福者ニコラ・ロラン
Bx. Nicolas Roland, 1642 - 1678


 ニコラ・ロラン師の肖像画


 福者ニコラ・ロラン (Bx. Nicolas Roland, 1642 - 1678) は、ランス(註1)司教座聖堂参事会の律修司祭で、司教座聖堂参事会付の神学教授でもありました。高名な神秘思想家であり、また孤児や平民の女子教育を目的に、1670年12月27日、ランスに女子修道会「幼きイエズス会」(la Congrégation du Saint-Enfant-Jésus) を設立したこと、同じくランスの司祭であり、「ラ・サール会」創設者として孤児や平民の男子教育に尽力したジャン=バティスト・ド・ラ・サール (Jean-Baptiste de La Salle, 1651 - 1719) が兄事したことでも知られています。


【ニコラ・ロラン師の生涯】

・清貧と宣教の使徒的生活

 ニコラ・ロランは 1642年12月8日、ランス郊外の商家に生まれました。1650年、ニコラ少年はイエズス会が経営するランスのコレージュに入学し、1660年には神学と哲学を学ぶためにパリに移りました。1664年、助祭になったニコラ・ロランはその雄弁を買われ、弱冠22歳にしてランス司教座聖堂参事会付きの神学教授に任命されました。また1665年には司祭に叙階されました。

 司祭に叙階されたニコラ・ロランは、パリのサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会 (Saint Nicolas du Chardonnet) 付属神学校にいったん戻ります。この神学校を創立したアドリアン・ブルドワーズ神父 (Adrien Bourdoise, 1584 - 1655) はトリエント公会議の精神に従って盛んにミシオンを行ってカトリック教会の復興に努めた人物であり、ニコラ・ロラン師はブルドワーズ師が創設した神学校に滞在することで、いわば魂の糧を得たのでした。


 20世紀初頭のサン・ニコラ・デュ・シャルドネ教会


 ニコラ・ロラン師はジャン=ジャック・オリエ神父 (Jean-Jacques Olier de Verneuil, 1608 - 1657) からも深い影響を受けています。オリエ師はサン=シュルピス教会 (l'église Saint-Sulpice) にフランス初の神学校を作った人物で、フランス国内のミシオン開催に努めるとともに、ヌーヴェル=フランス(現在のカナダ)への宣教を目的にしたノートル=ダム・ド・モントリオール協会 ( la Société de Notre-Dame de Montréal pour la conversion des Sauvages de la Nouvelle-France) の創設にも関わりました。

 パリを発ったニコラ・ロラン師は、半年のあいだルーアンに滞在して痛悔と清貧の生活を送ったあと、ランスに戻りました。ランスでのニコラ・ロラン師は、司祭職を志す数人の若者と共住し、説教と学問の指導によって神学教授の務めを果たす一方で、町なかに出て、誰にでも分かりやすい言葉で民衆に語り掛けて福音を広めました。


 1667年、ロラン師はボーヌ(Beaune ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県)のカルメル会修道院に滞在し、「愛ゆえに人となり給うた神のひとり子」のミステリウムに打たれました。この神秘体験は、ロラン師が孤児と貧民子弟の教育に乗り出す原動力となりました。すなわちロラン師及び同志の修道女たちは、最も軽んじられる貧民の子どもや孤児たちに仕えることにより、受肉し給うたイエズス・キリストに仕えようとしたのでした。


・平民教育への熱情、ジャン=バティスト・ド・ラ・サール神父との協働

 ところで 17世紀はフランスが絶対君主ルイ14世を戴く中央集権国家への道のりを歩んだ世紀でした。三十年戦争(1618 - 48年)、及び三十年戦争終結後も続いた対スペイン戦争の戦費を調達するために、ルイ14世 (Louis XIV, 1638 - 1715) の摂政である母后アンヌ・ドートリシュ (Anne d'Autriche, 1601 - 1666) と宰相マザラン (Jules Mazarin, 1602 - 1661) は貴族と民衆に重税を課し、そのために「フロンドの乱」(la Fronde, 1648 - 1653) と呼ばれる内乱が起こって、フランスは荒廃しました。


 シャルル・デミア神父


 17世紀は平民子弟の教育が始まった時代でもありました。ニコラ・ロラン師と親交のあったシャルル・デミア神父 (Charles Demia, 1637 - 1689) は、教区民の驚くべき無知に直面して、1666年、初等教育の必要性を訴える冊子を著し、1668年にはこの冊子が増刷されて多くの読者を得ました。

 戦争と内乱ゆえに窮乏する貧民、とりわけ子供たちの過酷な状況に心を痛めたニコラ・ロラン師も、友人であるデミア神父の冊子に心を動かされた一人でした。ニコラ・ロラン師は旧知のルーアンの司祭、ニコラ・バレ神父 (Nicolas Barré, 1621 - 1686 註3) に依頼して、ふたりの女性をランスに派遣してもらいました。こうして、1670年12月27日、「聖なる幼子イエズス姉妹会」(la Congrégation des Sœurs du Saint Enfant-Jésus) が創設されるとともに、ランスにおいて孤児の女子教育を行う最初の学校が開設されました。


(下) ランスの少女たちに教えるニコラ・ロラン師。聖画の上部には、「貧しき人々に福音を語るため、主は我を遣わし給へり」(PAUPERIBUS EVANGELIZARE MISIRT ME) とラテン語で書かれています。当店の商品。




 1672年、ニコラ・ロラン師はジャン=バティスト・ド・ラ・サール (Jean-Baptiste de La Salle, 1651 - 1719) と出会います。当時まだ未成年であったジャン=バティスト・ド・ラ・サールは、ランス近郊の出身ですが、このときはパリに住み、ジャン=ジャック・オリエ神父が作ったサン=シュルピス教会の神学校で学んでいました。ニコラ・ロラン師とジャン=バティスト・ド・ラ・サールは互いの仕事を励まし合い、時にはニコラ・ロラン師がジャン=バティスト・ド・ラ・サールの霊的指導者となりました。

 1673年に父が亡くなると、ニコラ・ロラン師は今までにも増して宣教に励み、父の死の翌年には、ニコラ・ロラン師はすべての私財を「幼きイエズスの姉妹会」に寄進して、「幼きイエズスの姉妹会」とその孤児院のみならず、他の数か所の学校における教育活動にも力を注ぎました。


 ジャン=バティスト・ド・ラ・サール神父


 1678年4月9日、平民教育の同志であるジャン=バティスト・ド・ラ・サールが司祭に叙階され、ニコラ・ロラン師は共にミサを挙げました。同月19日、ニコラ・ロラン師は急病に倒れ、「幼きイエズスの姉妹会」の今後をジャン=バティスト・ド・ラ・サール師に託して、同月27日、35歳の若さで亡くなりました。

 ニコラ・ロラン師の墓所はランスの「幼きイエズスの姉妹会」本部のクリプトにあります。



註1  ランス(Reims シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県)はフランス東北部の都市で、歴代フランス国王の戴冠が行われたことで有名です。

註2 ランスの聖ピエール女子修道院 (l'abbaye Saint-Pierre-les-Dames) はメアリ・スチュアート (Mary Stuart, 1542 - 1587) がたびたび滞在したことで知られます。メアリ・スチュアートはスコットランド女王ですが、1558年から 1560年まで、フランス国王フランソワ2世 (François II, 1544 - 1560) の妃でもありました。

註3 聖ジャン=バティスト・ド・ラ・サールの指導者としても知られるニコラ・バレ神父は、同時代に平民子弟の教育に取り組んだ人物です、1669年、バレ師はルーアンにおいて、修道誓願を立てない第三会のような形で、平民の女子教育に身を捧げる若い女性たちの会を創設しました。この会に属する女性二人がランスのニコラ・ロラン師の許に派遣され、「聖なる幼子イエズス姉妹会」(la Congrégation des Sœurs du Saint Enfant-Jésus) の最初のメンバーとなりました。

 ニコラ・バレ神父は 1999年3月7日、ヨハネ=パウロ2世により、ローマにおいて列福されました。



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