「マタイによる福音書」 四章一節から十一節 | |||||||
1 | Τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη εἰς τὴν ἔρημον ὑπὸ τοῦ πνεύματος, πειρασθῆναι ὑπὸ τοῦ διαβόλου. | Tunc Iesus ductus est in desertum (註1) a Spiritu, ut tentaretur a Diabolo. | さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 | ||||
2 | καὶ νηστεύσας ἡμέρας τεσσεράκοντα καὶ νύκτας τεσσεράκοντα ὕστερον ἐπείνασεν. | Et cum ieiunasset quadraginta diebus et quadraginta noctibus, postea esuriit. | そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 | ||||
3 | Καὶ προσελθὼν ὁ πειράζων εἶπεν αὐτῷ, Εἰ υἱὸς εἶ τοῦ θεοῦ, εἰπὲ ἵνα οἱ λίθοι οὗτοι ἄρτοι γένωνται. | Et accedens tentator dixit ei: Si Filius Dei es, dic, ut lapides isti panes fiant. | すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 | ||||
4 | ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν, Γέγραπται, Οὐκ ἐπ' ἄρτῳ μόνῳ ζήσεται ὁ ἄνθρωπος, ἀλλ' ἐπὶ παντὶ ῥήματι ἐκπορευομένῳ διὰ στόματος θεοῦ. | Qui respondens dixit: Scriptum est: "Non in pane solo vivet homo, sed in omni verbo, quod procedit de ore Dei". | イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(註3)と書いてある。」 | ||||
5 | Τότε παραλαμβάνει αὐτὸν ὁ διάβολος εἰς τὴν ἁγίαν πόλιν, καὶ ἔστησεν αὐτὸν ἐπὶ τὸ πτερύγιον τοῦ ἱεροῦ, | Tunc assumit eum Diabolus in sanctam civitatem et statuit eum supra pinnaculum templi | 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 | ||||
6 | καὶ λέγει αὐτῷ, Εἰ υἱὸς εἶ τοῦ θεοῦ, βάλε σεαυτὸν κάτω: γέγραπται γὰρ ὅτι Τοῖς ἀγγέλοις αὐτοῦ ἐντελεῖται περὶ σοῦ καὶ ἐπὶ χειρῶν ἀροῦσίν σε, μήποτε προσκόψῃς πρὸς λίθον τὸν πόδα σου. | et dicit ei: Si Filius Dei es, mitte te deorsum. Scriptum est enim: "Angelis suis mandabit de te, et in manibus tollent te, ne forte offendas ad lapidem pedem tuum". | 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』(註4)と書いてある。」 | ||||
7 | ἔφη αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, Πάλιν γέγραπται, Οὐκ ἐκπειράσεις κύριον τὸν θεόν σου. | Ait illi Iesus: Rursum scriptum est: "Non tentabis Dominum Deum tuum". | イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』(註5)とも書いてある」と言われた。 | ||||
8 | Πάλιν παραλαμβάνει αὐτὸν ὁ διάβολος εἰς ὄρος ὑψηλὸν λίαν, καὶ δείκνυσιν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τοῦ κόσμου καὶ τὴν δόξαν αὐτῶν, | Iterum assumit eum Diabolus in montem excelsum valde et ostendit ei omnia regna mundi et gloriam eorum | 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 | ||||
9 | καὶ εἶπεν αὐτῷ, Ταῦτά σοι πάντα δώσω ἐὰν πεσὼν προσκυνήσῃς μοι. | et dicit illi: Haec tibi omnia dabo, si cadens adoraveris me. | 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 | ||||
10 | τότε λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, Υπαγε, Σατανᾶ: γέγραπται γάρ, Κύριον τὸν θεόν σου προσκυνήσεις καὶ αὐτῷ μόνῳ λατρεύσεις. | Tunc dicit ei Iesus: Vade, Satanas! Scriptum est enim: "Dominum Deum tuum adorabis et illi soli servies". | すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(註6)と書いてある。」 | ||||
11 | Τότε ἀφίησιν αὐτὸν ὁ διάβολος, καὶ ἰδοὺ ἄγγελοι προσῆλθον καὶ διηκόνουν αὐτῷ. | Tunc reliquit eum Diabolus, et ecce angeli accesserunt et ministrabant ei. | そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。 | ||||
「マルコによる福音書」 一章十二節から十三節 | |||||||
12 | Καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει εἰς τὴν ἔρημον. | Et statim Spiritus expellit eum in desertum. | それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 | ||||
13 | καὶ ἦν ἐν τῇ ἐρήμῳ τεσσεράκοντα ἡμέρας πειραζόμενος ὑπὸ τοῦ Σατανᾶ, καὶ ἦν μετὰ τῶν θηρίων, καὶ οἱ ἄγγελοι διηκόνουν αὐτῷ. | Et erat in deserto quadraginta diebus et quadraginta noctibus (註2) et temptabatur a Satana; eratque cum bestiis, et angeli ministrabant illi. | イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 | ||||
「ルカによる福音書」 四章一節から十三節 | |||||||
1 | Ἰησοῦς δὲ πλήρης πνεύματος ἁγίου ὑπέστρεψεν ἀπὸ τοῦ Ἰορδάνου, καὶ ἤγετο ἐν τῷ πνεύματι ἐν τῇ ἐρήμῳ | Iesus autem plenus Spiritu Sancto regressus est ab Iordane et agebatur in Spiritu in desertum | さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 | ||||
2 | ἡμέρας τεσσεράκοντα πειραζόμενος ὑπὸ τοῦ διαβόλου. καὶ οὐκ ἔφαγεν οὐδὲν ἐν ταῖς ἡμέραις ἐκείναις, καὶ συντελεσθεισῶν αὐτῶν ἐπείνασεν. | diebus quadraginta et temptabatur a diabolo. Et nihil manducavit in diebus illis et, consummatis illis, esuriit. | 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 | ||||
3 | Εἶπεν δὲ αὐτῷ ὁ διάβολος, Εἰ υἱὸς εἶ τοῦ θεοῦ, εἰπὲ τῷ λίθῳ τούτῳ ἵνα γένηται ἄρτος. | Dixit autem illi diabolus: "Si Filius Dei es, dic lapidi huic ut panis fiat". | そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 | ||||
4 | καὶ ἀπεκρίθη πρὸς αὐτὸν ὁ Ἰησοῦς, Γέγραπται ὅτι Οὐκ ἐπ' ἄρτῳ μόνῳ ζήσεται ὁ ἄνθρωπος. | Et respondit ad illum Iesus: "Scriptum est quia 'Non in pane solo vivet homo, sed in omni verbo Dei'." | イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』(註5)と書いてある」とお答えになった。 | ||||
5 | Καὶ ἀναγαγὼν αὐτὸν ἔδειξεν αὐτῷ πάσας τὰς βασιλείας τῆς οἰκουμένης ἐν στιγμῇ χρόνου: | Et duxit illum diabolus et ostendit illi omnia regna orbis terrae in momento temporis | 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 | ||||
6 | καὶ εἶπεν αὐτῷ ὁ διάβολος, Σοὶ δώσω τὴν ἐξουσίαν ταύτην ἅπασαν καὶ τὴν δόξαν αὐτῶν, ὅτι ἐμοὶ παραδέδοται καὶ ᾧ ἐὰν θέλω δίδωμι αὐτήν: | et ait ei: "Tibi dabo potestatem hanc universam et gloriam illorum, quia mihi tradita sunt et cui volo do illa. | そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 | ||||
7 | σὺ οὖν ἐὰν προσκυνήσῃς ἐνώπιον ἐμοῦ, ἔσται σοῦ πᾶσα. | Tu ergo, si adoraveris coram me, erunt tua omnia". | だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 | ||||
8 | καὶ ἀποκριθεὶς ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῷ, Γέγραπται, Κύριον τὸν θεόν σου προσκυνήσεις καὶ αὐτῷ μόνῳ λατρεύσεις. | Et respondens Iesus dixit illi: "Scriptum est: 'Dominum Deum tuum adorabis, et illi soli servies'." | イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(註6)と書いてある。」 | ||||
9 | Ἤγαγεν δὲ αὐτὸν εἰς Ἰερουσαλὴμ καὶ ἔστησεν ἐπὶ τὸ πτερύγιον τοῦ ἱεροῦ, καὶ εἶπεν αὐτῷ, Εἰ υἱὸς εἶ τοῦ θεοῦ, βάλε σεαυτὸν ἐντεῦθεν κάτω: | Et duxit illum in Hierusalem et statuit eum supra pinnam templi et dixit illi: "Si Filius Dei es, mitte te hinc deorsum. | そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 | ||||
10 | γέγραπται γὰρ ὅτι Τοῖς ἀγγέλοις αὐτοῦ ἐντελεῖται περὶ σοῦ τοῦ διαφυλάξαι σε, | Scriptum est enim quod 'angelis suis mandabit de te, ut conservent te' | というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 |
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11 | καὶ ὅτι Ἐπὶ χειρῶν ἀροῦσίν σε μήποτε προσκόψῃς πρὸς λίθον τὸν πόδα σου. | et quia 'in manibus tollent te, ne forte offendas ad lapidem pedem tuum'." | また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』(註4)」 | ||||
12 | καὶ ἀποκριθεὶς εἶπεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς ὅτι Εἴρηται, Οὐκ ἐκπειράσεις κύριον τὸν θεόν σου. | Et respondens Iesus ait illi: "Dictum est: 'Non temptabis Dominum Deum tuum'." | イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』(註5)と言われている」とお答えになった。 | ||||
13 | Καὶ συντελέσας πάντα πειρασμὸν ὁ διάβολος ἀπέστη ἀπ' αὐτοῦ ἄχρι καιροῦ. | Et consummata omni temptatione, diabolus recessit ab illo usque ad tempus. | 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。 |
【「新しいイスラエルを率いるモーセ」としてのイエス】
(上) Sandro Botticelli, "Prove di Cristo", 1480 - 1482, affresco, 345,5 x 555 cm, Cappella Sistina, Città del Vaticano
「キリストの受洗」と「荒れ野での誘惑」は時間的に連続しているのみならず、強い内的連関を有します。すなわち受洗の際にイエスに降(くだ)った聖霊は、イエスを追いやり、四十日のあいだ荒れ野に留めました。
「マタイによる福音書」三章十三節から十七節に記録された「イエスの受洗」の記事によると、ヨハネがイエスに対してなぜ受洗を望み給うのかとお尋ねしたときに、イエスは「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。(マタイ
3:14 新共同訳)」(οὕτως γὰρ πρέπον ἐστὶν ἡμῖν πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην) と答え給いました。この聖句のギリシア語を直訳すると、「すべての義が成就される
(πληρῶσαι πᾶσαν δικαιοσύνην) のは、我々にふさわしい」と言う意味です。しかるに「すべての義が成就される」とは、ヨハネが説く「神の国」、すなわち神による統治が完全に確立された国が到来する、という意味に他なりません。
神の国が到来するのは、ヨハネ自身が言う通り、人の心に聖霊が降る(「聖霊と火」による洗礼を授かる 註7)ことによってです。メシアを信じる人間(キリスト教徒)は、その心に聖霊が降(くだ)ることにより、神に愛される「新しいイスラエル」となるわけですが、イエスがヨハネから洗礼を受け給うた際、その上に聖霊が降ったのは、「キリスト教徒の心に聖霊が降り、神の意志が完全に為されるようになる(すべての義が成就される、神の国が到来する)」ことの範型であったと考えられます。
イエスが公生涯を始められたとき、「新しいイスラエル」なるキリスト教会は未だ成立していませんが、イエスご自身が「新しいイスラエル」の範型であったと考えられます。したがってイエスが四十日のあいだ荒れ野に留められ、そこから出ることを許されなかったという出来事と、モーセに率いられたイスラエル人たちが四十年間荒れ地に留められ、カナンに入ることを許されなかった史実(註8)の間には、極めて強い類同性を指摘することができます。
悪魔に反論するイエスの言葉は、すべて「申命記」六章から引用されています。「申命記」の内容の大部分は、カナンの地に入る直前のイスラエル人に対してモーセが行った説教です。したがってイエスが「申命記」から引用しておられる言葉は、神の国の到来を目前にした「新しいイスラエル」に対して、それを率いるモーセとして語っておられるのだといえます。「申命記」六章の冒頭部分は、そのことをとりわけよく示しています。「申命記」六章一節から三節を、新共同訳により引用します。
1 | これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。 | ||
2 | あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。 | ||
3 | イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。 |
イエスご自身が「新しいイスラエル」の範型である、と先に述べましたが、モーセをイエスの前表と考えるならば、イエスはモーセの範型である、ということもできます。モーセがイスラエルを率いたように、イエスは新しいイスラエルを率い給います。荒れ野での試みがあった時点において、新らしいイスラエルであるキリスト教会はまだ存在していませんでした。しかしながらキリスト教会が成立したいま、イエスは新らしいイスラエルである我々に対し、福音書を通して語りかけておられるのです。
【三つの誘惑のそれぞれが持つ意味】
三つの誘惑のそれぞれについて、悪魔に対するイエスの返答がどのような意味を持つのかを検討します。なおマタイとルカは三つの誘惑を異なる順序で記述していますが、この論考ではマタイが記す順序に従って論述します。
・第一の誘惑に対する答え 「神に信頼して従うならば、神は人を養ってくださる」
(上) Juan de Flandes, "The Temptation of Christ", c. 1500, Oil on panel, 21 x 16 cm, the National Gallery of Art, Washington
四十日間の断食後、空腹のイエスに対して、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いました。これに対してイエスは「申命記」八章三節を引用し(註3)、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答え給いました。(註9)
奇跡を行う能力があるイエスにとって、石をパンに変えるのは容易なことです。実際、イエスは「マタイによる福音書」十四章十三節から二十一節において、五つのパンと二匹の魚を大きく増やし、五千人以上の人々を満腹させる奇跡を行っておられます。それなのにイエスがこの場で奇跡の能力を発揮しなかったのは、石をパンに変えることが父なる神の意思ではなかったからです。イエスが「人は…神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉で説いておられるのは、「神に信頼して従うならば、神は人を養ってくださる」ということです。
・第二の誘惑に対する答え 「人は自分自身を神の地位に置いてはならない」
(上) Sandro Botticelli, "Prove di Cristo" (dettaglio), 1480 - 1482, affresco, 345,5 x 555 cm, Cappella Sistina,
Città del Vaticano
次に悪魔はイエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、飛び降りるように唆(そそのか)します。これに対してイエスは「申命記」八章十六節を引用し(註5)、「あなたの神である主を試してはならない」と答え給いました。
悪魔の言葉は「詩編」九十一編の引用です(註4)。しかしながら悪魔ここでイエスを唆しているのは、神を試させるためです。神と人との関係において、試すのは常に神であり、人は試される立場にあります。人間としてのイエスが神を試すことは許されません。人が神を試すのは、神と人の立ち場を逆転させることに他ならないからです。それゆえイエスは悪魔による巧みな唆しを受け容れませんでした。
・第三の誘惑に対する答え 「自分の欲望ではなく、神のみに仕えよ」
(上) Duccio di Buoninsegna, "Tentazione sul monte", 1308 - 1311, tempera su tavola, 43 x 46 cm, The Frick Collection, New
York
最後に悪魔は世のすべての国々とその繁栄ぶりをイエスに見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。これに対してイエスは「申命記」六章十三節を引用し(註6)、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答え給いました。
第三の誘惑に対するイエスの言葉も、第一、第二の誘惑に対する言葉と同様に、「申命記」六章からの引用です。引用元となった箇所において、モーセはカナンの地に入る直前のイスラエル人に対し、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(「申命記」六章十二節から十三節)と説いています。したがって、モーセの範型であるイエスも、新しいイスラエルであるキリスト者たちに対して、「救いを与え給うた神を決して忘れてはならない。神のみを畏れ、神のみに仕えよ」と言っておられることがわかります。われわれは判断を下す際、自分の欲望ではなく、神にのみに従わければならないのです。
【「大審問官」におけるキリストの誘惑】
(上) Vassili Perov, "Portrait de Dostoïevski", 1872
フョードル・ドストエフスキー(Фёдор Михайлович Достоевский, 1821 - 1881)は「神秘的な存在である人間の謎を解く」ことを生涯のテーマにした作家です。ロシアでは
1825年から 1863年まで皇帝ニコライ一世によって新約聖書を読むことが禁じられていましたが、信仰深い家庭で育てられたドストエフスキーは、後年、「私たちはごく幼いころから福音書を知っていた」と語っています。ドストエフスキーは
1870年頃から「偉大な罪びとの生涯」という連作を構想し、これは「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」として結実しました。
1879年から 1880年にかけて著した生涯最後の作品「カラマーゾフの兄弟」("Бра́тья Карама́зовы")において、ドストエフスキーは無神論の問題を追究しています。この作品の第五篇「プロー・エト・コントラー」("Pro et Contra" ラテン語で「立論と反論」「賛成と否認」の意)には、皮肉家の兄イヴァンが善良な弟アリョーシャに、自作の劇詩「大審問官」("Великий
инквизитор")を語り聞かせる場面があります。ドストエフスキーはこの劇詩において、「キリストの誘惑」を主題に取り上げています。
劇詩の舞台は、反宗教改革の嵐が吹き荒れる十六世紀前半のセビジャです。大審問官の指揮によって、百名近い異端者が火刑に処せられた翌日、人心の平安が回復されたセビジャの町に、イエスが現れました。主が現れ給うたことを悟った群衆は、厚い人垣を作ってイエスを取り囲み、イエスに従って歩みます。イエスの体や衣に触れた全ての病人は癒され、イエスの祝福を受けた老いたる盲人は、幼時に失った視力をたちまち回復しました。イエスとイエスに従う群衆が司教座聖堂に差し掛かると、ちょうど少女の棺が運び込まれるところでした。少女の母はイエスの足下に身を投げて、両手を差し伸べ、娘を生き返らせてくださるように叫びます。イエスが静かに「タリタ・クミ」と言うと、少女はたちまち蘇って棺の中に身を起こし、白薔薇の花束を手にしたまま、驚いたようにあたりを見渡しました。このとき現場を通りかかった大審問官は、護衛に命じてイエスを捕縛させます。群衆はいっせいに道を開いて大審問官にお辞儀をし、大審問官は無言で群衆を祝福します。イエスは異端審問所の暗く狭い牢に連行されます。
イエスを捕縛させた大審問官は、九十歳近い年齢の大司教です。この人物は若い頃には修道の理想に燃え、救いを得る十四万四千人(註10)に加わろうと、草の根とイナゴを食べながら荒れ野での苦行に励みました。しかしながら大多数の人々は、そのように激しい苦行に耐える高い霊性を有さず、死と滅びに向かっています。そのことに思い至ったとき、後に大審問官となるこの人物は信仰を失いました。死後の永生と幸福など存在しないと考えるようになった彼は、人々が現世に生きているあいだ、平安を得られるようにしてやりたいと考えました。
荒れ野で悪魔を退けたイエスは、自由意志によって信仰を守ることで、「あるべきキリスト者」の範を示しました。しかしながら大多数の人間にとって、自由を与えられるほど辛いことはありません。大多数の人間にとって、イエスの教えは水準が高すぎて、その範に従うことは不可能です。それゆえ、後に大審問官となるこの人物は、高い霊性を有さない大多数の人間たちも、自分が神の教えに従っていると錯覚して幸福に生きられるようにしてやろうと決心したのでした。霊性の低い人々にとって、死後の永生と幸福などというものは、いずれにせよ存在しません。そうであるならば、死後の永生と幸福に関して人々に偽りの約束をし、欺いたとしても、害を為すことにはなりません。悪魔の味方となってイエスの教えを修正し、人々の良心から自由を取り上げてやるほうが、むしろ人々のためというものです。
イエスを捕縛した日の夜、大審問官は明かりを持ってイエスの牢に入り、次のような内容のことを、イエスに語り掛けます。
― お前がイエスかどうか、そんなことはどうでも良い。なぜならばお前が本物のイエスであったとしても、お前はすべての権威を既に我らに委ねた後だからだ。お前はもう我々に対して何を言う権利も持ってはいない。高い霊性を有さない大多数の人間たちをも幸せにしてやるために、われわれは数百年に亙って努力を重ね、今ある仕組みを築いてきた。民衆は真実を知らずに幸せに暮らしている。我々にすべてを任せたはずのお前が、いまごろになって再び現れて、良心の自由を民衆に思い出させるならば、民衆はふたたび苦しむだけだ。それはわれわれの事業を邪魔することだ。だからいまごろ現れてもらっては困るのだ。わたしは明日、お前を異端者として火刑に処する。今日お前に従った民衆が、明日は嬉々として火刑の火に炭をくべる姿を、お前は目にするだろう。
― 悪魔がお前を試みて「石をパンに変えたらどうだ」と言ったとき、お前がこれを断ったのは間違いであった。なぜならば、もしもお前が石をパンに変えて見せたなら、自由意志に基づく信仰という困難な営為を求められることもなく、人々は皆お前に服従したであろう。それなのにお前は自由な意志で神を信頼し、神に従う範を示した。しかしお前は人間を買いかぶったのだ。お前の範に従うことは、ふつうの人間には無理なのだ。
― 霊性の低い人間に必要なのは、天上のパンではなくて、地上のパンだ。しかしながら人間はパンをうまく分配することが決してできない。だから我々は彼らから自由を取り上げ、引き換えにパンを与えてやる。我々は石をパンに変える力を持たないが、パンをうまく分配して広く行き渡らせることにより、高い霊性を有さない大多数の人間たちを幸せにしてやる。自由意志に基づく信仰など、民衆には手が届かない。彼らに必要なのは、地上のパンだけだ。お前はそのことを知らなかったのだ。
― お前があのとき石をパンに変えて見せていたならば、万人はお前こそが崇拝すべき神であると知り、みな揃って膝を屈めたであろう。しかるにお前は天上のパンと自由の名によって、悪魔の誘惑を退けた。その結果どうなったかを見るが良い。誰を崇拝すべきかを巡って宗教どうしが争い、殺し合っているではないか。
― 人間にとって、自由ほど苦しい物はない。人間は生まれ落ちた瞬間から、自由を譲り渡す相手を探している。だから人間を幸せにするには、自由を取り上げて、彼らをなだめてやる人物が必要なのだ。それなのにお前は自由意志による信仰を人間に教えて、彼らをいっそう苦しめた。これほど残酷なことはない。自分の命を棄てるほどまでに人間を愛したお前が、彼らを苦しめる結果をもたらしたのだ。
― お前は悪魔に唆(そそのか)されたとき、神殿の頂上から飛び降りなかった。またメシア(キリスト、救世主)なら十字架から降りてみよと嘲られても(註11)、十字架から降りなかった。お前は人々を奇跡で感服させることを好まず、自由な意志による信仰を期待したからだ。しかしお前は人間を買いかぶり過ぎた。人間には目に見える奇跡が必要なのだ。人間は神そのものよりもむしろ奇跡のほうを必要としているくらいだ。だから我々は民衆のために教会の神秘を用意した。
― お前は悪魔に「世界のすべての国々を与えよう」と言われたとき、これを断った。しかしお前はこれを断るべきではなかった。なぜならば民衆の良心を征服して彼らに幸福をもたらすためには、奇跡と神秘に並んで、教会の権威が必要だからだ。それゆえ我々はシャルルマーニュにローマの帝冠を与え、これと結ぶことによって、世界の支配者となった。カトリック教会は世界的王国を建設し、それによって世界に平和と幸福をもたらすのだ。
劇詩「大審問官」において、キリストは少女を復活させたときの「タリタ・クミ」以外、一言も発しません。大審問官はイエスと対話するのではなく、一方的に語っています。無神論者である大審問官の口を通して語られるのは、神無き世界が必然的に至る専制を正当化する理論です。しかしながらドストエフスキーが言いたかったのは、大審問官とは正反対の主張、すなわち人間が人間らしくあるためには、神が人間に与え給うた「善悪を選ぶ自由」が、尊く必要であるということです。
劇詩「大審問官」に関しては、多くの批評家や思想家がそれぞれの立場から多様な解釈を提出しています。ボリシェヴィキから転向した宗教哲学者ニコライ・ベルジャーエフ(Никола́й
Алекса́ндрович Бердя́ев, 1874 - 1948)は、1921年の著作「ドストエフスキーの世界観」("Миросозерцание Достоевского", 1921)において、次のように書いています。斎藤栄治氏の訳によって引用します。幾つかの読点を筆者(広川)が補いました。
無神論的社会主義は、キリスト教が人間を幸福にせず、人間に平安を与えず、満ち足りるまでの食を与えなかったといっていつも非難する。そして無神論的社会主義は、少数の者だけが従うであろう天上のパンの宗教にたいして、幾百万、幾千万という人間が従うであろう地上のパンの宗教を説くのである。 | ||
しかしキリスト教が人間を幸福にせず、人間に十分のパンを与えなかったのは、キリスト教が人間精神の自由、良心の自由への暴力を拒否し、ひたすら人間の自由を目指して、キリストの福音がそれによって実現されることを期待しているからである。人類がキリストの福音の実現を望まず、それを裏切ったのは、キリスト教の責任ではない。罪は人間にあるのであって、神人(広川註 キリスト)にあるのではない。 | ||
(斎藤栄治訳) |
註1 デーセルトゥス(羅 DESERTUS, -A, -UM 単数主格)は動詞デーセロー(羅 DESERO 放棄する)の完了分詞ですが、アウグストゥス時代頃からは、中性複数形(DESERTA,
-ORUM)が「放棄された場所」「荒れ地」を意味する名詞として使われるようになりました。引用箇所におけるように中性単数形(DESERTUM)を「荒れ地」の意味に使うのは、キリスト教著述家の用法です。
註2 ギリシア語のヘーメラ(ἡμέρα)は、英語のデイ(day)と同様に、一日(二十四時間)という意味も、日中(日の出から日の入りまで)という意味も表します。「マルコによる福音書」のこの部分は、原文ではテッセラコンタ・ヘーメラース(希 τεσσεράκοντα ἡμέρας 四十日のあいだ)となっていますが、ヒエロニムスはこの箇所に補足してクアドラーギンター・ディエーブス・エト・クアドラーギンター・ノクティブス(羅 quadraginta diebus et quadraginta noctibus 四十日と四十夜のあいだ)と訳し、イエスが日没後にも何も食べなかったことを明示しています。「マタイによる福音書」にはヘーメラース・テッセラコンタ・カイ・ニュクタース・テッセラコンタ(希 ἡμέρας τεσσεράκοντα καὶ νύκτας τεσσεράκοντα 四十日と四十夜のあいだ)とあるので、これに倣ったのでしょう。
なお「ルカによる福音書」はこの箇所を単にヘーメラース・テッセラコンタ(希 ἡμέρας τεσσεράκοντα 四十日のあいだ)と表現しており、ヒエロニムスもディエーブス・クアドラーギンター(羅
diebus quadraginta 四十日のあいだ)と訳していますが、前後の文脈ならびに「マタイによる福音書」との照応から言って、イエスが二十四時間の断食を四十日のあいだ連続して行われたことは明らかです。
註3 「申命記」八章三節 新共同訳
主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 |
註4 「詩編」九十一編十一節から十二節 新共同訳
11 | 主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 | ||
12 | 彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。 |
註5 「申命記」六章十六節 新共同訳
あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。 |
「マサにいたときにしたように」という句は、「出エジプト記」十七章一節から七節に記録された出来事を指します。該当箇所を新共同訳により引用します。
1 | 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。 | ||
2 | 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 | ||
3 | しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」 | ||
4 | モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 | ||
5 | 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 | ||
6 | 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 | ||
7 | 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。 |
註6 「申命記」六章十二節から十三節 新共同訳
12 | あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。 | ||
13 | あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。 |
註7 ヨハネ自身の言葉は、共観福音書に次のように記録されています。
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(「マタイによる福音書」 3章 11節 新共同訳) | ||
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。(「マルコによる福音書」 1章 8節 新共同訳) | ||
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(「ルカによる福音書」 3章 16節 新共同訳) |
イエスが授け給う洗礼について、上に引用した「マタイ」と「ルカ」では「聖霊と火で」、マルコでは「火で」、洗礼をお授けになる、と書かれています。「マタイ」と「ルカ」の言う「火」とは、聖霊のことです。「使徒言行録」十九章一節から七節には次のように書かれています。引用は新共同訳によります。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。 |
註8 「申命記」八章二節から四節 新共同訳
2 | あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 | ||
3 | 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 | ||
4 | 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 |
註9 「ルカによる福音書」では「エパルトー・モノー」(希 ἐπ' ἄρτῳ μόνῳ パンのみによって)となっていますが、ヒエロニムスは「セッド・イン・オムニー・ウェルボー・デイー」(羅
sed in omni verbo Dei 神のすべての言葉によって)という句を補足しています。「マタイによる福音書」に倣ったのでしょう。
註10 「ヨハネによる黙示録」十四章一節から五節 新共同訳
1 | また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 | ||
2 | わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。 | ||
3 | 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。 | ||
4 | 彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、 | ||
5 | その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。 |
この十四万四千人は「神と小羊に献げられる初穂」(四節)であり、救いを得る人々のうちでも特別な地位にありますが、ヨハネはこれ以外の人間が救われないとは書いていません。しかしながら劇詩の主人公である大審問官は、「キリストが救うのは超人的に高い霊性を持つ十四万四千人のみである」と解釈し、低い霊性しか持たない大多数の人々への慈悲心ゆえに神に反逆して、無神論に基づく独自の論理を構築しています。
註11 「マルコによる福音書」十五章二十九節から三十二節 新共同訳
29 | そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 | ||
30 | 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 | ||
31 | 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 | ||
32 | メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 |
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