稀少品 愛ゆえに小さき者になり給うた神 神のみに心を向ける聖フランチェスコと聖キアラのメダイ 23.8 x 20.3 mm


突出部分を含むサイズ 縦 23.8 x 横 20.3 mm

フランス  20世紀中頃



 同時代のアッシジに生き、神のみに心を向けて地上の生を歩んだふたりの聖人、アッシジの聖フランチェスコ (Francesco d'Assisi, 1182 - 1226) とアッシジの聖キアラ (Chiara d'Assisi, 1194 - 1253) を浮き彫りにしたメダイ。いずれの面も浅浮き彫りで表現されていますが、敬虔な魂の顕れである聖人たちの表情と仕草を、物理的な三次元性に頼ることなく再現し、優れた美術品の水準に到達しています。





 一方の面にはクルシフィクスを見つめるアッシジの聖フランチェスコを浮き彫りにしています。剃髪の修道士フランチェスコは磔刑のキリストを見つめています。十字架上の救い主はあたかも磁力線のように表現された愛と恩寵で聖人を包み込んでいます。





 上の絵はムリリョがアッシジのフランチェスコを描いた有名な作品です。この作品と比べれば、本品に刻まれたクルシフィクスの小ささは目を惹きます。

 小さな磔刑像は修道士の房内に掲げられたクルシフィクスを思い起こさせます。しかしながらこのクルシフィクスからは世界を満たすほどの愛と恩寵が発出しており、物品に過ぎない信心具よりもむしろ、活ける神を表しているように思えます。キリスト像の小ささは遠くにある物の遠近法的表現を連想させて、神と人との隔たりを暗示します。造物主であり、「在りて在る者」である神は、限りなく隔たった次元にあって塵にすぎない人間を愛し給い、この世界に受肉され、十字架上に救世を達成されました。物理的な光や磁力の強さは距離の二乗に反比例し、隔たれば隔たるほど急激に減衰しますが、神の愛は無限の隔絶を跳び超え、弱まることなく人間に届きます。神を求める人間の渇きもまた無限の隔たりを超えようとします。小さく見えるキリストが暗示する神と人との隔たりは、そのまま神の愛の強さを表しています。





 キリスト像の小ささは、また、文字通り「小さき者」になり給うた神をも表しています。フランチェスコのすぐ傍におられて、聖人を愛で包み給うキリストと、キリストのみを愛して自らを捧げる聖人の姿を見て、私は「重力と恩寵」に収められているシモーヌ・ヴェイユの言葉を思い出しました。

 パリに生まれ、ユダヤ人迫害を逃れて34歳の若さでアシュフォードに客死した女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ (Simone Weil, 1909 - 1943) は、28歳頃からキリスト教に接近しました。もともと「すべて」であり給うた神は、シモーヌによると、この世界と人間をお創りになった「クレアシオン」(仏 la Création 天地創造)の際、被造的世界を愛し、被造的世界が存在し得るために、自らが「すべて」であることを進んで放棄されました。したがって被造物である人間にとっては、「自らを無にして、神を愛し、神に還る」ことこそが、その本性に即した正しいあり方である、とシモーヌは考えました。自らを無にして神に還ることを、シモーヌは「デクレアシオン」(仏 décréation)と呼びました。「デクレアシオン」は「クレアシオン」(創造)に否定の接頭辞を付けた語で、「被造物が神から出た『創造』のプロセスを逆行して、被造物が神に還ること」を意味します。

 シモーヌが 1940年から 1942年までに疎開先のマルセイユで書き、信頼する友人である哲学者ギュスターヴ・チボン (Gustave Thibon, 1903 - 2001) に託した覚書は、シモーヌの死後、「重力と恩寵」("La Pesanteur et la Grâce") として本にまとめられました。その中に次のような一節があります。テキストはプロンの 1988年版(1947年版)によります。日本語訳は筆者(広川)によります。

     Décéation : faire passer du créé dans l'incréé.    デクレアシオン(逆創造)とは、「創られたる物」から「創られざる者」へと向かわせること。
     Destruction : faire passer du créé dans le néant. Ersatz coupable de la décréation.    デストリュクシオン(破壊)とは、「創られたる物」から「無」へと向かわせること。デクレアシオンの悪しき代替物。
         
     La création est un acte d'amour et elle est perpétuelle. A chaque instant notre existence est amour de Dieu pour nous.    クレアシオン(創造)は愛の業であって、永続的である。どの瞬間においても、我々が神の外側に現存(エグジステ exister)するということは、神が我々を愛し給うということである。 
     Mais Dieu ne peut aimer que soi-même. Son amour pour nous est amour pour soi à travers nous. Ainsi, lui qui nous donne l'être, il aime en nous le consentement à ne pas être.    しかしながら神が愛し給うのは、神ご自身のみのはずである。神が我々を愛し給うが、それは我々を通してご自身を愛しておられるのである。したがって我々に存在(être, ESSE)を与え給う御方は、我々の内なる、存在しないことへの同意を嘉(よみ)し給う。
     Notre existence n'est faite que de son attente, de notre consentement à ne pas exister.    我々は神の外側に現存する。しかしながらそれは、我々が神の外側に現存しないことに同意するのを、神が待っておられるゆえに実現していることである。
     Perpétuellement, il mendie auprès de nous cette existence qu'il nous donne. Il nous la donne pour nous la mendier.    神の外側における現存を、神は我々に与え給う。しかしながら神は常に我々の傍におられて、我々がその現存を神に返すことを求め給う。神が我々に現存を与え給うのは、それを返すように求め給うためである。
         
     Simone Weil, "La Pesanteur et la Grâce", 1988, Librairie Plon, Paris (ISBN 978-2-266-04596-4) p. 81    シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」 パリ、プロン書店 1988年 ポケット版 81ページ


 シモーヌは「エグジスタンス」という語を、英語の "be" に当たる「エートル」(仏 être)と明瞭に区別して使っています。上の引用箇所にたびたび現れる「エグジスタンス」(仏 existence)は動詞「エグジステ」(仏 exister 現存する)の名詞形で、「エグジステ」はラテン語の「エクシステレ」(EXISTERE) に由来しますが、「エクシステレ」とは「外側に」(エクス EX-)「存する」(システレ SISTERE)ということです。シモーヌは「エグジスタンス」という語をその語源に忠実な意味で用いています。シモーヌが言う「エグジスタンス」は「神の許しを得たうえで、神とは別のものとして、神の外側に一時的に現存すること」を指しており、神が必然的に存在することを表す「エートル」とは根本的に異なります。日本語にすれば同じ「ある」でも、必然的存在様態を表す「エートル」は神に固有の「あり方」であり、神が被造物に許し給う偶有的存在様態を表す「エグジステ」は、神に還るべき被造物に固有の「あり方」です。

 「エートル」、ラテン語でいえば「エッセ」(ESSE) そのものである神は、天地を創造したことにより、「すべて」であることを自ら進んで放棄し給いました。これは神の完全性や無限性が損なわれたということではありません。数学に譬えれば、「すべての数」の集合に属する数の個数は無限ですが、ここから幾つかの数、たとえば素数の集合を取り除いても、残りの数の個数はやはり無限です。無限でなくなったわけではありません。しかしその無限性が「弱く」なったということはできます。この譬えに似て、神は天地を創造することにより、「在りてある者」(ὁ ὤν 「出エジプト記」 3: 14)のままでありつつも、「すべて」ではない者になり給いました。神はその愛ゆえに、自ら進んで「小さき者」になり給うたのです。ふたたびシモーヌ・ヴェイユの言葉を借ります。

     Dieu a abandonné Dieu. Dieu s'est vidé : ce mot enveloppe à la fois la Création et l'incarnation avec la Passion... Pour nous apprendre que nous sommes non-être, Dieu s'est fait non-être.    神は神であることを棄て給うた。神は空(から)になり給うたのだ。この言葉が指すのは天地創造のことでもあり、受肉と受難のことでもある。我々が非存在であることを悟らせるために、神は非存在となり給うたのだ。


 神が神でなくなることはあり得ず、非存在になることもあり得ません。上に引用した一節において、シモーヌは哲学的厳密性を犠牲にし、人の心に訴えかけるオラトーリカルな言葉の力を優先して、修辞的な表現をしています。しかしながらシモーヌによるこの一文は、哲学的厳密性を欠くとしても、神の愛の強さを言葉で表そうとする優れた試みのひとつといえます。

 このメダイにおいて、「小さき者」になり給うた神の愛は、無限の隔絶を超えてフランチェスコに届き、フランチェスコの魂に神を愛する愛の火をともしています。まっすぐに前を見つめるフランチェスコの目には、小さき者になり給うた神の、無限に大きな愛のみが見えています。





 もう片方の面にはフランチェスコの聖性を慕って従ったアッシジの聖キアラ(聖クレール、聖クレア、聖クララ)が浮き彫りで表されています。キアラはモンストランス(聖体顕示台)を持っています。キアラがモンストランスに布を当てて手に持ち、直接触れることを避けているのは、聖なる物に触れる際、「マヌース・ヴェーラータエ」(羅 MANUS VELATAE 「被われた両手」の意)として古来行われてきた習慣です。

 モンストランスを掲げるキアラの姿は、1234年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の軍に属する兵士たちがキアラの女子修道院に侵入しようとした際の奇跡を思い起こさせます。このときキアラがキボリウム(聖体容器)あるいはモンストランスを手にして窓辺に立つと、修道院内に侵入しようとしていた兵士たちは梯子から落ち、逃げ出しました。


フランスの古い小聖画。当店の商品です。


 しかしながら聖体は本来強盗除けでも男除けでもなく、キリストの御体です。このメダイのフランチェスコが聖人伝の特定の場面を表していないのと同様に、聖体を恭しく捧持して頭を垂れるキアラの姿も、キリストのみをひたすらに愛する聖女の魂を形象化したものと考えることができます。

 フランチェスコの「小さき兄弟たち」と同様、自分を無にして心のすべてを神にのみ向けるために、キアラは喜捨に頼る清貧の生活を目指しました。この時代の修道院は、所有する広い農地、修道院内で運営する学校、修道院内で制作される手工業品で収入を得るのが普通でした。しかしながらフランチェスコは修道士が農作業や教職、物作りに携わることで、神に仕えるという第一の目的から注意が逸れてしまうと考えて、「小さき兄弟たち」の生活は喜捨によってのみ営まれるように定めました。キアラもこれと同様に、喜捨に頼る清貧の生活、あるいはより正確に言えば、神のみに頼る清貧の生活を望んだのです。

 後の教皇クレゴリウス9世となるウゴリーノ枢機卿は、1219年、キアラの会にベネディクト会のものと同様の会則を与えましたが、そこでは修道院財産の所有が許されていました。キアラはこれを嫌ってローマに請願を繰り返し、ついに 1228年9月17日、教皇クレゴリウス9世はキアラの会に「プリーヴィレーギウム・パウペリターティス」(PRIVILEGIUM PAUPERITATIS ラテン語で「清貧の特権」の意)を与えて、喜捨によって生きることを許可しました。教皇庁がこのような「特権」を与えるのは初めてのことでした。





 キアラたちに与えられた「プリーヴィレーギウム・パウペリターティス」の原本は、アッシジの聖キアラ修道院に残っています。以下に内容を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った訳語は、ブラケット [ ] で囲みました。

     Gregorius Episcopus, servus servorum Dei. Dilectis in Christo filiabus Clarae ac aliis ancillis Christi in ecclesia Sancti Damiani Episcopatus Assisii congregatis, salutem et apostolicam benedictionem.    司教グレゴリウス、神のしもべたちのしもべが、キリストにあって愛する娘たち、すなわちアッシジ司教区聖ダミアーノ教会において共に住まうクララ以下キリストの婢(はしため)たちに、挨拶と使徒継承の祝福を[送る]。
         
     Sicut manifestum est, cupientes soli Domino dedicari, abdicastis rerum temporalium appetitum; propter quod, venditis omnibus et pauperibus erogatis, nullas omnino possessiones habere proponitis, illius vestigiis per omnia inhaerentes, qui pro nobis factus est pauper, via, veritas, atque vita.    すでに明らかなる如く、主にのみ身を捧ぐるを欲する汝らは、移ろい行く物事への欲を拒み、それゆえにすべての物を売り払い、[あるいはそれらを]貧者たちに与えて、全く何らの所有物をも持たざるを決意し、我らのために貧しくなり給い、道とも真理とも命ともなり給うた御方の足跡に、あらゆることを通して従う者たちである。
     Nec ab huiusmodi proposito vos rerum terret inopia; nam laeva Sponsi caelestis est sub capite vestro ad sustentandum infirma corporis vestri, quae legi mentis ordinata caritate stravistis.    汝等は物に乏しく貧しけれども、決意を枉(ま)げることがない。なぜなら[神にある]夫[キリスト]の左手が、汝らの身体の弱き諸部分を支えるべく、汝らの頭(こうべ)の下にあるからである。弱きそれらの部分を、愛に支配された精神の範によって、汝らは覆ったのである。
     Denique qui pascit aves caeli et lilia vestit agri vobis non deerit ad victum pariter et vestitum, donec seipsum vobis transiens in aeternitate ministret, cum scilicet eius dextera vos felicius amplexabitur in suae plenitudine visionis.    そして、空の鳥を養い、野の百合を着飾らせ給う御方は、ご自身が汝等のもとに来給いて永遠に司牧し給うまで、すなわちその右手で豊かなる至福直観のうちに汝らを抱き、より大いなる幸福に至らせ給うまで、食べ物に関しても、また同様に着る物に関しても、汝らの世話を放棄し給うことはない。
         
     Sicut igitur supplicastis, altissimae paupertatis propositum vestrum favore apostolico roboramus, auctoritate vobis praesentium indulgentes, ut recipere possessiones a nullo compelli possitis.    それゆえ汝等が請願したる如くに、より一層の貧しさを求める汝らの決意を、われらは使徒座に発する賛意を以て認め、汝らが何びとによりても所有物を受けるように強いられ得ざることを、ここなる勅許状の権威によりて承認する。
         
     Nulli ergo omnino hominum liceat hanc paginam Nostrae concessionis infringere vel ei ausu temerario contraire. Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem omnipotentis Dei, et beatorum Petri et Pauli Apostolorum eius, se noverit incursurum.    それゆえ、われらが与うる勅許に抵触し、あるいは無分別な大胆さを以てこの勅許に反対することは、何びとに対しても決して許されるべきでない。しかしながらかかる試みを敢えて為す者は、全能の神と、神の至福なる使徒ペトロ、パウロの怒りがその者に到ることを知るべきである。
         
     Datum Perusii, decimoquinto kalendas Octobris, Pontificatus nostri anno secundo.    ペルージアにて、わが教皇在位第二年の九月十七日に布告






 本品の保存状態はきわめて良好で、突出部分にもまったく磨滅が見られません。現代的な表現により、神の愛が遠く隔たった時代のおとぎ話ではないこと、フランチェスコとキアラを焼灼した神の烈しい愛は、現代人の魂をも焼き尽くすことを芸術の言葉で語りかける優れた作品です。





本体価格 18,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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