聖ホセ・デ・カラサンス (聖ヨセフ・カラサンス、聖ヨゼフ・カラサンス、聖ヨセフ・カラサンクティウス、聖ヨセフ・カラサンチオ、聖ヨセフ・カラサンシオ)
San Jose de Calasanz (St. Josephus Calasanctius)
【上】 Francisco José de Goya y Lucientes,
La Ultima Comunión de San Jose de Calasanz, 1819, óleo sobre lienzo, 250 x 180 cm, Iglesia de las Escuelas Pias de
San Anton, Madrid
聖ホセ・デ・カラサンス (S. José de Calasanz, 1557 - 1648) はエスコラピオス会 ("escolapios",
la Orden de las Escuelas Pias, ORDO CLERICORUM REGLARIUM PAUPERUM MATRIS
DEI SCHOLARUM PIARUM, Sch. P.) を創設したスペインの司祭です。庶民の子弟のための学校をヨーロッパで最初に作ったことで知られ、ミッション・スクールの守護聖人として全世界で崇敬を集めています。
聖ホセ・デ・カラサンスのラテン語名は、聖ヨセフス・カラサンクティウス St. Josephus Calasanctius) で、神の母の聖ヨセフス
(St. Josephus a Matre Dei) とも呼ばれます。我が国では聖ヨセフ・カラサンチオまたは聖ヨセフ・カラサンシオという名前でも知られています。
【聖ホセ・デ・カラサンスの前半生】
聖ホセ・デ・カラサンスは1557年9月11日、アラゴンのペラルタ・デ・ラ・サル (Peralta de la Sal) に8人きょうだいの末子として生まれました。哲学、法学、神学を修めたあと、1583年に司祭に叙せられ、最初の任地アルバラシン
(Albarracin 現在のアラゴン州テルエル県にある町) で司教デ・ラ・フィゲラ師 (Msgr. Gaspar Juan de la Figuera,
1537 - 1586) により神学者として重用され、司教の聴罪司祭ともなり、また数々の重要な役職を委ねられました。デ・ラ・フィゲラ師がリェイダ
(Lleida、カスティリア語ではレリダ Lerida、カタルーニャ州リェイダ県の町) の司教になると、ホセも司教に従ってリェイダに移り、さらに
1586年、デ・ラ・フェゲラ師が教皇により巡察使として
モンセラート修道院に派遣されると、ホセも司教の秘書として同行しました。1587年にデ・ラ・フィゲラ師が亡くなると、ホセはいったん故郷に戻って父を看取った後、ウルヘル司教
(el obispo de Urgell) の命を受けてトレンプ (Tremp、カタルーニャ州リェイダ県の町) の司教代理となりました。
1592年、ホセはローマに移ります。当時のローマには親を失ったり捨てられたりして行き場の無い子供たちが大勢いました。ホセははじめはこれらの子供たちを集めて既存の学校に就学させようとしましたが、教師たちは子供たちを受け入れませんでした。それゆえホセは何人かの支援を得て、1597年、授業料無料の学校をつくりました。また教皇クレメンス8世をはじめとする多くの人々の支援を得て、1600年にローマ中心部を皮切りに、自らの教育理念に基づく学校スクオーレ・ピエ
(Scuole Pie) を多数設立し、生徒数はすぐに1000人ほどになりました。
1602年、ホセはサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂 (Sant'Andrea della Valle) に付属する建物を借りて同志とともに共同生活を始めました。これがエスコラピオス会の起こりです。ホセの会は専ら教育事業に携わる単式誓願の修道会として1617年に教皇パウルス5世の認可を得、その後数年でヨーロッパ各地に広まりました。また1621年には教皇グレゴリウス15世により盛式誓願の修道会、エスコラピオス会
(ORDO CLERICORUM REGLARIUM PAUPERUM MATRIS DEI SCHOLARUM PIARUM) とされ、翌年には修道会則が教皇の認可を受けました。
【上】 ヴァティカン、サン・ピエトロのバシリカにある聖ホセ・デ・カラサンスの像。聖人が左手に持つ書物には、聖処女マリア (Maria Virgo)
のモノグラムと、ギリシア語で「神の母」(MP THY, Μήτηρ Θεοῦ) の銘が書かれています。
【聖ホセ・デ・カラサンスの教育思想】
聖ホセ・デ・カラサンスは庶民の子弟のために無料の学校を作ることにより、特権階級の専有物であった教育を広く一般に開放するという先進的事業を成し遂げました。聖ホセ・デ・カラサンスは教育こそがより良き社会を生み出す最良の方法であると信じていました。
エスコラピオス会の先進性は、さまざまな面に現れています。エスコラピオス会の学校にはユダヤ人やプロテスタントの子弟も差別を受けることなく入学を許されました。生徒たちは進級に伴って漸進的に高度な内容の教育や職業訓練を受け、さらに保健衛生にも配慮が為されました。生徒たちはラテン語と現地語を習得しましたが、ラテン語のテキストは現地語で書かれていました。
また人文系の学問が教育内容の大部分を占めていたこの時代にあって、聖ホセ・デ・カラサンスは科学教育の重要さを繰り返して強調し、エスコラピオス会の学校においても科学教育に力が注がれました。聖ホセ・デ・カラサンスはガリレオ・ガリレイ
(Galileo Galilei, 1564 - 1642) の友人であり、ガリレオの地動説を擁護しました。聖人はエスコラピオス会の会員を何人もガリレオのもとに送って学ばせており、ガリレオが有罪宣告を受けた後は、悪意ある中傷を物ともせずにあらゆる援助を与え、1637年にガリレオが失明すると、会の修道士をガリレオの秘書に付けて研究生活を支え続けました。
【聖ホセ・デ・カラサンスの晩年と死、及び聖ホセ・デ・カラサンスに対する崇敬】
聖ホセ・デ・カラサンスは、庶民の子弟に教育を施して社会を変革するという思想、ガリレオの地動説に対する擁護、聖性に満ちたその生活のゆえに、教会内外の特権階層から白眼視され、さまざまな困難に巻き込まれました。
1642年にエスコラピオス会で内紛があった際、聖ホセ・デ・カラサンスが捕らえられて異端審問を受け、翌1643年にはエスコラピオス会総長を罷免されるという事件が起こりました。さらに1646年にはエスコラピオス会に対して与えられていた特権が、教皇インノケンティウス10世によって取り消されてしまいました。それにもかかわらず聖ホセ・デ・カラサンスのカトリック教会に対する忠誠は変わらず、祈りと犠牲と謙遜の生活を続けて、1648年、90歳で亡くなりました。
聖人の死から8年後の1656年、教皇アレクサンデル7世はエスコラピオス会の名誉を回復しました。また聖ホセ・デ・カラサンスは1748年に教皇ベネディクト14世により列福、1767年に教皇クレメンス13世列聖されました。1948年には教皇ピウス12世により「全世界のミッション・スクールの守護聖人」とされました。
聖ホセ・デ・カラサンスの祝日は8月25日です。
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