マリー=ジュリー・ジャエニー
Marie-Julie Jahenny, 1850 - 1941




(上) 脱魂状態のマリー=ジュリー・ジャエニー(向かって左)。十字架上のイエスと一体化し、両腕を挙げた姿勢を執っています。


 マリー=ジュリー・ジャエニー(Marie-Julie Jahenny, 1850 - 1941)はカトリック信仰に篤いブルターニュの幻視者で、1873年以降、毎週金曜日に脱魂状態に陥り、キリストの受難を身を以て追体験しました。聖痕を受けたこと、数々の預言を遺したことでも知られており、ブランの聖女(la sainte de Blain)と呼ばれています。


【マリー=ジュリー・ジャエニーの生涯】

 六角形のフランス本土の西北端からビスケー湾に向けて、ブルターニュ半島が西に突き出しています。ブルターニュ半島南側の付け根付近、ロワールの河口に近いところに、二千年以上の歴史を誇る古都ナント(Nantes)があります。このナントから北北西に三十キロメートル離れた位置に小都市ブラン(Blain)があります。ナントとブランは行政上ペイ=ド=ラ=ロワール地域圏ロワール=アトランティック県に属しますが、歴史的にブルターニュの一部と見做されるペイ・ナンテ(le Pays nantais ナント地域)に位置しています。

 マリー=ジュリー・ジャエニーは、1850年2月12日、ブラン近郊の小さな村ラ・フロデ=アン=ブラン(La Fraudais-en-Blain)の農家に生まれました。姓の "Jahenny" は標準フランス語(イール=ド=フランス方言)で読めばジェニーですが、ブルトン語(ブルターニュ方言)ではジャエニーと発音します。ジャエニーの両親は女の子四人、男の子一人を儲け、ジャエニーはこのうちの第一子でした。子ども時代のジャエニーは幼い弟と妹たちの面倒を見ながら牛の世話や家事を手伝い、また初聖体の準備のために、十歳の頃に半年だけ学校に通って教理問答を学びました。

 信仰深い若者に育ったジャエニーは、聖母マリアに対する信心、及びキリストの受難に対する信心のため、ブランの教区司祭ピートル=エルヴェ・ダヴィッド師(P. Pitre-Hervé David , 1829 - 1885)に霊的指導を仰ぎつつ、人知れず償いの苦行に励みました。さらに数年後にはフランシスコ会第三会の会員になりました。

 22歳の時、ジャエニーは両親の以降でお針子の訓練に預けられ、またこの頃とある医師から性的暴行を受けました。


・聖母とキリストの出現、及び聖痕の受傷

 翌 1873年1月6日、病に倒れたジャエニーは胃癌または腸チフスと診断され、危篤状態に陥って病者の塗油を受けました。しかしながら2月22日、病床のジャエニーに聖母が出現します。聖母は大きな十字架に椅りかかるようにして立っており、ジャエニーの快癒を予言します。3月15日、再び出現した聖母は、ジャエニーに対し、聖痕を受ける覚悟があるか、罪びとたちの改心のため、生涯その傷を耐え忍ぶ覚悟があるか、とジャエニーに尋ねました。

 3月21日金曜日、キリストがジャエニーに出現し、ジャエニーは両手両足脇腹に光り輝く聖痕を受けました。このときジャエニーの近くには親類縁者、村人たち、近在の司祭たちが居合わせており、聖痕の出現を目撃しています。この時以来、毎週金曜日に同様の出来事が繰り返されるようになりました。10月5日には茨の冠の痕が、11月25日には左肩に傷が、12月8日に四肢先端の甲側に傷が、翌1874年1月12日には両手首に索状痕、及び心臓の位置に文字のような傷が、1月14日には両踝、大腿、前腕に鞭打たれた痕が、その数日後には槍の柄で脇腹を殴られたような二つの傷痕が出現しました。2月20日には右手薬指に環状の発赤を見、その箇所の皮膚はあたかも指輪を嵌めたように硬化しました。これは乳児イエスが割礼を受けた際の包皮、あるいはキリストとの神秘的結婚の象徴と解されました。その後も胸に数か所の傷痕が現れましたが、翌1875年12月7日に出現した傷はオー、クルークス・アウェ(羅 O CRUX AVE)の文字と十字架と花を組み合わせたものでした。

 1878年から 1879年の出来事を綴った作者不明の日記「スヴニール・ド・ラ・フロデ」(Souvenirs de La Fraudais ラ・フロデの思い出)には、ジャエニー宅で金曜日に行われた十字架の道行きの様子が記録されています。筆者(広川)による和訳を原文に添えて示します。

     Les trois chutes se succédèrent comme par le passé.    ジャエニーは以前と同様に三度の転倒を繰り返した。
     Les stigmates de la tête qui, avant l'extase, étaient peu saillants, se boursoufflent, quelques-uns saignent abondamment.    脱魂状態に陥る前、頭部の聖痕はほとんど出血していなかったが、いまや腫脹し、幾つかの傷からは大量に出血している。
     Ceux des mains saignent aussi, mais moins. Le sang, au lieu de suivre la loi commune, monte le long de la paume et vient retomber sur le dos de la main.    両手の聖痕も出血しているが、頭部の聖痕に比べると出血量は少ない。血は普通の法則に従わず、手のひらを上方に向かって流れ、手の甲を伝って落ちてくる。
     À chaque chute elle reste prosternée le visage contre terre, et d'une voix forte et singulièrement timbrée, elle adresse à Dieu des prières admirables.    いずれの転倒の際も、ジャエニーは体を伸ばしたうつぶせの状態になり、よく響く大きな声で神に語り掛け、素晴らしい祈りを捧げている。


・司教が派遣した医師による調査

 聖痕出現のうわさが広まるにつれ、多くの人々がジャエニーの家を訪れるようになりました。しかしその一方でブラン及びナントの聖職者たちは詐欺の可能性を疑い、ジャエニーの聴罪司祭であるピートル=エルヴェ・ダヴィッド師を首謀者と考えました。ナント司教フェリクス・フルニエ師(Mgr. Félix Fournier, 1803 - 1877)は二名の医師をラ・フロデに派遣して、ジャエニーを診察させました。二人の医師が 1873年3月29日に公表した診察結果によると、「ジャエニーは想像力が強いが、信仰心は弱い。聖痕らしき傷を人に見せようとする。これらの特性から判断して、ジャエニーは聖女とは言えない。ジャエニーの体には実際に傷が付いているが、鬱による自傷であろう」とのことでした。ちなみに診察の当日にはおよそ一万人が村に押し寄せたと伝えられ、当時の社会における関心の深さが伺えます。

 次いでフェリクス・フルニエ師は、1873年9月、自身と同様に正統派(仏 légitimiste 註1)のアントワーヌ・アンベール=グルベール医師(Antoine Imbert-Gourbeyre, 1818 - 1912 註2)をラ・フロデに派遣しました。アンベール=グルベール医師はジャエニーの体の傷を真正の奇跡による聖痕と診断して、司教に報告を行いました。司教は最終的にアンベール=グルベール医師の判断を受け容れました。


 当時のフランスでは、サルペトリエール病院のジャン=マルタン・シャルコー医師(Jean-Martin Charcot, 1825 - 1893 パーキンソン病の命名者)も聖痕に言及し、その原因を神経症に求めました。これに対して真正の奇跡があり得ると考えるアンベール=グルベール医師は、娘を伴ってその後もたびたびラ・フロデを訪れ、毎金曜日にジャエニー宅で行われる十字架の道行きに参加しました。アンベール=グルベール医師はジャエニーの預言を集め、伝記(未出版)も著しています。

 アンベール=グルベール医師によると、神秘体験が始まった最初の十年間で、ジャエニーは二度にわたって、一切の飲食物を摂らない絶食を経験しています。最初の絶食は 1874年4月12日からの九十四日間でした。二度目の絶食は 1875年12月28日に始まり、五年一か月二十二日間に及びました。また解離性障害や知覚障害は聖痕を受けた多くの女性に共通しますが、ジャエニーの場合も左半身が麻痺し、視覚、聴覚、発話能力が失われていました。しかしながら毎週金曜日に脱魂状態に陥っているあいだ、左半身麻痺は消失し、視覚、聴覚、発話能力は回復しました。


 アンベール=グルベール医師は 1873年の著書「聖痕を受けた女性たち」(Les Stigmatisées, 1873)でジャエニーを取り上げています。なお同時代にジャエニーを好意的に取り上げた著作としては、他にアドリアン・ペラダン(Adrien Péladan, 1815 - 1890)による二冊、「フォンテ、ブラン、マルピンゲンの奇跡」(Événements miraculeux de Fontet, de Blain et de Marpingen, 1878)と「最後の預言」(Dernier mot des prophéties, 1880)を挙げることができます。

 1870年代にジャエニー宅を訪れた人たちは、ジャエニーと共に十字架の道行きを祈るとともに、食料や衣料品、金銭をジャエニーに寄付し、或る者は聖痕に押し付けたハンカチを、或る者は聖画を持ち帰りました。ジャエニーからの祝福を求めたり、自分のために祈ってくれるよう求めたりする人々もいました。ブラン及びナントの聖職者たち多数が聖痕の真正性を疑っていたにもかかわらず、ジャエニーが聖女と信じられ、宗教的権威さえ有すると見做されたのは、彼ら信徒が介在したゆえと言えましょう。


・ジャエニーによる預言

 ジャエニーは1874年から預言を始め、その内容は標準フランス語で記録されました。

 ジャエニーはアンリ・ル・サンキエム・ド・ラ・クロワ(仏 Henri V de la Croix 十字架のアンリ五世)という大君主がフランスの王座に就くとの預言を繰り返しました。大君主(仏 Grand Monarque)は終末の世を治める王という意味合いで使われることが多い言葉ですが、ジャエニーを信じる人々はこれをボルドー公アンリ・ダルトワ(Henri d'Artois, 1820 - 1883 儀礼称号はシャンボール伯)に比定しました。アンリ・ダルトワはカペー家の流れを引くブルボン家の当主であり、フランスの王位を継承しうるブルボン家最後の人物でした。

 ジャエニーを信じる人々はレ・ザミ・ド・ラ・クロワ(仏 Les Amis de la Croix 十字架の友)というグループを作ってジャエニーを経済的に支えつつ、ジャエニーの預言を世に広めようとしました。ジャエニーがブルトン語で語る預言は、ラ・フロデ近在の聖職者ふたりによって標準フランス語に訳されました。この聖職者たちも十字架の友のメンバーです。しかしながらブラン及びナントの聖職者たちは「十字架の友」が宗教を利用した政治的団体であると考え、ジャエニーの預言を全く信じませんでした。


 1990年に出版された「現代フランス宗教界事典」(Dictionnaire du monde religieux dans la France contemporaine, 1990)の注釈において、教会史家ジャン・ゲアヌーク(Jean Guéhenneuc, 1920 - )はジャエニーの曖昧な預言に多様な方向性の解釈が可能であることを指摘し、その預言集を読み解くことで、「ある種のキリスト教国家の再来が待望されていた十九世紀の第四四半期当時、ジャエニーを取り巻いていた一つのイデオロギーの存在」(仏 la présence d'une idéologie qui avait cours autour de Marie-Julie dans le dernier quart du XIXe siècle où l'on attend le retour d'un type de chrétienté)が透けて見える、と述べています。

 ロンドン、パリ、マドリー、バルセロナの諸大学に招聘された若手の女性歴史学者アンドレア・グラウス(Andrea Graus)は、共著「1800年から1950年頃のヨーロッパにおける聖痕受傷者への崇敬と宣伝 ― 聖人と有名人のあいだで」(The Devotion and Promotion of Stigmatics in Europe, c. 1800–1950 : Between Saints and Celebrities 註3)でジャエニーに言及し、次のように述べています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Her case is exemplary of other nineteenth-century French Catholic female mystics and "political prophetesses", promoters of ultramontanism, millenarism and royalism in the face of the "evil" republican, secularized and post-revolutionary France.    この女性の例は十九世紀のフランスにおける他のカトリック女性神秘家たち、すなわち革命後に共和主義に染まり世俗化した「邪悪」なフランスに対抗して、ウルトラモンタニスム、千年至福説、王党派思想を推し進める「政治的女預言者たち」の典型である。


・懐疑論

 ナント司教フェリクス・フルニエ師はジャエニーの聖痕を真正の奇跡と認めたことで、いわばジャエニーの後ろ盾となっていました。しかしながら 1877年にフルニエ師が亡くなり、ジュール=フランソワ・ル・コック師(Mgr. Jules-François Le Coq, 1821 - 1892)が新司教に就任すると、ジャエニーは教区から疑いの目を向けられることになりました。

 ブランの教区司祭フランソワ・オドラン師(P. François Audrain)がル・コック司教に提出した1877年10月15日付報告書では、ジャエニーを虚言、慎みの無さ、教会の権威に対する不服従の廉で批判し、ジャエニーの行動が聖女に相応しいと言えないゆえに、その宗教体験も聖性にそぐわないと結論付けています。更にオドラン師は二人の医師による 1873年3月29日付報告書を引用し、ジャエニーの脱魂は鬱によるものであって、ジャエニーを聖女と喧伝する行為は詐欺に他ならないとしました。

 オドラン師の報告書を受けて、ル・コック司教はジャエニーが聖体を拝領することを禁じました。1892年にル・コック司教が亡くなると、オーギュスト=レオポルド・ラロシュ司教(Mgr. Auguste-Léopold Laroche, 1845 - 1895)が新司教に就任しましたが、ラロシュ師は程なくして夭逝し、ピエール=エミール・ルアール師(Mgr. Pierre-Emile Rouard, 1839 - 1914)がその後を襲いました。ルアール師の時代になってもジャエニーは聖体拝領を受けられず、巡礼者がラ・フロデを訪れることも禁止されました。


 ハーバート・サーストン(Herbert Henry Charles Thurston SJ, 1856 – 1939)はイングランドのイエズス会士で、カトリックにおける神秘的現象の研究で知られます。サーストンは著書「神秘主義の身体的諸現象」(The physical phenomena of mysticism, London, 1952)においてジャエニーの聖痕に言及し、1931年の著書「驚くべき神秘家たち」(Surprising Mystics, Chicago, 1955)では第九章をジャエニーの記述に充てて、次のように書いています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Are we to say that Marie Julie was a saint stupendously favoured by God; or a soul for the time being, at any rate, held in bondage by the devil; or simply a religiously obsessed neurotic girl, so phenomenally suggestible that the ideas latent in her subconscious mind had the power to work out their own fulfilment even in her physical frame?     マリー・ジュリーは驚くべき恵みを神から受けた聖女だったのであろうか。あるいは、その時期に多かれ少なかれ、悪魔に囚われた人物であったのか。あるいは単に神経症を患う若い女性が宗教に取り憑かれ、宗教的強迫観念の影響力が余りにも強いために、意識下の精神に潜む観念が、身体的な形となって現れ出たのであろうか。
     I must confess that it is the last solution which seems to me, both in this and in other similar cases, to accord best with the verifiable data.    この女性の症例においても、類似の症例においても、検証可能なデータに最も整合的なのは、上記のうち三番目の解釈であろうと私には思える。


・密かな支持

 1914年にルアール師の後任としてナント司教に就任したウジェーヌ・ル・フェル・ド・ラ・モット師(Mgr. Eugène Le Fer de la Motte, 1867 - 1935)は、ジャエニーを密かに支持していました。ル・フェル・ド・ラ・モット新司教はジャエニーに対し、毎週金曜日に彼女が受ける苦しみを、教区の聖職者たちのため、神に捧げることを求めました。

 1930年代に鉄道が整備されて旅行が格段に容易になると、ジャエニーを信じる大勢の人たちがラ・フロデを訪れるようになりました。カトリック教会当局はジャエニーについて全国紙及び地方紙に好意的な記事が出ないように圧力をかけていましたし、ジャエニーを好意的に取り上げた本が出たわけでもありませんでしたが、ジャエニーのうわさは口コミで伝わり、ラ・フロデへの訪問者が増えたのでした。


・聖痕の消失とジャエニーの死去

 ジャエニーの聖痕は高齢になるにつれて不明瞭になり、八十歳以降はほぼ判別できなくなくなりました。ジャエニーが最後に脱痕状態に陥ったのは 1940年10月24日で、このときジャエニーは満九十歳でした。翌 1941年2月26日にジャエニーは体調を崩して昏睡状態に陥り、病者の塗油を受けました。

 1941年3月4日、マリー=ジュリー・ジャエニーはラ・フロデ=アン=ブランの自宅において、満九十一歳で亡くなりました。遺体はフランシスコ会第三会員の修道衣が着せられて棺に納められ、ブランの教会で赦祷を受けた後、3月8日に村の墓地に運ばれました。棺が地下墓所に納められたのは、3月17日のことでした。

 ジャエニーが亡くなる直前の 2月28日には、ジャエニーに直接取材した記事が日刊紙ル・プチ・パリジャン(Le Petit Parisien)に載りました。ジャエニーの死去は地方の日刊紙ルエスト=エクレール(L'Ouest-Éclair)で 3月9日に報じられ、3月13日のニューヨーク・タイムズにも数行の記事が載りました。同年、「聖痕を受けたブランの女性、マリー=ジュリー・ジャエニーの思い出」(Jacqueline Bruno, Quelques souvenirs sur Marie-Julie, la stigmatisée de Blain, 1941)という本に、ナント司教が出版許可を与えました。



【没後の評価】



(上) マリー=ジュリー・ジャエニーの居宅を改装した非公式の礼拝堂


 ジャエニーの没後、信徒たちはジャエニー宅を買い取って礼拝堂に改装することを望みました。この計画は信徒団体レ・ザミ・ド・マリー=ジュリー・ジャエニー(仏 Les amis de Marie-Julie Jahenny マリー=ジュリー・ジャエニー友の会 註4)により、1958年、ル・サンチュエール・ド・マリー=ジュリー・ジャエニー(仏 Le Sanctuaire de Marie-Julie Jahenny)として実現しました。ジャエニーが脱魂に陥っていた居室は原状のまま保存されましたが、食堂は改装され、非公式の(すなわち、教区の認可を受けていない)礼拝堂になりました。

 ヨアヒム・ブフレ(Joachim Bouflet, 1948 - )は神秘体験者を自称する人々の研究で知られ、「神の偽作者」(Faussaires de Dieu, 2000)をはじめ数々の本を著している宗教史家です。ミシェル=ド=モンテーニュ・ボルドー第三大学(現ボルドー・モンテーニュ大学)に提出した博士論文「1846年から現代の教会における制度とカリスマ ― 近代及び現代のマリア出現について、司教が下す判断の問題」(Institution et charisme dans l’Église de 1846 à nos jours : la question du jugement épiscopal sur les apparitions mariales modernes et contemporaines)の中で、ブフレはジャエニーを評して「聖痕を受けた驚くべき長命の巫女であり、1873年から第二次世界大戦に至るまで、同時代の全ての偽神秘家たちが必ず見習うことになる」(pythonisse stigmatisée à la longévité remarquable qui de 1873 jusqu'à la Seconde Guerre mondiale sera la référence obligée de tous les pseudo-mystiques de l'époque)と書いています。またラ・サレットの聖母に見(まみ)えたメラニー・カルヴァとともに、ジャエニーは「多くが聖痕を受けた新世代の幻視者のひとり」(une nouvelle génération de visionnaires, pour la plupart stigmatisées)であり、ジャエニーに対する初回のマリア出現は「すぐに遠景に退いて、教会の統制を部分的に受けない一連の幻視が、長年に亙って繰り広げられる」(se trouve très tôt reléguée à l'arrière-plan d'un cycle visionnaire se prolongeant sur des années et qui pour partie échappe au contrôle de l'institution)とも評しています。


 ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848 - 1907)は「ルルドの群集」(Les Foules de Lourdes, 1901)の中で、ジャエニーについて次のように言及しています。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Qui connaît une autre stigmatisée de France dont l'aloi divin peut sembler également sûr ? À part quelques médecins catholiques, tels que le Dr Imbert-Gourbeyre qui fut chargé par Mgr Fournier, l'ancien évêque de Nantes, de la scruter, de la surveiller de très près, personne dans la therapeutique ne s'en est occupé, depuis plus de vingt ans, qu'elle est étendue sur un lit ; et, à l'exception de quelques mystiques, tous ignorent Marie-Julie Jahenny, de la Fraudais !     聖痕を受けたフランス人女性で、神が作り為し給うたことが同様に確かなもう一つの例を知る人があるだろうか。アンベール=グルベール医師は元ナント司教フルニエ師から依頼されて、その女性を詳しく診察し、ごく近くから監視した。この医師を含むカトリックの医師たちを別にすれば、彼女が寝たきりであった二十年のあいだ、医療に携わる者たちの誰一人としてこの人に関心を持っていない。そして数人の神秘家を除けば、ラ・フロデのマリー=ジュリー・ジャエニーのことを誰も知らないのである。

 フランスの隣国ベルギーのマナージュ(Manage ワロン地域エノー州ソワニー行政区)近郊にある村ボワ=デーヌ(Bois-d'Haine)では、ルイーズ・ラトー(Louise Lateau, 1850 - 1883)というフランシスコ会第三会員の女性が、1868年の春、行きつけの教会で十字架の道行きを祈っているときに痛みを感じて体調が悪化し、一時は危篤状態に陥りました。1868年4月24日以降、毎金曜日にルイーズの体は痛んで、最初は左脇腹と両足、5月8日以降は両手から血が流れ始め、9月25日には額の四か所に茨の刺で刺されたような傷が現れ、1882年4月には鞭によるものと思われる傷痕が体幹に認められるようになりました。これらの傷は明らかな原因無しに木曜日の深夜ないし金曜日の未明にかけて出現し、次の夜に消失しました。聖痕の受傷は、ルイーズが亡くなるまで続きました。

 ルイーズの聖痕はあらゆる分野の医師に診察され、十九世紀当時、世界的に有名になりました。ユイスマンスはここでルイーズ・ラトーを引き合いに出し、同じく聖痕の受傷者であるマリー=ジュリー・ジャエニーが世人に忘れられていることを嘆いています。


【赦しと救いと守護の十字架】



(上) 《白き炎と光の子の十字架 48.5 x 28.0 mm》 フランス 二十世紀中頃 当店の商品です。


 マリー=ジュリー・ジャエニーによると、1921年11月15日の啓示においてイエスはひとつの十字架を示し、それを身に着けて祈りを唱えるように命じ給いました。イエスが示し給うた十字架の意匠は、次の通りです。

・十字架の表面は、交差部に白い炎があり、縦木の上端に「赦しの十字架」(仏 Croix du Pardon)、下端に「救いの十字架」(仏 Croix du Salut)、横木の向かって左端に「聖なる守護」(仏 Sainte Protection)、右端に「鎮められたる災い」(仏 Calme Fléaux)の文字。

・十字架の裏面に次の祈り。

     Ô Dieu Sauveur crucifié, embrasez-moi d'amour, de foi et de courage pour le salut de mes frères.     十字架に架かり給う神なる救い主よ。我が兄弟たちの救いのために、我が愛と信仰と勇気を燃え立たせ給え。




(上) 《白き炎と光の子の十字架 48.5 x 28.0 mm》 上の写真に写っている十字架の裏面


 脱魂状態で神への愛に燃えるマリー=ジュリー・ジャエニーに対し、イエスは十字架を崇敬する者、とりわけ贖罪の懲罰を受ける者に限りない恩寵を与えると約束し給いました。ジャエニーに出現したイエスは、十字架を崇敬する者たちを十字架の家族(仏 la Famille de la Croix)と呼び、この家族に属する者は必ず守られると説き給いました。

 マリー=ジュリー・ジャエニーに出現したイエスは、十字架に関して次のように語ったと伝えられます。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った訳語は、ブラケット [ ] で囲みました。

   le 20 juillet 1882    1882年7月20日
     Je désire que mes serviteurs, servantes et jusqu'aux petits enfants puissent se revêtir d'une Croix. Cette Croix sera petite et portera en son milieu comme l'apparence d'une petite flamme blanche. Cette flamme indiquera qu'ils sont fils et filles de la lumière.       大人から幼子に至るまで、私に仕える者は皆、十字架を身に着けよ。その十字架は小さく、真ん中に小さく白い炎が見えるようにせよ。この炎は光の子である印となる。
           
           
   le 15 novembre 1921    1921年11月15日
     Mes petits amis bien-aimés, c'est pour vous donner une idée de ce que je souffre à la pensée de tant d'âmes privées du bonheur éternel.       わが愛を受けたる親しき友がらよ。かくも多くの魂が永遠の幸福を奪われることを考えて、わが魂は苦しむのだ。[わたしがこのように現れたのは、]汝らにそのことを分からせるためである。
     Mes petits amis bien-aimés, les jours passés ont laissé bien du mal, mais ceux qui viennent seront encore plus terribles car le mal prend une intensité terrible, une étendue qui n'a bientôt plus de mesure.       わが愛を受けたる親しき友がらよ。過ぎ去りし時代は大いなる悪を解き放ったが、来たるべき時代は更に恐ろしき事となろう。悪の力が恐ろしく強まり、たちまちのうちに際限なく広がるからである。
     Mes petits amis bien-aimés, vous porterez sur vous-mêmes Ma Croix adorable qui vous préservera de toutes sortes de maux, grande ou petite et plus tard Je les bénirai.       わが愛を受けたる親しき友がらよ。我が尊き十字架を身に着けよ。この十字架を着ければ、汝は大きな不幸からも小さな不幸からも、あらゆる苦しみから救われる。親しき友がらを、わたしは後に祝福する。
     - Premièrement, elles porteront le nom de "Croix du pardon".       第一に、我が十字架には、「赦しの十字架」という名が記される。
     - Secondement, elles porteront le nom de "Croix du salut".       第二に、我が十字架には、「救いの十字架」という名が記される。
     - Troisièmement, elles porteront le nom de "Croix de sainte protection".       第三に、我が十字架には、「聖なる守護の十字架」という名が記される。
     - Quatrièmement, elles porteront le nom de "Croix calme fléaux".       第四に、我が十字架には、「鎮められたる災いの十字架」という名が記される。
     - Cinquièmement, elles porteront la prière "O Dieu Sauveur Crucifié embrasez-moi d'amour, de foi et de courage pour le salut de mes frères".       第五に、我が十字架には、「十字架に架かり給う神なる救い主よ。我が兄弟たちの救いのために、我が愛と信仰と勇気を燃え立たせ給え」という祈りが記される。
           
     Mes petits enfants, toutes les âmes souffrantes et criblées par le fléau, toutes celles qui la baiseront auront Mon pardon, toutes celles qui la toucheront auront Mon pardon.       親しき我が子らよ。災いに苦しみ、選り分けられる全ての魂、この十字架に接吻するすべての人は、我が赦しを得る。この十字架に触れる全ての人は、我が赦しを得る。
     L'expiation sera longue mais un jour ce sera le Ciel, le Ciel sera ouvert. Je vous avertis d'avance, Mes petits amis bien aimés, afin que vous ne soyez pas surpris, afin que vous ayez tout le temps d'en avertir vos bien-aimés et familles".       贖罪の道のりは遠いが、いつの日か、それが天に通じる。天は開かれているのだ。わが愛を受けたる親しき友がらよ。このことをわたしが汝らに前もって知らせるのは、汝らが不意を襲われないためであり、汝らもまた自身の友や家族に知らせる時間を持つためである。
           
           
 さらにイエスは次の祈りを示し、悪と恐れが溢れる時代には、とりわけ頻繁に唱えるよう命じ給いました。
           
     Je te salue, je t'adore, je t'embrasse, O Croix adorable de mon Sauveur. Protège-nous, garde-nous, sauve-nous. .       我が救い主の尊き十字架よ。私はあなたを尊び、崇敬し、抱きしめます。我らを守護し、見守り、救い給え。
     Jésus t'a tant aimée, à son exemple, je t'aime. Par ta sainte image calme nos frayeurs. Que je ne ressente que paix et confiance!       イエスは汝十字架をかくまでも愛し給いました。イエスを範として、私も汝十字架を愛します。汝十字架の聖なる模りによりて、我らの恐れを鎮め給え。安らぎと信頼のみを、私が感じ取りますように。
           
 この祈りについて、イエスは次のように語り給いました。  
           
     Vous ressentirez tant de grâces, tant de force et d'amour que ce grand déluge passera pour vous comme inaperçu. C'est une grâce de Ma tendresse.       汝が感じ取る恩寵と力と愛はかくも強きゆえに、如何に大きな悪と恐れであろうとも、汝には感じ取られることなく過ぎ去るであろう。それはわが愛の恩寵である。




註1 七月革命(1830年)以降のオルレアン派に対し、ブルボン家を支持する人々をレジティミスト(仏 légitimistes)と呼ぶ。正統派または正統王朝派と訳される。

註2 アントワーヌ・アンベール=グルベール医師(Antoine Imbert-Gourbeyre, 1818 - 1912)は、1852年から 1888年まで、クレルモン=フェラン医学校(l'École de médecine de Clermont-Ferrand)で教鞭を執った医学者である。カトリック保守派の信仰深い人物で、聖痕の研究者でもあった。

註3 Tine Van Osselaer, Andrea Graus, Leonardo Rossi et Kristof Smeyers, The Devotion and Promotion of Stigmatics in Europe, c. 1800–1950 : Between Saints and Celebrities, Leyde-Boston, Brill, coll. « Numen Book Series » (no 167), 2020, XV-470 p.

註4 信徒団体レ・ザミ・ド・マリー=ジュリー・ジャエニーの初代代表を務めたのは、アンドレ・ルザージュ(André Lesage, 1901 - 1992)である。アンドレ・ルザージュはアンドレ・ド・ラ・フランクリー(Andréde La Franquerie)の筆名で知られる極右の評論家で、反ユダヤ主義者であった。



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