盛期中世のリモージュにおけるエマイユ・シャンルヴェ
l'Œuvre de Limoges, OPUS LEMOVICENSE
(上) リモージュ製 「真の十字架の聖遺物箱」 13世紀中頃、ただし脚のみ16世紀 幅 29.2 cm 奥行 14 cm 高さ 12.9 cm トゥールーズ、サン=セルナン教会蔵
六角形のフランス国土の中心から百キロメートルほど南西に位置するリモージュ(Limoges リムザン地域圏オート=ヴィエンヌ県)は、1765年に
カオリン鉱床が発見されたことで磁器の町として発展しましたが、リモージュで窯業が始まったのはフランス革命以降のことであり、中世においては金銀をはじめとする金属細工と
エマイユ(émail 七宝)で知られていました。
盛期中世において「リモージュもの」(l'Œuvre de Limoges, OPUS LEMOVICENSE) と呼ばれたリモージュ製エマイユ細工は、「エマイユ・シャンルヴェ」(l'émail
champlevé) の技法によるものが中心です。リモージュでは 12世紀前半にエマイユの制作が始まり、西ヨーロッパ最大のエマイユ産地として隆盛を極めますが、14世紀中頃にはいったん消滅してしまいます。しかしながら15世紀末に「エマイユ・パン」(l'émail
peint 手描きエマイユ)が行われるようになると、リモージュのエマイユは独占的地位を取り戻しました。
リモージュのエマイユ製品に言及した最初の記録は1167年ないし1168年頃の文書に見られ、パリのサン=ヴィクトル修道院 (l'abbaye
Saint-Victor, Paris 註3) にある一冊の書物の、「ウーヴル・ド・リモージュ」("œuvre de Limoges" 「リモージュもの」、すなわちエマイユ)で装飾された金属製の表紙に関して記述しています。これ以降、エマイユ細工の本や教会用品、すなわち
聖遺物入れ、クルシフィクス、聖体容器、聖杯、香炉等に関する記録が豊富に見出されるようになります。なおリモージュでは、世俗の紋章等、教会用品以外のエマイユ製品も作られています。
エマイユにはほとんどの場合銅板を用いるゆえに、金、銀製品に比べると安価でした。エマイユで描かれる絵の画面も大きく、ステンドグラスと同様に、図像による聖書や聖人伝の役割も果たしました。このような長所ゆえに、リモージュで制作されたエマイユ製品は、フランス国内のみならず、スウェーデン、イタリア、スペインなどヨーロッパ各地に広がりました。
【盛期中世のリモージュにおけるシャンルヴェ】
リモージュのエマイユが最初に発達したのは、上述のように、12世紀前半から14世紀中頃にかけてです。この時期にリモージュで行われたエマイユ技法は「シャンルヴェ」(le
champlevé) を基本とします。
「シャンルヴェ」の制作方法は次の通りです。
1. 薄く打ち延ばして数ミリメートルの厚さにした銅板に、鏨(たがね)とビュラン(burin 彫刻刀)を使い、1ミリメートルほどの深さの窪みを彫ります。
2. 珪砂(石英 SiO2)に融剤(融点を下げるための物質)を混ぜ、融解してガラスを得ます。中世のガラスは、融剤として木の灰を用いたカリガラスが普通です。ただしリモージュのガラスはほとんどすべてソーダガラスで、融剤としてナトロンを用いています。ナトロンは炭酸ナトリウムを豊富に含み、ガラスの融点を約1000℃にまで下げます。また、ガラスには微量の金属を混ぜることにより、着色することができます。
3. こうして得られた色ガラスを砕き、石臼で挽いて粉にし、1.の銅板に彫った窪みに入れます。ガラス粉を入れた銅板を窯に入れ、ガラスが融けるまで加熱した後、徐々に温度を下げ、ガラスを銅板の表面に固着させます。
4. 窯から取り出したエマイユを研磨し、金めっきを施します。
なおシャンルヴェのエマイユにおいて、異なる色どうしが常に金属の隔壁で仕切られているとは限りません。ガラスの融点は色によって異なるので、融点が高い色のガラスから順に使用して、温度を下げながら焼成を繰り返せば、仕切りを用いずとも色が交り合うことはなく、一つの窪みに多色エマイユを得ることができます。
【リモージュのエマイユ製品における様式の変遷 -- ロマネスク期からゴシック初期】
特注品は別として、リモージュのエマイユ製品は、その制作年代ごとに特徴を有します。すなわち最初期の作例では滑らかな銅板にエマイユで人像を描きますが、やがて人物の背景にグラヴュールで唐草文が施されるようになります。
次に、最初は人像の頭部のみ、後には全身を別鋳し、それらの部分を地板に鋲留めするようになります。これに伴い、エマイユの役割は徐々に縮小してゆきます。すなわち頭部のみを別鋳するようになった当初は、首より下の部分にはエマイユを施していましたが、やがて首より下の部分にはエマイユを施さずに衣の襞などをグラヴュールで表現するようになります。聖人の全身を別鋳する段階に至ると、人物像にはエマイユが使われず、人像全体がグラヴュールで表現されることが多くなります。このような作例において、エマイユの使用はロゼット等の背景描写のみに限定されます。
浮き彫り風に突出する人像は、やがて丸彫り像のように完全な三次元性を有するようになりますが、この段階に到ると、エマイユは装飾のごく一部分にしか使われなくなります。
以下では、リモージュ製聖遺物箱におけるエマイユの様式的変遷を、具体例に即して見てゆきます。
リモージュでエマイユが作られ始めたのは12世紀前半と考えられています。リモージュで作られたことがはっきりと記録に残っている最初の作例は、マルシュ伯(註1)の注文によって1130年頃に制作された「ベラックの聖遺物箱」(châsse
de Bellac) で、シャンルヴェによる人物及び鳥獣像のメダイヨン12個(うち3個は欠損)と、多数の宝石を取り付けています。
「ベラックの聖遺物箱」はベラック (Bellac) の聖母被昇天教会 (Eglise de l'Assomption-de-la-Très-Sainte-Vierge)
に保存されています。ベラックは、リモージュの北北西およそ45キロメートルにある町で、リモージュとともにバス=マルシュに属します。
(下) 「ベラックの聖遺物箱」 幅 26 cm 奥行 11.7 cm 高さ 20 cm
また1150年頃には、シャンパニャ(Champagnat リムザン地域圏クルーズ県)の聖マルシアル教会旧蔵の聖遺物箱が制作されています。シャンパニャの聖遺物箱では、シャンルヴェによる人物像が箱に直接施されています。下の写真において、手前の側面には中心にキリスト、キリストの右(向かって左)にマグダラのマリア、キリストの左に聖マルシアル(註2)が描かれています。反対側は屋根と側面に亙って
テトラモルフのシャンルヴェが大きく描かれています。
シャンパニャはリモージュの北西100キロメートルにある町です。シャンパニャの聖遺物箱はメトロポリタン美術館に収蔵されています。
(下) 「シャンパニャの聖遺物箱」 幅 18.9 cm 奥行 8.5 cm 高さ 12.4 cm
1170年代以降にリモージュで制作された聖遺物箱に見られる特徴は、人像の頭部、さらに後には人像全体を立体的に別鋳し、聖遺物箱に鋲留めする手法です。
下の写真は 1170年代前半頃に制作された「聖エチエンヌの聖遺物箱」で、人像の頭部を別鋳した最古の作例です。この作品において、人像の首から下にはエマイユが施されていますが、別鋳の頭部にはエマイユがありません。背景部分の美しい唐草文様は、「ヴェルミキュラージュ」(vermiculage フランス語で「虫食い様装飾」)と呼ばれ、
グラヴュール(エングレーヴィング)によります。
聖遺物箱の一方の面は聖エチエンヌ(聖ステファヌス)伝となっており、本体に聖人の福音宣教と捕縛、屋根部分に聖人の石打刑の様子が描かれています。もう一方の面には聖遺物箱本体に四人の使徒、屋根部分に三人の天使を描きます。
「聖エチエンヌの聖遺物箱」はジメル=レ=カスカード(Gimel-les-Cascades リムザン地域圏コレーズ県)のサン=パルドゥ教会 (Eglise
paroissiale Saint-Pardoux) に保存されています。1991年に盗難に遭いましたが、無事見つかり、1994年に教会に戻されました。
(下) 「聖エチエンヌの聖遺物箱」 幅 28.5 cm 奥行 11.3 cm 高さ 25 cm
次に挙げる例は 13世紀の第一四半期に制作された小品、「聖ヴァレリーの聖遺物箱」です。この作例においては、別鋳した頭部と同様に、人像の首から下にもエマイユは施されず、グラヴュールによって顔の表情、衣服の襞が表現されています。背景部分は青を基調としたエマイユを全面に施し、多数のロゼットを散らします。それぞれのロゼットに施された多色のシャンルヴェには、異なる色の間に銅の仕切りがありせん。
聖遺物箱の一方の面は聖ヴァレリー殉教伝となっており、もう一方の面は本体側面、屋根部分とも青色エマイユによる菱形装飾が全面を占めています。
「聖ヴァレリーの聖遺物箱」はフラヴィニャック(Flavignac リムザン地域圏オート=ヴィエンヌ県)にある聖母被昇天教会 (Eglise
de l'Assomption-de-la-Très-Sainte-Vierge) のもので、1982年にパリで修復を受けています。上部の突起は制作当時の物です。
(下) 「聖ヴァレリーの聖遺物箱」 幅 14.3 cm 奥行 6.4 cm 高さ 14.5 cm
次に挙げる例は、大きさが異なるふたつの聖遺物箱を合わせて作ったと考えられる「マギの聖遺物箱」です。
聖遺物箱の表(おもて)面には、ヘロデ・アンティパスから頼まれて「ユダヤ人の王」を探しに行く三人のマギを本体側面に、聖母の膝に乗る幼子イエズスを礼拝するマギを屋根部分に、それぞれ表しています。屋根部分のマギの像は、二人目が脱落しています。人像は全身が別鋳され、頭部を除いてエマイユが施されています。
裏面には本体側面に二つ、屋根部分に三つの大きなメダイヨンを配し、それぞれの中に天使の半身像を描きます。天使の背景は青色のエマイユですが、天使自体にはエマイユが施されていません。
「マギの聖遺物箱」はもともとラヴァル=シュル=リュゼール(Laval-sur-Luzège リムザン地域圏コレーズ県)の教会にあったもので、現在は同県ラプロー
(Lapleau) の教区教会サン=テチエンヌ (Eglise paroissiale Saint-Etienne) に移されています。1964年と1985年に修復を受けています。
(下) 「マギの聖遺物箱」 幅 22.5 cm 奥行 7.8 cm 高さ 21cm
下の写真はモザ修道院 (l'abbaye de Mozac, l'abbaye Saint-Pierre et Saint-Caprais
de Mozac) にある「聖カルマンの聖遺物箱」で、12世紀末頃の作例です。屋根の中心にテトラモルフに囲まれたキリスト、その下に受難のキリストと聖母、聖ヨハネ、ふたりの天使、それらを囲んで十二使徒が、いずれも別鋳造の小像を取り付けて、浮き彫り風に表されています。背景部分にはヴェルミキュラージュが施され、ロゼット(rosettes 華文)や唐草文
(rinceaux) がシャンルヴェによって表されています。像にはエマイユがほとんど施されていません。
13世紀の第二四半期以降にリモージュで制作される聖遺物箱の大部分は、別鋳の全身像にエマイユを施していません。「聖カルマンの聖遺物箱」は、この様式によるごく早期の作例ということができます。
モザ(Mozac/Mozat オーヴェルニュ地域圏ピュイ=ド=ドーム県)は、六角形のフランス国土の中心から少し南に下がったところにある町です。聖カルマン
(St. Calmin) あるいは聖カルミニウス (S. CALMINUS) はモザ修道院の開祖で、妻である聖ナマディ (Ste. Namadie)
あるいは聖ナマディア (S. NAMADIA) とともに、「聖カルマンの聖遺物箱」に納められています。
「聖カルマンの聖遺物箱」は、リモージュのエマイユによる聖遺物箱のなかでも最大の作例で、モザ修道院付属聖堂の南翼廊に保存展示されています。
(下) 「聖カルマンの聖遺物箱」 幅 81 cm 奥行 24 cm 高さ 45 cm
次に挙げる例は完全な丸彫りによる「聖フェレオルの人像型聖遺物箱」(Chef-reliquaire de Saint-Ferréol) です。像の後ろに10
x 10.5センチメートルの銘板が取り付けられており、その記述から、エメリック・クレチアン (Aymeric Chrétien) というリモージュの金細工師が、1346年に制作したものであることが分かります。
聖フェレオルは6世紀のリモージュ司教で、ここではミトラ(司教帽)を被り、アミクトゥス(肩布)を付けた姿で表されています。この聖遺物箱では、ミトラの前後に二つずつ付いている四つ葉形装飾にエマイユが使われています。
「聖フェレオルの人像型聖遺物箱」はヌクソン(Nexon リムザン地域圏オート=ヴィエンヌ県)のラ・デコラシオン=ド=サン=ジャン=バチスト教会
(Eglise de la Décollation-de-Saint-Jean-Baptist) に保存されています。1987年にパリで修復を受けています。
(下) 「聖フェレオルの人像型聖遺物箱」 幅 37 cm 奥行 24 cm 高さ 60.5 cm
12世紀後半頃からゴシック様式が広まり始めると、リモージュのエマイユもロマネスクからゴシックに移行します。
下の写真は
アッシジの聖フランチェスコをセラフとともに描いた聖遺物箱の装飾板で(註4)、13世紀後半の作例です。ロマネスク美術においては図像の様式化が極度に推し進められる傾向がありますが、この装飾板に描かれたフランチェスコと二本の木は自然な表現で、ゴシック的特徴が良く表れています。色遣いは抑えられていますが、これは必ずしもロマネスク時代の勢いが衰えたわけではなく、時代の好みに沿った表現と考えるべきでしょう。ただし、この作品には当てはまりませんが、13世紀半ば以降にリモージュで制作されたエマイユには、色の鮮やかさを欠く作例が多く見られるようになります。
この装飾板は、パリのクリュニー美術館に収蔵されています。
(下) 聖フランチェスコの装飾板
このように数々の美しいエマイユ作品を産み出したリモージュですが、14世紀に入るとエマイユ制作は衰退します。百年戦争(1337 - 1453年)期の
1370年、リモージュはイングランドのエドワード黒太子 (Edward the Black Prince, 1330 - 1376) に攻略されて市民数百人が殺されましたが、この頃エマイユはすでにほとんど制作されていませんでした。リモージュ製エマイユが息を吹き返すのは、15世紀の「エマイユ・パン」(l'émail
peint) の出現
を待たなければなりません。
註1 「マルシュ」(la Marche) は現在のリムザン北部にあたり、「オート=マルシュ」(la Haute-Marche) と「バス=マルシュ」(la Basse-Marche) に分かれます。
註2 聖マルシアル (St. Martial de Limoges) は「ゴール人の使徒」「アキテーヌの使徒」と呼ばれる三世紀の人物で、初代リモージュ司教です。リムザンにおいて、聖マルシアルはキリストの「十三人目の使徒」といえるほどに篤く崇敬されています。
註3 高名な神学者であり哲学者であるギュイヨーム・ド・シャンポー (Guillaume de Champeaux, GUILLELMUS CAMPELLENSIS,
c. 1070 - 1121) は、1108年、数人の弟子を伴って聖ジュヌヴィエーヴの丘のふもとに隠棲し、学問を教えました。カペー朝の王ルイ6世
(Louis VI, 1081 - 1137) が後ろ盾になって、この学問所を修道院としたことにより、1113年、アウグスチノ会修道院サン=ヴィクトル
(l'abbaye Saint-Victor, Paris) が生まれました。
ギュイヨーム・ド・シャンポーはパリ司教総代理であり、パリ司教座聖堂付属学校の学長を務めた人物です。ピエール・アベラール (Pierre Abélard,
1079 - 1142) の師でもありましたが、普遍論争においては実在論に与(くみ)してアベラールを批判しています。
高名な学者を開祖とする修道院に相応しく、サン=ヴィクトル修道院は創建後数十年のうちに、西ヨーロッパにおける神学及び哲学研究において重要な地位を占めるようになり、
リシャール・ド・サン=ヴィクトル (Richard de Saint-Victor, c. 1110 - 1162) をはじめ優れた学者を輩出しましたが、フランス革命期の1790年に廃院となり、1811年に取り壊されてしまいました。
註4 その深い慈愛のゆえに、アッシジの聖フランチェスコは愛に燃える
セラフ(熾天使)に喩えられ、「フランキスクス・セラフィクス」(FRANCISCUS SERAPHICUS ラテン語で「セラフの如きフランチェスコ」)と呼ばれます。
ちなみに13世紀の西ヨーロッパ思想史に大きな足跡を遺したフランシスコ会の神学者ボナヴェントゥーラ (Bonaventura, c. 1220 - 1274) は、フランチェスコと同様にセラフに喩えられて、「熾天使的博士」(DOCTOR SERAPHICUS) と呼ばれています。
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リモージュのエマイユ画付 「イエズスの御生涯の祈祷書」 Missel de la vie de Jesus, no. 900, Mellottee, Limoges, vers 1940 - 50's
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