20世紀前半のフランスで鋳造された聖マリ=マドレーヌ(マグダラのマリア)のメダイ。
一方の面には悔恨の聖女マドレーヌが浮き彫りにされています。聖女は左足に体重を掛けたコントラポストの姿勢を取っているために、女性の体らしいしなやかさが強調され、薄衣の下にある太ももの丸み、胸のふたつの膨らみも見てとれます。しかしながらマドレーヌは女性の魅力を誇示する長い髪をヴェールに隠し、悲しげな表情を見せてうつむいています。悔恨に振り絞った両手には、ナルドの香油を入れた壺が抱かれています。
聖女は雲の上、天上にありながらも自らの罪を悔い、また地上の罪びとのために心を痛めて執り成しの祈りを捧げています。聖女の周囲には次の言葉がフランス語で記されています。
Sainte Marie-Madeleine, priez pour nous. 聖マリ=マドレーヌよ、我らのために祈り給え。
もう一方の面にはブルゴーニュのヴェズレーにある聖マリ=マドレーヌのバシリカ (La Basilique de Sainte-Marie-Madeleine, Vezelay) の西側正面が精緻な浮き彫りによって描き出され、周囲にフランス語で「ヴェズレーのバシリカ」(Basilique de Vezelay) と記されています。
1146年の復活祭に、クレルヴォーの聖ベルナールは第二回十字軍を推進する説教をヴェズレーの聖堂で行いました。さらに 1190年にはイングランド国王リチャード1世とフランス国王フィリップ・オーギュストはヴェズレーに3ヶ月間滞在した後、第三回十字軍に出発しました。このバシリカにはナルテクス(前室)奥の正面扉口に聖霊降臨(ペンテコステ)をテーマにした異色のタンパンがあり、十字軍の理念を表現するものとして製作されたものと考えられています。
聖マリ・マドレーヌの聖地であるヴェズレーのクリュニー修道院は、11世紀から13世紀の西ヨーロッパにおいて最も有力な巡礼地のひとつでしたが、13世紀末にラ・サント=ボームとの競争に敗れて以来、凋落の一途をたどります。プロスペル・メリメ (Prosper Merimée, 1803 - 1870) が 1834年に調査したとき、建物は崩壊寸前でしたが、ヴィオレ=ル=デュク
(Eugene Emmanuel Viollet-le-Duc, 1814 - 1879) の手で1840年から20年以上にわたって修復が重ねられた結果、昔日の栄光を取り戻しました。
教皇マルティヌス4世 (Martinus IV, 1210/20 - 1281 - 1285) は 1281年、サン(Sens ブルゴーニュ地域圏ヨンヌ県)の司教にマグダラのマリアの聖遺物を贈りましたが、サン大司教はこの聖遺物を
1876年にヴェズレーに贈り、ヴェズレーは再び巡礼地の地位を取り戻しました。巡礼は 1912年にいったん中止されますが、1920年、聖堂がバシリカとされたことをきっかけに再開し、現在に至っています。
聖マドレーヌのメダイは稀少ですが、もし手に入ってもラ・サント=ボームのものがほとんどであり、ヴェズレーのメダイはほとんど見つかりません。真正のアンティークあるいはヴィンテージ品であるにもかかわらず、摩耗がほとんど見られず新品同様である点でも稀少なメダイです。