者と病者への奉仕に励みました。やがて父アダルリックはオディリアを家族として徐々に受け容れ、またオディリアの信仰生活を理解して助力するようになりました。
・オアンブール女子修道院とニーダーミュンスターの建設
(上) オアンブール女子修道院 鐘楼頂上の聖オディリア像がアルザスを見守っています。
七世紀当時、ヴォージュ山地のモン・サントディル(Mont Sainte-Odile 聖オディル山、聖オディリア山)は、モン・オアンブール(Mont
Hohenbourg ホーエンブルク山)すなわち高き砦の山と呼ばれていました。アダルリックがこの山の頂に建てたのが、オアンブール城(ホーエンブルク城 註9)です。オアンブール城は当初は夏だけの住居でしたが、アダルリックは新しい城を気に入って、ここで過ごす期間がだんだん長くなっていました。やがて娘オディリアの宗教的献身を理解するようになったアダルリックはオアンブール城を娘に譲ることにし、オディリアは自身が孤児として住んでいたパルマ(ボーム=レ=ダム)の修道院をモデルにして、この城を女子修道院に改装しました。
こうして創設されたオアンブール女子修道院(l'abbaye de Hohenbourg)には大勢の若い女性が集まり、その中にはオディリアの妹や三人の姪たち(兄弟のうちひとりの娘たち)も含まれていました。オディリアは修道院内に二つの礼拝堂を設け、一方を聖母マリアに、もう一方を
洗礼者ヨハネに捧げました。
オアンブール女子修道院は俗世間と隔絶された山頂にあるゆえに、若い世代の修道生活には適していましたが、病者や高齢者に適した場所とは言えませんでした。それゆえオディリアは体力が弱い巡礼者たち、修道者たちのため、山頂の修道院とは別にニーダーミュンスター(独 Niedermünster 下の修道院)を建設しました。
・後年の聖オディリア
(上) 修道院長オディリアの小聖画。向かって左は十九世紀後半ないし二十世紀初頭の一枚物コロタイプで、サイズは 110 x 69ミリメートル。裏にフランス語の祈りが刷られています。右は
1899年の小冊子で、二枚重ねにしたほぼ正方形の紙を真ん中で二つ折りにし、表紙と裏表紙を合わせて八ページの小冊子としています。閉じた状態のサイズは
95 x 50ミリメートル。中身はドイツ語です。いずれも当店の商品。
オディリアの両親は資産を子供たちに分与し、オアンブール女子修道院にも多額の寄進をしました。両親はオディリアのもとに身を寄せて暮らし、やがて九日の間隔で相次ぎ亡くなりました。オディリアは罪深かった父のために五日間の連祷を行い、その終わりに父が煉獄を出て天国に迎え入れられるさまを幻視しました。
オディリアは 720年12月13日に亡くなりました。聖オディリアを信仰の指導者と仰いだ人々や、聖オディリアの庇護を受けていた貧者と病者の弔問の列は、一週間のあいだ途切れなかったと伝えられます。
【オアンブール女子修道院と「ホルトゥス・デーリキアールム」】
(上) モン・サントディル山頂のオアンブール女子修道院、別称モン・サントディル修道院
モン・サントディル山頂の
オアンブール女子修道院、別名モン=サントディル修道院(仏 Couvent du Mont-Sainte-Odile)は、聖オディリアの没後、巡礼地となりました。フランクのカール大帝(Charlemagne, + 814)、及び西フランクを継承した子のルイ敬虔(ルイ一世 Louis le Pieux, 778 - 840)はオアンブール女子修道院にライヒスフライハイト(独 Reichsfreiheit)すなわち皇帝に直属する特権的地位を与えました。しかしながらその後の修道院は東方から侵入したマジャール人や戦争で敵方となったヨーロッパ人の軍隊、傭兵崩れの武装集団、宗教戦争時代のプロテスタント勢力、フランス革命期の反宗教勢力などにたびたび襲撃され、放火や落雷、森林火災の延焼などによって何度も焼け落ちました。
フランス革命で国有財産となった旧オアンブール城は最終的に修道院として復活し、現在は祈りの場であるとともに、巡礼者と観光客を受け容れる宿泊施設ともなっています。聖オディル信心会(仏
la Confrérie de Sainte-Odile)によって 1931年7月5日に始まった常時聖体礼拝(仏 l'Adoration eucharistique
perpétuelle)は、オアンブール女子修道院において今日まで途切れず続いています。
(上) ヘラド・ド・ランズベールによる
自由学芸七科 手稿本「ホルトゥス・デーリキアールム」(羅 HORTUS DELICIORUM 歓びの庭)の挿絵を写したもの
なお十二世紀の百科全書とも呼ばれる
「ホルトゥス・デーリキアールム」(羅 Hortus deliciarum 歓びの庭)は、1167年から 1195年までオアンブールの女子修道院長であったヘラド・ド・ランズベール(Herrade de Landsberg, Herrada
Landsbergensis, c. 1125/30 - 1195)が、若い修道女たちのために自ら制作したラテン語の手稿本です。「ホルトゥス・デーリキアールム」はおよそ九千人の人物像を含む六百三十六の独創的な挿絵に彩られ、その内容は詩、音楽、思想、自然科学、歴史などあらゆる分野に及びます。
「ホルトゥス・デーリキアールム」は制作後ずっとオアンブール女子修道院にありましたが、フランス革命期にストラスブール市の文書館に移されました。挿絵は写しが制作され、1818年にシュトゥットガルトのコッタ書店(Cotta)から出版されました。1879年から
1888年には挿絵の一部を多色で写したものを含め、同書の本文がシュトラウプ・ウント・ケラー書店(Straub und Keller)から出版されました。元の手稿本は
1870年の普仏戦争時、文書館の火災により失われています。
【ボーム=レ=ダムの聖オディル修道院】
(上) ボーム=レ=ダムのサントディル修道院
オディリアの父であるアルザス公エティション=アダルリックは跡継ぎの男子を望んでいましたが、長子オディリアは女子であるのみか盲目に生まれついたゆえに、父はオディリアを殺そうとしました。これに対して篤信の女性であった母はオディリアに乳母を付けて遠いパルマ(Palma)、現在のボーム=レ=ダム(Baume-les-Dames ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ドゥー県)の修道院に退避させました。オディリアは十三歳までこの修道院で育ち、聖エルハルトから洗礼を受けました。
オディリアが子供時代を過ごした修道院は、ブザンソン司教聖ジェルマン(St. Germain de Besançon)によって四世紀に創建されたベネディクト会の女子修道院です。この修道院は聖オディリアの時代よりも以前から存在していましたが、現在では聖女の名を取ってサントディル修道院(仏
l'abbaye Sainte-Odile de Baume-les-Dames)と呼ばれています。
【聖オディリアの聖遺物】
聖オディリアの遺体はオアンブール女子修道院の石棺に納められました。プラハ司教座聖堂サン=ギィ(Katedrála svatého Víta,
la cathédrale Saint-Guy)に聖遺物(遺体)の一部を移葬するため、神聖ローマ皇帝カール四世(Karl IV, 1316 -
1355 - 1378)は聖オディリアの石棺を開けさせましたが、聖女の遺体は腐敗していませんでした。
フランス革命期の 1793年、聖オディリアの遺体はオアンブール女子修道院からオットロット(Ottrott グラン・テスト地域圏バ=ラン県)に移して秘匿され、翌年修道院に侵入した暴徒の手を逃れました。聖オディリアの遺体は 1800年になってようやく、オットロットからオアンブール女子修道院に戻されました。
【図像における聖オディリア】
(上) フランスの古い絵葉書 イゴール作 《サントディル アルザスの守護聖女》 137 x 90 mm P. J. Gallais &
Cie, éditeurs, Paris. Visé 365 当店の商品
聖画像やステンドグラスに描かれる聖オディリアはベネディクト会修道女の姿で、多くは一方の手に修道院長の牧杖を、もう一方の手にベネディクト会則を象徴する本を持っています。本は見る者に向かって開かれており、ページには二つの眼が付いています。牧杖と本のそれぞれが左右どちらの手にあるかは、作例によって異なります。
聖オディリア像において、貂(てん)の襟や豪奢な刺繍襟付きの、修道服に相応しからざるマントが描かれることがあります。上に示した小聖画はその一例で、聖女が羽織る天鵞絨(ビロード)のマントは高貴な紫に染められ、縁には金糸による幅広の刺繡があります。このように豪華な装いはオディリアがアルザス公家出身の公女であることを示します(註10)。
【各地の聖オディリア教会】
聖オディリアに奉献された教会が最も多いのはドイツで、スイスとフランスがこれに次ぎます。
(上) シント・オーディリェンベルフ、聖ウィロのバシリカ(Basiliek van de H.H. Wiro)にあるトレーネンカペッレ(Thränenkapelle) 当店の商品
オランダ南部、ドイツ国境に近いルールダレン(Roerdalen)には、聖女に因んでシント・オーディリェンベルフ(Sint Odiliënberg)と名付けられた集落があります。シント・オーディリェンベルフには聖ウィロのバシリカ(Basiliek
van de H.H. Wiro)があります。バシリカ内のトレーネンカペッレ(独 Thränenkapelle 涙の礼拝堂 註11)は、聖オディリアに奉献されています。
(上) パリ十七区のレグリーズ・サントディル(l'Église Sainte-Odile 聖オディル教会) フランスの古い絵葉書
フランスではアルザスとイール=ド=フランスに大小聖堂が分布します。パリ十七区のレグリーズ・サントディル(l'Église Sainte-Odile 聖オディル教会)はジャック・バルジュ(Jacques
Henri Barge, 1904 - 1979)の設計により、1935年から 1946年にかけて建設された大規模な聖堂です。
(上) コートジボワール、ボンドゥクの司教座聖堂サントディル(la Cathédrale Sainte-Odile de Bondoukou)
コート=ジボワールのボンドゥク(Bondoukou)には司教座聖堂サントディルがあります。ボンドゥクはコートジボワール内陸の東端、ガーナとの国境近くにある人口約十四万人の都市で、司教座聖堂サントディルはコートジボワールでも大規模な宗教建築の一つとして知られています。
註1 |
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オディル、オディリアはオディロン(Odilon)の女性形、オッティーリエ(Ottilie)はオットー(Otto)の女性形で、これらの名が共通に有するゲルマン語の語根(-od,
-ot)は財産、豊かさを表すフランク語アウド(再建形 *aud)に由来する。ラテン語形はオディリア(Odilia)。 |
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註2 |
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アッシュ(H)で始まるゲルマン語起源の名詞において、語頭のアッシュはしばしばアスピレである。特に "ho-" で始まるゲルマン語系名詞の語頭は、たいていアスピレである。オアンブール(Hohenbourg)もアッシュ・アスピレで始まるから、直前のド(de)とリエゾンしない。モン・オアンブール(Mont
Hohenbourg)についても同様である。 |
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註3 |
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聖オディリアの父エティション=アダルリックは 662年から 690年まで アルザス公(duc d'Alsace)であった。父エティション=アダルリックの名は
Eticho, Aticus, Attich, Etih, Chadalricus の綴りで文書に現れる。
エティション=アダルリックはエーベルスミュンスター(Ebersmunster グラン・テスト地域圏バ=ラン県)のベネディクト会修道院(l'abbaye
d'Ebersmunster)に多額の寄進を行った。
ベネディクト会エーベルスミュンスター修道院はアルザスにおける信仰の一大中心地であり、フランス革命時まで存続した。修道院付属聖堂はフランス革命時の破壊を免れたが、第二次世界大戦時に大きく損壊し、1997年から
1999年にかけて大規模な修復作業が行われた。現在は教区教会サン・モーリスとして機能している。 |
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註4 |
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ベネディクト会修道院エーベルスミュンスター修道院で書かれたエーベルスハイム年代記(das Chronicon Ebersheimense)によると、聖オディリアの母ベルスウィンデはオータン司教レオデガリウス(聖レジェ St.
Leodegarius/Léger d'Autun, c. 616 - 678)の姪であり、アウストラシア王シギスベルトゥス三世(聖シギスベルト Sigisbert
III, St. Sigisbert, c. 630 - 656)の妃キムネキルディス(Chimnechildis/Chimnechilde)とは姉妹関係にあった。
ベルスウィンデは篤信の女性であった。自らの富を貧者への施しにのみ使い、しばしば独りで部屋に閉じこもって聖人伝や信心書を読み耽っていたと伝えられる。 |
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註5 |
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ボーム=レ=ダムがあるドゥー県(le département du Doubs)はフランシュ=コンテの一部。ボーム=レ=ダムの現在の人口は、五千人ほどである。 |
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註6 |
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聖エルハルトはアイルランド中央部レンスター地方ロングフォード伯領のアルダグ(Ardagh)に生まれ、宣教師としてフランスに渡った。初めはヴォージュ、次いでレーゲンスブルク
Regensburg(ラティスボンヌ Ratisbonne)に居を定め、レーゲンスブルク司教座聖堂付属修道院(das Stift Niedermünster)を創設した。 |
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註7 |
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洗礼以前の少女が全くの無名であったはずはなく、何らかの名前で呼ばれていたに違いないが、受洗前は別の名で呼ばれていたのか、それとも少女は以前からオディリアと呼ばれており、その呼び名が受洗によって正式な名になったのかは不明である。おそらくは前者であろう。
伝承によると、紀元300年頃、巡礼のため東方を目指した十一人の処女が船でライン川を遡上中に捕獲され、ケルンに連れ去られて殉教した。このうちのひとりがケルンの聖オディリア(Ste
Odile de Cologne)で、後に聖十字架修道会(羅 Canonici Regulares Ordinis Sanctae Crucis 仏
Les Chanoines réguliers de la Sainte-Croix 独 Regularkanoniker des Ordens
vom Heiligen Kreuz)の守護聖人となっている。
ラインラントに因む殉教処女聖オディリアは、とりわけこの地域において尊い名であろう。修道院に預けられた少女が十三歳になるまで洗礼を受けていなかったのであれば、そのような扱いを受けていた子供が以前からオディリアと呼ばれていたとは考えにくい。しかるに伝承を信じるならば、聖エルハルトは神から直々に命じられて少女に洗礼を授けた。また聖エルハルトが聖油で少女の目を拭うと、少女は視力を回復した。受洗を巡ってこのように異常な出来事が起きたのであれば、少女がオディリアという尊い洗礼名を授かったことが納得できる。 |
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註8 |
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フゴン(ユーグ)には三人の幼い息子が遺された。そのうちひとりレミギウス(Bx. Remigius/Remi de Strasbourg, +
783)は長じてストラスブール司教になった。レミギウスはエショー(Eschau グラン・テスト地域圏バ=ラン県)にベネディクト会修道院サント=ソフィ、及びその付属聖堂サン=トロフィム(l'église
Saint-Trophime d'Eschau)を創建した。修道院の名はローマの殉教者サント=ソフィ(聖ソフィア Ste. Sophie de
Rome, + c. 137)の聖遺物が齎されたことによる。サン=トロフィム聖堂はマジャール人によって 926年に破壊されたが再建され、現在まで残っている。1938年、同聖堂にはサント=ソフィの聖遺物が改めて移葬され、今日に至る。 |
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註9 |
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ヴィンゲン(Wingen グラン・テスト地域圏バ=ラン県)に同名のオアンブール城(仏 le château du Hohenbourg)があるが、これは十三世紀に造られた山城の遺跡で、アダルリックがオディリアに譲った城ではない。 |
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註10 |
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アルザス全体の領主の地位は後に伯爵となるが、オディリアの時代は公爵であった。一般に公家は王家と姻戚関係を結ぶような最高位の貴族である。幼時のオディリアは父から不当な扱いを受けたが、生まれながらの地位は公女であって、王女に近い身分である。 |
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註11 |
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"Thräne/Thränen" は "Träne/Tränen"(涙)の古い綴り。 |
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