コランバス時計会社、ニュー・コランバス時計会社
Columbus Watch Company, New Columbus Watch Company
コランバス時計会社 (Columbus Watch Company, Columbus, Ohio) は、1876年にディートリヒ・グリュエンが創業した会社の流れを汲む時計会社で、1882年にアメリカ合衆国オハイオ州コランバスに設立されました。
【ディートリヒ・グリュエン】
ディートリヒ・グリューン、あるいはディートリヒ・グリュエン(Dietrich Grün/Gruen, 1847 - 1911 註1)は、1847年2月22日、現在のドイツ南西部の町オストホーフェン(Osthofen ラインラント=プファルツ州アルツェイ=ヴォルムス郡)に生まれました。15歳のときから時計職人に弟子入りし、現在のオーストリア及びドイツ各地で働いています。
1867年、ディートリヒ・グリュエンは先にアメリカに渡っていた兄たちを頼って渡米し、セントルイス(ミズーリ州)、シンシナチとコランバス(いずれもオハイオ州)で時計職人として働いたあと、オハイオ州デラウェアの時計職人の娘と結婚し、当地に居を定めました。
一介のドイツ移民ディートリヒ・グリュエンは、もともと裕福であったわけでも高い身分であったわけでもありませんでしたが、勤勉で優秀な時計職人でした。当時の時計は主ぜんまいが破断しやすく、大型懐中時計の強力な主ぜんまいが動作中に破断すると、輪列に大きな損傷が生じました。ディートリヒ・グリュエンはこの問題に対処すべく研究を重ね、1874年に
セイフティ・ピニオンの特許を取得しています。
【コランバス時計製造会社 1876年】
1876年、ディートリヒ・グリュエンは自ら社長となってオハイオ州コランバスに「コランバス時計製造会社」(The Columbus Watch
Manufacturing Company) を設立し、スイスから輸入したムーヴメントを使って時計作りを開始しました。
「コランバス時計製造会社」の時計には、ディートリヒ・グリュエンが考案したセイフティ・ピニオンが採用されていました。また当時の男性用時計は18サイズ以上が主流でしたが、グリュエンはより薄くて軽い16サイズの時計も多く扱いました。さらに当時の懐中時計はキー・ワインド(時計に付属する小さな鍵でぜんまいを巻く方式。鍵巻き)が常識でしたが、コランバス社は複雑な機構を必要とするステム・ワインド(現在のものと同様に竜頭を回してぜんまいを巻く方式)の時計を、アメリカ合衆国で最初に販売したと言われています。この頃の時計の製作数は、一日当たり10個ほどでした。
【コランバス時計会社 1882年】
1876年に設立された「コランバス時計製造会社」は、小規模であっても堅実なビジネスを展開したおかげで多数の出資者を獲得しました。1882年、より大規模な「コランバス時計会社」(The
Columbus Watch Company) として改組され、コランバスのドイツ系住民居住地区に落成した新工場に移りました。社長はディートリヒ・グリュエンです。
1876年に設立された「コランバス時計製造会社」は、スイス製ムーヴメントの仕上げと調整、ケーシング(ケースに入れて時計の完成品にすること)を行いましたが、新しく設立された「コランバス時計会社」では、自社製ムーヴメントの設計と製作が行われました。ぜんまいの巻き上げ方式は、キー・ワインドとステム・ワインドのいずれもが製作され、構造の簡単なキー・ワインドは、低価格モデルに採用されていました。コランバス時計会社における一日当たりの時計の製作数は、1888年までには約45個に増えました。
ディートリヒ・グリュエンの長男フレデリック (Frederick G. Gruen, b. 1872) はシンシナチ大学で機械工学を学んだ後、ドイツ南東端のスイス国境に近い町、グラスヒュッテの時計学校に留学し、優秀な成績を収めました。1893年、オハイオに戻ったフレデリックがコランバス時計会社で工程の合理化に努めた結果、工場の生産性は向上しました。
【ニュー・コランバス時計会社 1894年】
ところがこの年、アメリカ経済を恐慌が襲います。当時のアメリカ通貨は金銀複本位制を採っており、金銀の交換比率は1対16に固定されていましたが、鉄道が極度に発達して各地に銀鉱山が開発され、大量の銀が採掘されると、銀の市場価値が落ちてしまいました。そのため人々は通貨を金(きん)に換えようとして銀行に殺到し、銀行の金(きん)の備蓄が底を突いて、多数の銀行が倒産しました。当時のアメリカ経済は鉄道会社に支えられていましたが、鉄道会社は本業の収入よりも銀行からの融資に支えられていたため、鉄道会社は株価が暴落して続々と倒産し、他のあらゆる業種の連鎖倒産がこれに続きました。銀行の倒産は500社、全業種の倒産は15,000社に及び、翌1894年の失業率は、20%近くに達したといわれています。
この恐慌で時計の販売が低迷する中、二大時計会社のエルジンとウォルサムは大幅な値引きを行って消耗戦を展開しました。エルジンやウォルサムほどの資力が無いコランバス時計会社はこの消耗戦に耐えられず、1894年に倒産しました。ディートリヒ・グリュエンは被雇用者としてコロンバス時計会社に残ることを潔しとせず、息子フレデリック・グリュエンとともに会社を去りました。
グリュエン父子が去った後、コロンバス時計会社は再編されて、「ニュー・コランバス時計会社」(The New Columbus Watch Company) という名前に変わりました。新会社は「コランバス」及び「ニュー・コランバス」のブランド名で、従来通りの高品質の時計を作り続けましたが、大手時計会社との価格競争に圧迫されて経営が立ち行きませんでした。1903年、「ニュー・コランバス時計会社」の工場設備と製作中のムーヴメントは自動車メーカーとして知られるステュードベイカーにまるごと買収されてインディアナに移り、「サウス・ベンド時計会社」として再出発することになります。
なおコロンバス時計会社を去ったディートリヒ・グリュエンとフレデリック・グリュエンは、1894年に「D. グリュエン・アンド・サン社」(D. Gruen and Son) を設立し、グラスヒュッテのアスマン社に設計図を送ってムーヴメント製作を委託します。アスマン社はユリウス・アスマン (Julius Carl Friedrich Aßmann, 1827 - 1886) が、従兄フェルディナント・アドルフ・ランゲ (Ferdinand Adolph Lange, 1815 - 1875) の助けを借りて 1852年に設立した会社です。フェルディナント・アドルフ・ランゲの「ランゲ・ウント・ゼーネ社」(A. Lange & Söhne ランゲ・アンド・ゾーネ社)と同様、アスマン社は高品質のムーヴメントで高い評価を得ていました。
1898年、D. グリュエン・アンド・サン社はコロンバスからシンシナチに移転し、ディートリヒ・グリュエンの次男ジョージ・ジョン・グリュエン
(George John Gruen, 1877 - 1952) を迎えて D. グリュエン・アンド・サンズ社 (D. Gruen and Sons, 次いで
D. Gruen, Sons & Company) となり、この地で大きく発展することになります。
註1 ドイツ語「グリューン」(Grün 緑)に含まれる「ユー」(ü) は「ウー・ウムラウト」(U Umlaut) という音で、舌の位置を「エー」(e)
と発音するときのように高くした状態で、「ウー」(u) のように唇を丸めて発音します。「ウー・ウムラウト」は「ウー」(u) の上にウムラウト記号(横に並べた二つの点)を書きますが、ウムラウト記号は「エー」(e)
が変形したもので、最も古い時代には "ü" を "ue" と書いていました。
「ウー・ウムラウト」はドイツ語固有の文字で、"ü" の活字はドイツ語用タイプライターにはありますが、英語用タイプライターにはありません。そのような場合は
"ü" の代わりに "ue" と綴ります。ディートリヒ・グリューンも、アメリカにおいては「ディートリヒ・グリュエン」(Dietrich
Gruen) と名乗っていました。
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