不均一な厚み、平滑でない仕上げが、大型の美術メダイユのように芸術的個性を感じさせる作品。
本品のマリアはひとり眼を閉じて、ガブリエルから伝えられた受胎告知の意味を思い返しています。「メシアを産む」のは、常人であれば怖れおののき、逃げ出すに違いない大任ですが、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ
1:38)と答え、心静かに神に従いました。
受胎を告知された際、マリアは十代半ばの少女でした。しかしながら本品のマリアは、アブラハムやヨブにも勝る信仰ゆえに、成熟した若い女性として描かれています。神に選ばれて花嫁のヴェールを被ったマリアは、魂の深奥から溢れ出る喜びゆえに、その口許に静かな微笑を湛えています。
プロテスタントと違って、カトリックでは聖母マリアを大切にしますが、それは受胎告知の際、マリアが自由意志を以って受胎の告知を受け入れたからです。福音書が伝える言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ
1:38)が、マリアの意志を示しています。
プロテスタント思想においては、人間は善を為すことができません。人間にできるのは、罪を犯すことだけです。しかるにカトリックにおいては、人間は善を為す自由を有すると考えられています。神は救いを強制せず、マリアは自由意志を以って、全人類のために救いを受け入れたのです。
メダイの裏面には純潔の象徴でもあり聖母マリアの象徴でもある白百合が浮き彫りにされています。強い香気によって徳の高さを象徴する白百合は、多くの受胎告知画においてガブリエルが手に持ち、マリアに差し出しています。白百合はマリアのメダイの裏面にもよく彫刻されます。
旧約聖書の恋の歌「雅歌」において、主人公である美しい乙女は、無条件の信仰ゆえに神の眼に適(かな)う女性として選ばれた少女マリアの前表であるとされています。白百合がマリアの象徴とされるのは「雅歌」2章2節の聖句によります。
Sicut lilium inter spinas, sic amica mea inter filias. (Nova Vulgata 2:
2) おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。 (雅歌 2: 2 新共同訳)
メダイ裏面に彫刻される白百合は、咲き誇る大輪の花々を強調する作例が多いのですが、本品では花が横向きで、太い茎が花と同じ位に目立ちます。「受胎告知」のシーン、あるいは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉が百合の花だとすれば、その背景にあって大輪の花を咲かせ、大輪の花の支えとなるのは、マリアの心に宿る日頃の信仰です。
このメダイは、表裏いずれの面においても劇的な描写がなされていないために、一見したところ特に言及すべき特徴が無い作品のように思えるかもしれません。しかしながらメダイユ彫刻家はこの作品において、劇的な表現を敢えて避けているのです。瞑目して思いにふけるマリアの静的な描写、及び百合の太い茎に象徴された日頃の信仰が、深い精神性の形象化である一枚のメダイに結実しています。
本品はマリアの生涯のクライマックスともいえる「受胎告知」をひとつのテーマとし、外見は金色に輝いています。しかしながらその一方で、もうひとつのテーマ、すなわちマリアの「日々の信仰」が、作品の両面を通して通奏低音のように流れています。否、むしろ後者のほうが、作品全体の雰囲気を規定する主要テーマといえましょう。華やかなシーンの彫刻が多くみられる「受胎告知」のメダイユのなかでは稀少な作例です。
本品は数十年前のフランスで制作された作品ですが、古い年代にもかかわらず、保存状態はきわめて良好です。金めっきは厚みがあるゆえにほぼ完全な状態で、突出部分にも摩耗は見られません。個性的に表現された裏面の百合も見事な出来栄えで、こちらを表に向けて着用しても良いぐらいです。