1910年頃の書き込みがあるフランスのアンティーク小聖画。
表紙を飾る美麗なクロモリトグラフには、天上なるイエズスと、神の愛に燃えるイエズスの聖心が描かれています。緋色の帝衣と天上の色である青のマントをまとったイエズスは、左手を開いて釘の傷を示し、右手を挙げて祝福を与えています。四人のセラフィムがイエズスにかしずいており、その周囲を多数のケルビムが取り囲んでいます。イエズスの足下でケルブが示す銘板には、箴言23章26節の前半がラテン語で引用されています。
PRAEBE FILI MI COR TUUM MIHI わが子よ、汝の心をわたしにゆだねよ。
銘板の左右のイタリア語は「版権直接所有」(Diretto di Proprietà)、「不許複製」(Riproduzione Vietata)
の意味です。
本品を開くと、ローマのカストロ・プレトリオにある聖心のバシリカ (La Basilica del Sacro Cuore) 維持のために1フランの寄附を呼びかける内容が、フランス語で記されています。このバシリカは教皇ピウス9世
(Pius IX, 1792 - 1846 - 1878) が計画を承認したものですが、次の教皇レオ13世 (Leo XIII, 1810 -
1878 - 1903) はバシリカの建設をサレジオ会のドン・ボスコ (Giovanni Melchiorre Bosco, 1815 - 1888)
に任せました。ドン・ボスコは建設の資金集めに奔走し、亡くなる数ヶ月前にようやくバシリカを完成させることができました。
本品の文言によると、バシリカに1フランの寄附をして信心会に入った人の関係者のためには、将来に亙って日々六回のミサがローマの聖心のバシリカで捧げられ、また世界中のサレジオ会会員が、生者であると死者であるを問わず、信心会関係者のために祈りを捧げ続けると記されています。
最後のページには本品の発行許可に関係する事項が印刷されていますが、その最下部には次の言葉がフランス語で手書きされています。
L'âme la plus abandonnée de Naufrage du Pluviose 難破したル・プリュヴィオーズの、誰も助ける者がなかった魂(のために)
「ル・プリュヴィオーズ」(Le Pluviose) は 1907年にシェルブール海軍工廠で進水したフランス海軍の新鋭潜水艦でしたが、1910年5月26日、カレー港沖で沈没し、27名の若き乗組員が全員死亡しました。これはフランスじゅうが喪に服した大きな海難事故でした。
(下) 潜水艦ル・プリュヴィオーズ。当時の絵葉書から。
(下) エミール・オスカル・ギュイヨーム (Emile Oscar Guillaume, 1867 - 1942) によるル・プリュヴィオーズ難船記念碑。カレー港に現存します。
黒インクの書き込みでは「魂」(l'âme) という言葉が単数形であり、犠牲者のうち特定のひとり、おそらく息子か夫、あるいは婚約者であった若き水兵のための祈りが込められていることが分かります。上の訳文では「誰も助ける者がなかった」とした表現も、フランス語の原文では「ラ・プリュ・アバンドネ」(la
plus abandonnée) という最上級が使われており、サレジオ会員たちの祈りを求めて信心会に入り、本品にこの言葉を書き込んだ人が、難船の犠牲となった若者に寄せる深い悲しみと同情に、心を揺さぶられる思いがいたします。
聖画は良質の中性紙に刷られており、たいへん良好なコンディションです。破れや強い折れ目もありません。