帆も舵も無い小舟に乗り、パレスティナを脱出してカマルグに上陸したふたりの聖マリア(マリア・ヤコベとマリア・サロメ)のメダイ。小舟に同乗していた聖人たちの名前と人数は伝承によって異なりますが、主だった聖人としてはマグダラのマリアやマルタ、ラザロ、マクシマンたちが乗っていたと伝えられます。
マクシマンは「ルカによる福音書」 10章 1節においてイエスがお選びになった七十二人の弟子たちのひとりで、レゲンダ・アウレアによると、使徒ペトロがマグダラのマリアをマクシマンに委ねました。マクシマンは司教となり、マグダラのマリアの最期を見届けたと伝承されています。
このメダイの表(おもて)面には、櫂を手にする天使に加え、三人の人物が浮き彫りにされています。小舟の中で立っているのがマリア・ヤコベとマリア・サロメで、うち一人は香油の壺を持っています。マリア・ヤコベとマリア・サロメが香油の壺をアトリビュート(聖人を同定する手がかりとなる持ち物など)とする理由は、この聖女たちがイエスの遺体に香油を塗るために墓を訪れた、と福音書に書かれているからです。「マルコによる福音書」
16章 1 - 2節を新共同訳によって引用します。
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
岸辺に跪く向かって左端の人物は、聖マクシマンです。聖マクシマンはマリア・ヤコベ、マリア・サロメと同じ舟に乗って来たのですから、ふたりの聖女を岸辺で迎える姿で描かれるのは奇妙に思えますが、伝承によるとふたりのマリアは聖母マリアの姉妹であるゆえに、聖マクシマンよりもいわば「格上」であること、この浮き彫りがテーマとするのはふたりのマリアの到来であることを考えれば、象徴的図像表現としては成立し得る構図です。
ふたりの聖女に執り成しを願うフランス語の祈りが、群像を囲むように刻まれています。
Saintes Maries de la Mer, priez pour nous. 海の聖マリアよ、我らのために祈りたまえ。
(上・参考写真) 聖ミカエルのシャプレ ロベール・クートル作のメダイ付 メダイの直径 16.2 mm 当店の商品です。
フランスのメダイユ彫刻家ロベール・クートル (Robert Coutre, 1915 - ?) の署名が、天使の頭上に彫られています。ロベール・クートルはパリの国立高等美術学校(l'École
nationale supérieure des beaux-arts de Paris, ENSBA) の卒業生であり、アンリ・ドロプシ(Henri
Dropsy, 1885 - 1969)、ロベール・ヴレリク (Robert Wlérick, 1882 - 1944)、アンリ・ブシャール
(Henri Bouchard, 1875 - 1960) に師事しました。ローマ賞二等 (Premier Second Prix) 及びサロン展の最高賞
(Médaille d'honneur) を受賞しています。
もう一方の面にはジプシーの守護聖女、サラ・カリ Sara/Sarah Kali (サラ・ラ・ノワール Sara/Sarah la Noire 黒いサラ)の姿が浮き彫りにされ、執り成しを求める祈りが周囲に刻まれています。
Sainte Sarah, priez pour nous. 聖サラよ、我らのために祈り給え。
伝承によると、パレスティナの地において、サラはふたりの聖マリアの侍女でした。イエス・キリストの弟子たちを迫害する人々が、ふたりのマリアやマグダラのマリア、マクシマンたちを小舟に押し込められて海へと押し出したとき、海岸に駆け付けたサラは自分も同行したいと叫びました。マリア・サロメが自分のヴェールを海に投げると、サラはそれに乗って舟までたどり着いたと伝えられています。
毎年5月の第四週末には、ヨーロッパ各国から何千人ものジプシーがサント=マリ=ド=ラ=メールの聖堂に集います。土曜日のミサでは巡礼者たちが聖堂でサラ・カリに賛歌を捧げるなか、聖遺物の棺がゆっくりと天井から降ろされます。サラ・カリの聖像が地下の祭室から運ばれて来ると、巡礼者たちは聖像を運ぶ行列を作り、薔薇の花びらを敷き詰めた道を通って海岸まで歩きます。
本品は数十年前のフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、古い年代にもかかわらず、保存状態は良好です。本品の直径は百円硬貨よりもひと回り大きく、浮き彫りも立体的ですが、突出部分にも摩耗は無く、新品同様のメダイが古色に被われているというアンティーク品として理想的な状態になっています。ロベール・クートルはサロン展で最高賞(メダイユ・ドヌール)を獲得していることからも分かるように、20世紀フランスのメダイユ彫刻界でも有数の実力の持ち主ですが、クートルの作品を目にすることはめったになく、本品はこの彫刻家による貴重な作例です。
サント・マリ・ド・ラ・メール(海の聖マリア)のメダイは数種類が知られていますが、この作品は稀少で、筆者は本品以外に目にしたことがありません。マリア・ヤコベ、マリア・サロメの裏面に、ふたりのマリアを凌ぐ大きさでサラ・カリが彫られているのも、珍しい点です。