アジャンの聖フォワ (コンクの聖フォワ)
Ste Foy d'Agen (Ste Foy de Conques)
聖フォワ(ラテン語でサンクタ・フィデース SANCTA FIDES、フランス語でサント・フォワ Sante Foy、スペイン語でサンタ・フェ
Santa Fe)は中世ヨーロッパにおいて非常に人気があった聖女です。3世紀にアジャン(Agen 現在のアキテーヌ地域圏ロット=エ=ガロンヌ県アジャン)に住んでいた少女で、12歳のときに同地にて殉教したといわれています。
【聖フォワの殉教】
聖フォワ殉教の様子について同時代の資料は現存しません。11世紀後半の聖人伝「サンタ・フェの歌」(
Canco de Santa Fe ou
Chanson de Sainte Foi d'Agen) によると、聖フォワはローマの神々を礼拝することを拒んで逮捕され、裁判官の前に引き出されましたが、十字を切り、「私は幼い頃からキリストに仕え、キリストに身を捧げています。」と言い、神々に捧げ物をしなければ死刑に処するぞと脅されても、「キリストのためにすべてを耐え忍ぶ覚悟です。キリストのために死ぬのは私の喜びです」と答えました。それゆえ聖フォワは裸にされて青銅の格子に横たえられ、その下の薪に火が点けられましたが、白い翼の天使が飛来して火を消してしまいました。そこでバスク人たちは聖女を立たせて斬首し、聖フォワは殉教の栄冠を得ました。殉教の年代は
287年あるいは 290年、一説には 303年に始まった
ディオクレティアヌス帝の迫害の際であるとも言われます。
【聖人伝「サンタ・フェの歌」】
上記の聖人伝「サンタ・フェの歌」は、より早くに成立したラテン語文書「聖フィデース及び聖カプラシウス殉教伝」
(Passio sanctorum Fidis et Caprasii) に内容の多くを依拠していますが、このラテン語の殉教伝は現在では失われています。
「サンタ・フェの歌」(
Canco de Santa Fe ou
Chanson de Sainte Foi d'Agen) は、1054年から 1076年のあいだにセルダーニュ(サルダーニャ)で成立したと考えられる韻文 593行の聖人伝で、現存する最古のオック語文献として知られています。
(上) 「サンタ・フェの歌」のマニュスクリプトに見られる聖フォワ(向かって左端)と聖カプラシウス(中央・註1)
当時の正式な文書はすべてラテン語で書かれていました。したがってラテン語による「聖フィデース及び聖カプラシウス殉教伝」は教会の公式文書です。
これに対してオック語による「サンタ・フェの歌」は、文字による記録として読まれることのみを想定したラテン語の公式記録とは性格を異にします。「サンタ・フェの歌」は、上記の「聖フィデース及び聖カプラシウス殉教伝」以外にも、ラテン教父ラクタンティウス
(Lucius Caelius/Caecillius Firmianus Lactantius, c. 240 - c. 320) の著作等を下敷きとして成立していることから、民衆の中から自然発生的に生じたものではないことがわかります。しかしその一方で、この「歌」がオック語で書かれているという事実は、民衆が詠唱し、ときには舞踏した民衆のための聖人伝であることを示しています。
【アジャンにおける聖フォワの崇敬】
聖フォワの地元アジャンでの崇敬に関しては、4世紀末ないし5世紀初頭頃のアジャン司教聖デュルシド St. Dulcide (聖ドゥルキディウス
St. DULCIDIUS)が聖フォワに奉献した
バシリカを建設するように命じた記録が残っています。このバシリカは 8世紀に補修され、15世紀には増築されましたが、1892年になって取り壊されてしまいました。
【コンクへの移葬】
聖フォワ崇敬の中心地は、中世以来、アジャンの東約 140キロメートルにある
コンク (Conques) の修道院に移っています。
当時の民衆にとって、
聖遺物こそが信仰の中心でした。フランスのどの地域でも、信仰が高まると、必ずといってよいほど聖遺物が発見されます。すなわち信仰の高揚と聖遺物の発見は表裏一体の現象でした。したがって、中世フランスの民衆の心性において、端的に言えば、聖遺物崇敬こそがすなわち信仰であったのです。
それゆえに当時の教会や修道院は聖遺物の獲得に熱心でした。聖遺物は多数の巡礼者を吸い寄せて教会や修道院に繁栄をもたらしましたから、聖遺物をめぐる競争は過熱します。フルタ・サクラ(ラテン語 FURTA SACRA 「聖物盗掠」、フランス語では translation furtive 「盗掠による移葬」)といって、他の教会や修道院から聖遺物を盗み出すこともしばしば行われ、人気がある聖遺物を安置する教会や修道院では厳重な警戒態勢を取ってこれに対抗しました。
12世紀半ばに成立した
サンティアゴ・デ・コンポステラの巡礼案内、「聖ヤコブの書」
LIBER SANCTI IACOBI (あるいはカリクストゥス本
CODEX CALLIXTINUS)にはフランスからサンティアゴ・デ・コンポステラに至る四つのルートが記されています。北から三つ目の
ル・ピュイ (Le Puy-en-Velay, Lo Puei de Velai) に発するルート沿い、コンクの町に、ベネディクト会修道院があります。
(上) フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラに至る四つの主要な巡礼路 (Les chemins de Saint Jacques) (レモン・ウルセルによる) (註2)
838年、アキテーヌ公ピピン2世 (Pépin II d'Aquitaine, 823 - 864) がコンクの修道院の移転先用地として、コンクの西
30キロメートル、フィジャック (Figeac) の土地を寄進し、ここに新しい修道院が建てられました。フィジャックは地の利に優れていましたから、新しい修道院は、結局移転せずにコンクに残った古い修道院に勝る勢力を得つつありました。
フィジャックの新しい修道院は、サント (Saintes) の司教であったといわれる 2世紀の聖人ヴィヴィアン(聖ヴィヴィアーヌス St Vivien)の聖遺物を手に入れていました。コンクの古い修道院にはアジャンから盗み出してきたサラゴサの聖ヴァンサン
(St. Vincent de Saragosse, + c. 304) の遺骨がすでにあったのですが、フィジャックとの対抗上、さらに人気のある聖遺物を、再び他所から盗み出すことになりました。
そこでコンクの修道士アリニスドゥス (Arinisdus) が身分を隠してアジャンの修道院に潜入し、聖フォワの遺体を盗み出す機会をうかがいます。アジャンの修道院における警戒は厳重でしたが、潜入後10年にしてアリニスドゥスはようやく信用を築き上げ、ついに聖フォワの墓の見張りを任されるようになると、墓を暴いて聖遺物を携え、大喜びでコンクに逃げ帰りました。
コンク修道院の記録によると、この移葬が行われたのは 884年ですが、歴史家の間では 865年または 866年とする説が有力です。
【聖フォワの人形型聖遺物容器、ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ】
コンクの修道院には聖フォワの人形型
聖遺物容器「ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ」(La Majesté de Sainte Foy) が安置されています。聖遺物容器は宝石をちりばめた黄金の板で覆われています。
このように人形の形をした聖遺物容器を「栄光像」(マジェステ majesté) と呼び、フランス西南部において多数の作例が見られましたが、現存するのはこの「ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ」のみです。
先に述べたように、中世の民衆にとって信仰とはすなわち聖遺物への崇敬に他なりませんでした。最初期の聖遺物箱は単純な箱形でしたが、次第にさまざまな形の物が作られるようになりました。なかには聖遺物の形そのままの作例もあり、たとえば頭骨を収納する聖遺物箱として人頭型のものが作られました。この段階まで来れば、胸像、さらに全身像へと発展してゆくのは自然の成り行きです。(註3)
神学上、像に納められた聖遺物を通して神を礼拝するのではあっても、そのような理論は巡礼たち、民衆にとってはほとんど意味を成さなかったと思われます。南フランス各地の教会において、聖遺物を収納した聖人像の前に民衆がひれ伏して像を礼拝するという光景が、このようにして現出しました。
シャルトル司教フルベール (St. Fulbert de Chartres, c. 960 - 1028) の許で学んだアンジェ出身の神学教授ベルナール
(Bernard d'Angers) は 1013年頃に西南フランスを旅行し、南フランス各地の栄光像に強い違和感を表明しました。
丸彫りの聖人像は、南フランスにおいては 10世紀半ばまでに十分普及していました。特に霊験あらたかであるとされた聖地の像はコピーされ、同様のものが方々の教会に分散しました。これらの像を目にしたベルナールが異様さを感じた事実から、この時点では北フランスにおいて、キリスト磔刑像以外の丸彫りの聖人像が存在しなかったことがわかります。
南フランスの聖人像に当初は違和感を感じていたベルナールですが、のちに考えを変え、その後に著した「聖フィデースの奇跡の書」(
LIBER MIRACULORUM SANCTAE FIDIS aut
LIBER DE MIRACULIS SANCTAE FIDIS) において次のように述べています。
「床にひれ伏す人の数があまりにも多いために、跪くことは不可能であった。…それ(ラ・マジェステ・ド・サント・フォワ)は全身が黄金で宝石がちりばめられており、人間の顔に見える。初めて目にすると、ほとんどの農夫たちは、像が自分を見つめており、その目で祈りを受け入れてくれると思うのであった。」
ラ・マジェステ・ド・サント・フォワは各部分が異なる時代に制作されています。頭部はイチイ材に金の薄板を被せてあり、本来はシャルル・マーニュ像あるいはローマ皇帝像のものであるとも言われています。
註1 アジャンの聖カプラシウス SANCTUS CAPRASIUS, St. Caprais d'Agen +303
聖カプレ(ラテン語でカプラシウス)は、アジャンにおいて聖フォワと同時期に殉教した人で、5世紀にその聖遺物が発見されました。フランス革命で破壊されたサン=テティエンヌに替わって
1801年にアジャンの司教座聖堂となったサン=カプレ (La cathédrale Saint-Caprais d'Agen) は、6世紀にこの聖人に奉献された教会がその起源となっています。
9世紀になると、聖カプレへの崇敬は聖フォワの崇敬と結びつきます。伝承によると、聖カプレは迫害を恐れてアジャン近郊のサン・ヴァンサン山 (Mont
St-Vincent) に逃れましたが、聖フォワの魂が天に昇るのを見て殉教の勇気を取り戻し、聖フォワの姉妹である聖アルベルト (Ste Alberte
d'Agen) とともに、聖フォワが殉教したのと同じ場所で斬首されたと言われています。14世紀まで遡ることが可能な伝承によると、聖カプレは初代アジャン司教とされています。
註2 この四本の道のうち、北寄りの三本はピレネーの手前、オスタバ・アスム(Ostabat-Asme フランス、アキテーヌ地域圏ピレネー=アトランティック県)で合流したあと、ナバラのプエンテ・ラ・レイナ=ガレス(Puente
la Reina-Gares スペイン、ナバラ州ナバラ県)において、アルルからのルートと合流して一本になります。
プエンテ・ラ・レイナ=ガレスは中世以来交通の要衝であり、ここにあるサンティアゴ・エル・マジョル教会
(La iglesia de Santiago el Mayor)
の前に据えられた巡礼者像の台座には、「聖ヤコブの書」にある次の言葉がスペイン語で引用されています。
Y desde aquí todos los caminos a Santiago se hacen uno solo. サンティアゴに通じるすべての道は、ここからひとつになる。
註3 ロマネスク期に制作され崇敬された聖人像の縁起には、ふたつの基本的なパターンがあります。ひとつは像のなかに収納された聖遺物によって崇敬される場合で、ラ・マジェステ・ド・サント・フォワはこの例です。もうひとつは人間の手によって作られたものではないとされる像が崇敬される場合で、たとえば立ち木の皮の中から発見された聖母像、地中から掘り出された聖人像などがこの例にあたります。
ロマネスク期の民衆が巡礼の目的としたのは、多くの場合、これらの聖像でした。したがって聖像を安置する建築物は、極言すれば、聖像の入れ物に過ぎないとも言えます。
我々がロマネスク美術を鑑賞、研究するとき、壮麗な聖堂建築やそこに施された装飾に目を奪われがちです。しかし祭壇に安置され祭礼の際に担ぎ出される小さな木像あるいは木身像(木の表面を漆喰等で仕上げ、あるいは金銀等の薄板を被せた像)こそが、ロマネスク期の信仰の主役であった事実を忘れるべきではありません。
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