二十世紀中頃のフランスで作られたクロワ・ド・クゥ(仏 une croix de cou 十字架形ペンダント)。末端に向けて広がる銀色のラテン十字に、青、緑、赤のアクリル樹脂でエマイユ・シャンルヴェ風の装飾を施しています。縦 26.4ミリメートル、横 19.0ミリメートル、厚さ 2.1ミリメートルと小さめのサイズですが、この時代に多いアルミニウム合金ではなく、比重の大きい金属を使っているために、手に取ると心地よい重みを感じます。
使徒パウロは「コリントの信徒への手紙 一」十三章十三節で、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と語っています。使徒のこの言葉に基づき、キリスト教では信・望・愛(信仰と希望と愛)が枢要徳(最も重要な徳)とされています。本品十字架のエマイユ風装飾には三色が用いられていますが、この三色はレ・トロワ・ヴェルテュ(仏
les trois vertus 三つの徳)すなわち信・望・愛の枢要徳を象徴しています。
西欧の象徴体系において青と赤は伝統的に対比され、青は智恵の色、赤は愛の色と考えられています。ケルビム(智天使)が青く描かれ、セラフィム(熾天使)が赤く描かれるのはそのためです。 また萌え出づる植物の緑は希望の色であり、カトリック教会のカノニカル・カラーにおいても希望、喜び、若者の明るい前途を表します。それゆえ青、緑、赤はそれぞれ信・望・愛に対応します。本品のエマイユ風装飾は十字架末端から中心に向けてこの順で三色を配列し、十字架交差部の愛の赤で徳の頂点に達します。
智恵の青が信仰と結びつく理由を補足的に説明するならば、「コリントの信徒への手紙 一」一章の後半において、使徒パウロは人智の限界について語り、神の智恵であるキリストへの信仰を人間の知力による宗教的探究に対比させ、前者(信仰)は人の智恵に勝ると論じています。一見したところ知的営為の放棄とも思える信仰が、ハギア・ソフィア(希
Ἁγία Σοφία 神の智恵 キリストのこと)に至る道であるとパウロは論じているのです。それゆえ智恵の色である青は、信仰の色でもあります。否むしろ、パウロの考え方に従えば、青は卓越的に信仰の色であることになりましょう。なぜならば信仰こそが真の智恵であるからです。
十字架字体も信・望・愛に関わる三重の象徴性を有します。まず十字架が信仰の象徴であることは言を俟たないでしょう。ローマ時代の十字架は最悪の刑具です。十字架で処刑されたキリストを崇め、十字架を日々の生活の旗印とすることは、時代を現代に移して譬えるならば、絞首刑になった教祖を崇め、絞首索を生活の旗印にするに等しい。これは人智に基づく正常な判断で為し得ることではなく、まさに不合理を受け入れる信仰の所産でしかありえません。
十字架が希望の象徴であることも容易に理解できるでしょう。アウェ・クルークス、スペース・ウーニカ(羅 AVE CRUX, SPES UNICA おお十字架よ、唯一の望みよ)とは、十字架称讃の祝日に歌われるフォルトゥーナートゥスの詩句です。
十字架が人智を絶する愛の象徴であることは、やはり説明不要です。罪びとを救うために受肉し給うた救い主は、王として降誕し給うたにもかかわらず、最悪の方法で刑死し給いました。しかしそれは救世の失敗ではなく、まさにパウロが言うように人智で測りがたい方法によって、救い主は愛による救世を達成し給うたのでした。それゆえ十字架は、人智を絶する愛を可視化したものに他なりません。
本品に限って言えば、交差部を取り巻くように緑色が配されているゆえに、筆者(広川)はケルト十字を思い起こします。ケルトの遺跡はブルターニュからグレート・ブリテン、アイルランドにかけて多く遺されています。ブリタンニア(グレート・ブリテン)に関して言えば、最初期のキリスト教移入はローマ軍が新入した一世紀に起こりましたが、異教のゲルマン民族が新入するに伴ってブリタンニアのキリスト教会は廃絶しました。ブリタンニアがふたたび教化されたのは、ローマ教会経由のキリスト教、及びアイルランドに生き残っていたケルト教会のキリスト教によります。664年のウィトビー教会会議をきっかけに、ブリタンニアではローマ・カトリックが優勢になってゆきますが、ケルト教会の影響はその後も残存し、九世紀から十二世紀にはグレート・ブリテンにおいても数多くのハイ・クロス(英
high crosses 石造のケルト十字)が建てられます。
ブルターニュからグレート・ブリテンを通ってアイルランドに至る地域で、ケルト教会の影響は色濃く残っています。ケルト十字はケルト教会の遺産のひとつであり、本品クロワ・ド・クゥにおいて交差部を取り巻くエマイユ風装飾は、その色が緑であるゆえに一層、ケルト十字のニンバス(英
nimbus 後光 交差部を環状に取り巻く部分)を思い起こさせます。
上の写真は本品を男性店主の手に乗せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きく感じられます。
本品はフランスで制作された品物であり、フランスは伝統的なキリスト教国であるゆえに、本品のエマイユ風装飾には上記のような意味を有します。しかしながらクロワ・ド・クゥは信心具ではなく、どなたにも気軽に使えるアクセサリーです。
本品は数十年前に制作された真正のヴィンテージ品ですが、未販売の新品と思われ、極めて良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。三色のエマイユ風装飾は透明感があって美しく、銀色の十字架が清楚、清潔な雰囲気です。サイズの点でも男女ともにお使いいただけます。