ラ=サント=ボームの荒野で禁欲の生活を送るマグダラのマリアのメダイ。
表(おもて)面に浮き彫りにされた聖女は、顔を斜め上に向け、天を仰いでいます。聖女の衣はまだ破れていませんが、髪が腰に届くまで伸びて、荒野の生活の長さを物語っています。聖女の周囲には、いずれもマグダラのマリアの象徴である十字架、祈祷書、髑髏(どくろ)が見えます。聖女の周りには次の言葉がフランス語で記されています。
Sainte Marie-Madeleine à la-Sainte-Baume ラ=サント=ボームにおける聖マリ=マドレーヌ
死を象徴する物品を、図像学では「メメントー・モリー」と呼びます。髑髏は「メメントー・モリー」の代表です。マグダラのマリアは娼婦であったと伝えられ、見目麗しい女性であったとも考えられています。しかしながら娼婦の拠り所である官能の喜びも、美しい女性の容姿も、宗教が説く永生に比べればほんの刹那しか持続しません。聖女の傍らに転がる髑髏は、この聖女が他ならぬマグダラのマリアであるゆえに、見る者にいっそう強烈な印象を与えます。
(上・参考画像) カニヴェ 「サント・ボームの洞窟におけるマグダラのマリア」(ボナミ 図版番号 55) 当店の販売済み商品 マリアは十字架と祈祷書の前に跪いています。
マグダラのマリアの図像には、髑髏の他に、十字架と祈祷書もよく描かれます。上に示したカニヴェをはじめ、多数の聖画やメダイにおいて、サント・ボームに隠棲したマグダラのマリアは十字架と祈祷書の前に跪いています。この図像学的伝統に従って、本品のマリアの傍らにも十字架と祈祷書が彫られています。しかし奇妙なことに、本品に彫られた十字架からは枝葉が伸びています。「枝葉を伸ばす十字架」は再生した「生命の木」に他ならず、マグダラのマリアが罪を赦されて取り戻した永生を象徴しています。
(上) Piero della Francesca, "Adorazione della Croce" (dettaglio), 1452 - 66, affresco, la cappella maggiore della basilica di San Francesco, Arezzo
ソルボンヌ大学の中世フランス文学者であるアルベール・ポーフィレ教授 (Albert Édouard Auguste Pauphilet, 1884
- 1948) は、「ゴーティエ・マップが作者に擬せられる聖杯探求物語研究」("Études sur la Queste del saint graal attribuée à Gautier Map", Paris, 1949) の付録として、パリのビブリオテーク・ナシオナル・ド・フランス(フランス国立図書館)に収蔵されている「フランス語写本
No. 1036」を収録しています。「フランス語写本 No. 1036」の内容は中世から伝わる生命樹の説話です。
この説話によると、人祖アダムとエヴァが罪を犯したせいで、エデンの生命樹は枯死してしまいます。アダムが埋葬されるとき、息子のセトはアダムの口に生命樹の種を三粒、含ませます。三粒の種からは三本の木が生えて、モーセとダヴィデのもとで数々の奇蹟を惹き起こし、ダヴィデ王の時代に互いに癒着して、一本の大木になります。この木はエルサレム神殿の梁に使うために切り倒されますが、いざ使おうとすると長すぎたり短すぎたりしてうまくいかず、川に渡して橋に使われます。あるときシバの女王がソロモンの知恵の言葉を聴きにエルサレムを訪れますが、道中の橋で聖なる梁に気付いた女王は跪いて梁を礼拝し、「この木は尊き血によってふたたび緑になるであろう」と言います。梁はイエスの受難のときまで同じ場所に横たわっており、ユダヤ人たちはこの梁から十字架を作ってイエスを磔(はりつけ)にしました。
上の写真はピエロ・デッラ・フランチェスカによるフレスコ画で、聖なる梁を礼拝するシバの女王を描きます。この作品はピエロが 1452年から 58年頃にかけてアレッツォ(Arezzo トスカナ州アレッツォ県)のサン・フランチェスコ聖堂に制作した連作の一部です。
(下・参考画像) 小聖画 「いやなことをされても、イエスさまのようにゆるしてあげましょう」 60 x 37 mm フランス 20世紀中頃 当店の商品です。
生命樹に関する上記の説話はヨーロッパでよく知られており、聖画のモティーフにも現れます。上の写真の聖画において、聖水入れの十字架が芽吹いているのはその一例です。シバの女王は生命樹を製材して作った聖なる梁、すなわち後の十字架が、「尊き血によってふたたび緑になるであろう」と言いました。この言葉から分かるように、緑に芽吹いた十字架はキリストの受難によって回復された永遠の生命の象徴であり、救いを象徴しています。
したがって、マグダラのマリアの傍らで枝葉を伸ばす十字架は再生した生命樹であり、マリアが得た救いと永生を表します。第三者の目から見ると、マリアは荒涼としたサント・ボームの山中にいます。しかしながらマリアは救いを得た故に、実際には生命の木が生えるエデンの中心にいるのです。
十字架の根元に髑髏が置かれているのも示唆的です。この髑髏はアダムの頭骨です。伝承によるとアダムの埋葬場所は後のゴルゴタであり、キリストの十字架はアダムの墓の上に立てられました。上に引用したビブリオテーク・ナシオナル・ド・フランス「フランス語写本
No. 1036」によると、アダムが亡くなったとき、アダムの息子セトは生命樹の種子を父の口に含ませて埋葬しました。ここから生え出た生命樹はいったん切り倒されましたが、イエスの十字架となって再び同じ場所に立ちました。イエスは十字架上に救世を成し遂げ、アダムの罪が人間にもたらした死に打ち勝ちました。
(上・参考画像) アルマ・クリスティと「ペトロの鶏」のあるクルシフィクス 46.9 x 24.5 mm フランス 19世紀中頃 当店の商品です。
さきほど髑髏がメメントー・モリーの代表的なものであると書きましたが、アダムの骨は最も卓越的に死を表します。それゆえ、キリストが死に打ち勝ったことを表すために、クルシフィクスの下部にアダムの骨が表されることが多くあります。上の写真はその一例です。
(上・参考写真) Fra Filippo Lippi (1406 - 1469), Madonna and Child Enthroned with Two Angels, 1437, tempera and gold on wood, Metropolitan Museum of Art, New York
本品の浮き彫りでは十字架の傍らに祈祷書が置かれています。書物は知恵の象徴であり、イエスもまた知恵として表されます。エデンの中心には、生命樹の傍らに知恵の木(善悪を知る木)が生えていました。エヴァはこの木から実を取って食べ、永生を失いました。しかしながらマリアはイエスという知恵の実を食べて、永生を得たのです。
上の写真はメトロポリタン美術館が収蔵するフラ・フィリッポ・リッピの聖母子像で、上智の座 (SEDES SAPIENTIAE) の聖母を描いています。聖母の右(向かって左)の天使が手にした巻物には、ヴルガタ訳「集会書」 24章 26節がラテン語で引用されています。巻物が丸まって隠れている部分を補って示します。日本語訳は筆者(広川)によります。
VENITE AD ME OMNES QUI CONCUPISCITIS ME ET A GENERATION(IBUS MEIS IMPLEMINI) われを欲する汝等は皆、われに来(きた)りて、われの産み出すものにて満たされよ。
新共同訳聖書において、この箇所は「シラ書」 24章 19節に当たります。
メダイの裏面には次の言葉がフランス語で記されています。
Souvenir reconaissant de Mgr. de Gibergues aux ouvriers de la salle Sainte-Madeleine 3,
mai, 1914 Valence ド・ジベルグ師からラ・サール・サント=マドレーヌの職員へ、感謝の記念品 1914年 5月 3日 ヴァランス
ド・ジベルグ師 (Mgr. Emmanuel-Martin de Gibergues) は、1912年から 19年までヴァランス(Valence
ローヌ=アルプ地域圏ドローム県)の司教を務めた人です。ラ・サール・サント=マドレーヌはヴァランスにあった大きな建物で、内部に劇場が設置されていましたが、本品が作られた五年後の
1919年7月1日、ここで教会主催の無料映画会が開かれた際に火災が発生し、130人近くの犠牲者を出しました。このなかには多数の子供も含まれており、フランス史上稀に見る悲劇として記憶されています。ラ・サール・サント=マドレーヌは
1980年に取り壊されて、跡地は駐車場になっています。
本品の材質はアルミニウムです。現代人の感覚では分かりにくいですが、アルミニウムは百年以上前の人々にとって特別なものと感じられる金属であり、19世紀末から20世紀初頭にかけてメダイの材料によく使われました。
1880年代半ばまで、アルミニウムは金(きん Au)よりも高価な金属でした。フランス皇帝ナポレオン三世は、通常の賓客を金銀の食器で、特別に大切な賓客をアルミニウムの食器でもてなしました。しかるに 1886年、アメリカの化学者チャールズ・マーティン・ホール (Charles Martin Hall, 1863 - 1914) とフランスの化学者ポール・ルイ=トゥサン・エルー (Paul Louis-Toussaint Héroult, 1863 - 1914) がアルミニウムの効率的な製錬法を考案しました。また 1888年、ホール=エルー法で使われるアルミナをボーキサイトから取り出すことに、オーストリアの化学者カール・ヨーゼフ・バイエル (Carl Josef Bayer, 1847 - 1904) が成功しました。このふたつの発明によって、効率的なアルミニウム精錬が可能になり、アルミニウムの価格は五分の一に下がりました。
現在では全世界で年間 5,000万トンものアルミニウムが作られています。しかしながら19世紀末から20世紀初頭において、アルミニウムはようやく使われ始めたにすぎず、ごく限られた量しか流通していませんでした。1900年のアルミニウム年間生産量は 8,000トンに過ぎません。アルミニウムの生産が伸び始めるのは、第一次大戦期以降です。したがって本品が作られた当時、アルミニウムのメダイは決してありふれた品物ではありませんでした。
本品はおよそ百年前に作られた真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。丁寧な浮き彫りで表されたサント・ボームの光景は、メダイの大きなサイズゆえにいっそう臨場感があり、美しい隠修者マドレーヌを眼前に見るかのような錯覚を憶えます。逆境にある人にも順境にある人にも、真に掛け替えのないものとは何かを思い起こさせてくれるメダイです。