ピカルディーの巡礼地 《リエスの聖母よ、我らのために祈りたまえ 127 x 94 mm》 鉄道の発達とデクピが生んだ二十世紀初頭のオラトワール


縦横のサイズ 127 x 94 mm   厚さ 15 mm   重量 100 g



 昔のヨーロッパの家庭の一角、コアン・ド・デュに、十字架や聖像とともに置かれていた信心具。オラトワール(仏 oratoire/oratoires 原意は小さな礼拝堂・祈祷室) またはプラーク・ド・デヴォシオン(仏 plaque/plaques de dévotion 原意は信心の表示板)と呼ばれる品物です。この種の物品には種々雑多な形態がありますが、本品は奥行きのある楕円形の額を緞子のデクパージュ(仏 découpages 切り抜き絵)で装飾し、多色刷り石版による切り抜きを重ね貼りしています。





 緞子のデクパージュに重ねられた絵は、ピカルディーの巡礼地であるノートル=ダム・ド・リエスの絵葉書か小聖画から切り抜かれています。

 ノートル=ダム・ド・リエスはおよそ九百年前に縁起を遡る古い聖地で、ランス(Reims)では 1407年に、パリでは 1413年に、この聖母の信心会があったことが分かっています。国王シャルル六世(Charles VI, 1368 - 1380 - 1422)はグレーヴのあたりにあったサン=テスプリ教会に喜びの聖母信心会を設立し、妃イザボー(Isabeau de Bavière, c. 1370 - 1385 - 1422 - 1435)、王太子シャルル(後のシャルル七世)とともに会員となりました。その後も大勢の王室の人々やリシュリュー枢機卿がこの信心会に加入しています。1645年にはサン・シュルピスに信心会ができ、ルーアン(Rouen)とエヴルー(Evreux)にも信心会ができています。十七世紀のパリには三つの喜びの聖母信心会が存在していました。





 フランスの多くの聖地聖堂と同様に、ノートル=ダム・ド・リエスも革命期に酷く破壊され、聖母子像もパン屋の窯で焼却されてしまいました。十九世紀初めの聖堂はほとんど壁しか残っていない状態でしたが、やがて主祭壇上には新しい聖母子像が再び安置されました。聖母子像には美しい衣が着せられ、像の足下には元の聖母子像を焼いた灰が置かれました。礼拝堂といくつかの祭壇も復元され、ミサと聖務日課、祝祭が再び行われるようになりました。巡礼も復活しました。ある巡礼者は十八年間麻痺に苦しんでいましたが、喜びの聖母の許にきてすぐに回復しました。十年間口が利けなかった若者も回復しました。ベルギーと国境を接するバゼイユ(Bazeilles グラン・テスト地域圏アルデンヌ県)の男の子は、三年前に失った視力を突然回復しました。




(上) 鉄道網の発達にともない、ノートル=ダム・ド・リエスには大勢の人々が巡礼に訪れるようになりました。


 ソワソン司教ド・ガルシニー師(Mgr. Paul-Armand Cardon de Garsignies, 1803 - 1847 - 1860)はノートル=ダム・ド・リエス聖堂と巡礼者の管理をイエズス会に委ねました。ド・ガルシニー司教は喜びの聖母への信仰が篤く、教皇ピウス九世に願い出て、1857年8月18日、聖母子像の戴冠を実現させました。戴冠に先立つトリドゥウム(羅 TRIDUUM 三日間の祈り)はナポレオン三世が寄贈した鐘の合図で始まり、野外に安置された聖母子像の周囲には三万人の巡礼者が集まりました。

 香が焚かれるなか、戴冠した聖母子像は騎馬隊に先導され、聖歌隊の子供たちに囲まれてノートル=ダム・ド・リエス聖堂へと進みました。祭服を着けた八百人の司祭と五十人の聖堂参事会員、及びモナコ大公を始めとする人々がこれに続きました。聖母子像が聖堂に到着すると、宝石をちりばめた金の冠がド・ガルシニー司教の手で聖母の頭に置かれました。このときの像は戴冠に際して新調されたもので、現在聖堂に安置されているのと同一の聖母子像です。




(上) 汽車でリエスを訪れた大勢の人たち。


 増え続ける巡礼者に対処するため、ノートル=ダム・ド・リエス聖堂は正面入り口の両脇に二つの扉口が追加され、八つの礼拝堂が増設されました。1873年から 1882年までの九年間に聖堂を訪れた巡礼者は四十万人と記録されています。戴冠五十周年に当たる 1907年にも幾つかの祝祭行事が行われました。1910年、教皇ピウス十世はノートル=ダム・ド・リエス聖堂に小バシリカの称号を与えました。





 本品に貼り付けられているノートル=ダム・ド・リエスの聖母子像及びバシリカの切り抜きは多色刷り石版によります。多色刷り石版は 1837年に発明された技法です。また多色刷り石版の切り抜き絵はデクピ(仏 découpis)と言って、二十世紀初頭頃のフランスでたいへん流行しました。

 十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてのフランスでは鉄道網が急速に発達し、それに伴ってノートル=ダム・ド・リエスへの巡礼者も急増しました。本品は二十世紀初頭に当地を訪れた人が購入したものであろうと思われます。あるいは器用な巡礼者がリエスを訪問した記念に自作したものかもしれません。いずれにせよ丁寧な手作りで、当時人気があった鉄道旅行の行き先に聖母の巡礼地を選んだ人の信仰深い気持ちを今に伝えています。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。本品は壁掛け式で、裏面上部に吊り輪がありますが、皿立てに立てかけて飾ることもできます。

 アンティーク品の魅力は、そのときにしか作られ得なかった品物を通して、いまとなっては訪れることができない時代を身近に感じさせてくれることです。本品は多色刷り石版画のデクピが大いに流行していた二十世紀初頭に、やはり当時盛んであった鉄道旅行によってピカルディーの聖地を訪れた人が制作または購入した品物であり、百年以上前のフランスの空気を現代に伝えています。





本体価格 23,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。



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