フランスの南北を結ぶ大河ローヌ(le Rhône)はスイスの氷河に発し、レマン湖を経てリヨンでソーヌと合流します。ヴァランス、アヴィニヨンを経てプロヴァンスまで流れ下ったローヌは、アルルで二つに分岐して三角州カマルグを造り、地中海に流れ込みます。
九世紀に起源を遡り、十三世紀の「レゲンダ・アウレア」("Legenda Aurea" XCVI, c. 1260) にも収録されている伝承によると、三人の聖マリア、すなわちマリア・ヤコベとマリア・サロメ、及びマグダラのマリアは帆も舵も無い小舟に乗ってパレスティナを脱出し、天使に導かれてカマルグに上陸しました。このとき聖女たちには召使いの少女サラが随(したが)っていました。サラはエジプト人であったと伝えられます。
下の写真は 1817年のエクス・ヴォートを写したフランスの絵葉書です。このエクス・ヴォートーに描かれたサラも、本品メダイに浮き彫りにされたサラも、古代エジプト人の服装ではなくジタン(仏
une gitane ロマの女)の服装ですが、いずれにせよエキゾチックな出で立ちに違いはありません。
(上) カマルグに渡ってきた二人のマリアと、召使のサラ 当店の商品です。
サラはサラ・カリ(Sara Kali 浅黒い肌のサラ)と呼ばれ、ジタン(仏 les gitans ロマ、ジプシー)の守護聖女とされています。十九世紀中頃以来、サント=マリ=ド=ラ=メールはサラ・カリの巡礼地として、ヨーロッパじゅうのジタンの尊崇を集めるようになりました。
毎年五月の第四週末には、ヨーロッパ各国から何千人ものジタンがサント=マリ=ド=ラ=メールの聖堂に集います。土曜日のミサでは巡礼者たちが聖堂でサラ・カリに賛歌を捧げるなか、聖遺物の棺がゆっくりと天井から降ろされます。サラ・カリの聖像が地下の祭室から運ばれて来ると、巡礼者たちは聖像を運ぶ行列を作り、薔薇の花びらを敷き詰めた道を通って海岸まで歩きます。
サント=マリ=ド=ラ=メールに集うジタンたちは、祭礼の終わりに次のような祈りを捧げます。「聖サラよ、我らを正しく導きたまえ。善き信仰と善き健康を与えたまえ。我らを嫌う者の心を変えて、我らに親切であらせたまえ。」
本品メダイは聖サラの上半身を中央に大きく浮き彫りにしています。聖サラの姿は、バジリク・デ・サント・マリ・ド・ラ・メール(Basilique des Saintes Maries de la Mer 海の聖マリアのバシリカ)に秘蔵されている像に基づきます。
聖サラの背景は金属の隔壁が左右対称のパターンを為しており、赤、紫、藍のうちいずれかの色のプレクシグラス(アクリル樹脂)を、区画ごとに流し込んでいます。これはエマイユ・シャンルヴェを模していますが、プリカジュール(省胎七宝)のようにも見えます。
隔壁が描くパターンは、一見したところ、ゴシック聖堂のヴェリエール(ステンドグラス)に見えます。
フランスという言葉は現在ではフランス共和国の広大な領土を指します。しかしながらフランスはもともとカペー家の領地を指す言葉であって、ユーグ・カペーの時代(十世紀)におけるその領地はイール=ド=フランスのごく狭い範囲に過ぎませんでした。イメージしやすい言葉で言えば、ひとつの市ぐらいの大きさです。ロマネスクに対するゴチーク(ゴシック)はゴート風という意味で、フランス人の仕事(羅
OPUS FRANCIGENUM)とも呼ばれましたが、この場合のフランスもイール=ド=フランスを指します。
サラの聖遺物を安置するサント・マリ・ド・ラ・メールのバシリカ(Basilique des Saintes Maries de la Mer)はプロヴァンスのカマルグにあり、聖堂の建築様式もロマネスクです。したがってサラの聖堂にこのように華麗なステンドグラスはありませんが、プロヴァンスの聖女の背景を北フランスのゴシック風にすることで、全ヨーロッパのジタンの守護聖女である聖サラ崇敬の広域性、普遍性が巧みに視覚化されています。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品は未販売品ですので摩滅箇所は全くありませんが、エマイユ・シャンルヴェを思わせる隔壁が聖女の浮き彫り像よりも一段高くなっているために、ペンダントとして長くご愛用いただいても、浮き彫り像は摩耗しにくい作りになっています。
本品の保存状態は良好で、特筆すべき瑕疵(かし 欠点)は何もありません。カマルグのバシリカはサント・マリという名の通りマリア・ヤコベとマリア・サロメに捧げられた聖堂であって、少女サラは脇役に過ぎません。サラ・カリを崇敬するジタン(ロマ)が少数民族であることも手伝って、サラのメダイはほとんど制作されず、本品は稀少な作例となっています。