19世紀ヨーロッパの鉄製ジュエリー
berlin iron jewelry




(上) Josef Maria Grassi, "Luise von Preußen", 1804, Eigentum des Hauses Hohenzollern, Schloss Charlottenburg, Berlin 当店の商品です。


 近代における鉄製ジュエリーの起源は、プロイセン王妃ルイーゼ (Königin Luise, 1776 - 1810) の時代に遡(さかのぼ)ります。


【ベルリン・アイアン ドイツの黒い鉄製ジュエリーの歴史】

 1800年頃、鉄を鍛造して精巧な品物を作る技術がほぼ確立すると、プロイセンの製鉄所や鉄工所では、鉄の持つ可能性を広げるべく試行錯誤が繰り返され、鉄製の肖像やメダイユ、信心具、喪中用のジュエリーなどが製作されるようになりました。これらの製品は、亜麻仁油に煤(すす)を混ぜた「ベルリン・ラッカー」で黒く着色されていました。

 1806年、ライン連邦の成立によって第一帝政フランスの覇権がプロイセンの隣接地まで及ぶと、危機感を強めたプロイセンは第四次対仏大同盟に参加してフランスと開戦します。しかしながら弱小国であった当時のプロイセンはたちまちにして強大なナポレオン軍に屈し、翌年ティルジットで屈辱的な講和条約を結ばされました。プロイセンが1億2,000万フランの賠償金を払い終えるまで、フランス軍がプロイセン国内に駐留することになりました。

 プロイセンを占領したナポレオンは、プロイセンの鉄製品の優美さに魅せられ、740台もの鋳型を徴発してパリに運びました。これらの鋳型から製作されたジュエリーや工芸品は、フランス国民に熱狂的に迎えられました。黒い鉄製ジュエリーの人気はフランスだけに留まらず、1840年頃にはイギリスでも大きな流行を見ています。



(上) 19世紀フランスの鋳鉄製クルシフィクス 当店の商品です。


 いっぽうプロイセンでは、1810年、避難先のケーニヒスベルクから失意のうちにベルリンに戻り、生家であるメクレンブルク=シュトレリッツ城に父を訪ねて滞在していたルイーゼ妃が、心因性と思われる体調不良に陥って急逝しました。妃の遺体をベルリンの王宮へと移送する三日の間、プロイセンは悲しみに沈み、女性たちは黒い鉄製ジュエリーを身に着けて哀悼の意を表しました。

 妃が没して三年後の1813年に「ドイツ解放戦争」が起こると、当時プロイセン国内に駐留していたフランス軍に対して蜂起する資金に充てるため、貴金属を供出するようプロイセンじゅうの女性たちに呼びかけが為され、女性たちはこれに応じて16万点もの金製ジュエリーを手放しました。金製品を手放した女性たちが代わりに身に着けたのは、黒い鉄のジュエリーでした。

 こうしてプロイセンには黒い鉄のジュエリー文化が花開くことになります。1824年にはアラベスクや植物モティーフの透かし細工による非常に精巧なジュエリーが初めて鋳造され、1830年代、40年代にはプロイセンじゅうの女性が鉄製ジュエリーで身を飾りました。黒い鉄製ジュエリーはヨーロッパじゅうに広まって、20世紀前半頃まで製作され続けることになります。



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