ユダヤ=キリスト教における葡萄のシンボリズム
la symbolique de la vigne dans le judéo-christianisme
(上) Salomon Koninck,
"The Parable of the Laborers in the Vineyard", late 1640's, Oil on canvas, 48 x 57.5 cm, the Hermitage, St. Petersburg
地中海沿岸において最も重要な作物のひとつである葡萄は、ユダヤ教及びキリスト教において重要な象徴性を担っています。本稿では、葡萄が担うユダヤ=キリスト教的象徴性を、聖書に即して論じます。
【旧約聖書における葡萄】
・神に喜ばれる聖樹としての葡萄
旧約聖書の時代、イスラエル民族を含むパレスチナの諸民族の間で、葡萄の木は聖樹と考えられ、葡萄酒は宗教的祭儀において飲用されました。「士師記」
9章には次の記述があります。
木々が、だれかに油を注いで自分たちの王にしようとして、まずオリーヴの木に頼んだ。『王になってください。』 オリーヴの木は言った。『神と人に誉れを与えるわたしの油を捨てて、木々に向かって手を振りに行ったりするものですか。』 木々は、いちじくの木に頼んだ。『それではあなたが女王になってください。』 いちじくの木は言った。『わたしの甘くて味のよい実を捨てて、木々に向かって手を振りに行ったりするものですか。』 木々は、ぶどうの木に頼んだ。『それではあなたが女王になってください。』 ぶどうの木は言った。『神と人を喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて、木々に向かって手を振りに行ったりするものですか。』 そこですべての木は茨に頼んだ。『それではあなたが王になってください。』 茨は木々に言った。『もしあなたたちが誠意のある者で、わたしに油を注いで王とするなら、来て、わたしの陰に身を寄せなさい。そうでないなら、この茨から火が出て、レバノンの杉を焼き尽くします。』 (「士師記」9章
8 - 15節 新共同訳)
「申命記」 32章 38節には次のように書かれています。
主は言われる。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。彼らはいけにえの脂肪を食らい、注がれた酒を飲んだではないか。さあ、その神々に助けてもらえ。お前たちの避け所となってもらえ。しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。わたしは手を天に上げて誓う。『わたしの永遠の命にかけて、きらめく剣を研ぎ、手に裁きを握るとき、わたしは苦しめる者に報復し、わたしを憎む者に報いる。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食らわせる。殺された者と捕らえられた者の血を飲ませ、髪を伸ばした敵の首領の肉を食らわせる。』」 (「申命記」
32章 37 - 42節 新共同訳)
「申命記」 32章 38節は、新共同訳では「彼らはいけにえの脂肪を食らい、注がれた酒を飲んだではないか」と訳されていますが、この「酒」は葡萄酒のことです。異教の祭儀において、生贄と共に葡萄酒が用いられていたことが、この記述からわかります。
・メシアの到来、神の平和を象徴する葡萄
葡萄はオリーヴやイチジクと並んで、メシアの到来を象徴する木でもあります。「ミカ書」 4章 1節から 4節には次のように書かれています。
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと万軍の主の口が語られた。 (「ミカ書」 4章 1- 4節 新共同訳)
ニューヨークの国連本部に刻まれた「ミカ書」 4章 3節の前半(あるいは「イザヤ書」 2章 4節の前半)、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(They
shall beat their swords into plowshares, and their spears into pruning
hooks: nation shall not lift up a sword against nation, neither shall they
learn war any more.) は、旧約聖書でも最も有名な聖句のひとつでしょう。「ミカ書」 4章は世の終末にメシアが到来し、完全な平和がもたらされると述べています。人々は葡萄の木の下、イチジクの木の下に座り、神とメシアの支配による平和を享受します。
(下) 旧ソ連の彫刻家エフゲーニイ・ヴチェーティチ (Евгений Вучетич, 1908 - 1974) による1957年の作品「剣を鋤に打ち直そう」
(Перекуём мечи на орала) のレプリカ。この彫刻はモスクワのヤキマンカ地区に設置され、1959年にはソヴィエト連邦からの寄贈を受けて、ニューヨークの国連美術コレクションにも加えられています。
バビロン捕囚からエルサレムに帰還した預言者ゼカリアは、破壊されたエルサレム神殿の再建に情熱を燃やしました。「ゼカリア書」 3章 6 - 10節において、ゼカリアはダヴィデの家系からメシア(下記引用文中の「若枝」)が出て、エルサレムに平和と救いがもたらされると予言しています。該当箇所を引用します。
主の御使いはヨシュアに証言して言った。「万軍の主はこう言われる。もしあなたがわたしの道を歩み、わたしの務めを守るなら、あなたはわたしの家を治め、わたしの庭を守る者となる。わたしはあなたがここで仕える者らの間に歩むことを許す。大祭司ヨシュアよ、あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。あなたたちはしるしとなるべき人々である。わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる。ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて、ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」 (「ゼカリア書」 3章 6 - 10節 新共同訳)
「ゼカリア書」のこの箇所においても、「ミカ書」におけると同様に、人々は葡萄の木の下、イチジクの木の下に座り、神とメシアの支配による平和を享受しています。
・多産と繁栄、富、知恵を象徴する葡萄
葡萄はその多産性ゆえに繁栄の象徴、及び富と財産の象徴であり、転じて知恵の象徴でもあります。
「詩編」 128編は、主を畏れる人にもたらされる祝福を謳っています。家系に繁栄をもたらす多産な妻は、128編 3節において葡萄に譬えられています。「詩編」
128編の全体(1節から 6節)を新共同訳により引用します。
いかに幸いなことか。主を畏れ、主の道に歩む人よ。
あなたの手が労して得たものはすべてあなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことかいかに恵まれていることか。
妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーヴの若木。
見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
シオンから主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見、
多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。 (「詩編」 128編 1- 6節 新共同訳)
富、財産を表す葡萄は、人間において最も大切なものである「知恵」の象徴でもあります。「シラ書」 24章は「知恵」が自らを讃える賛歌となっていますが、ここでは知恵を象徴するいくつかの物に並んで、葡萄が登場します。「シラ書」
24章 13 - 17節を、新共同訳により引用します。
わたしはレバノンの杉のように、ヘルモン山の糸杉のように大きく育った。エン・ゲディのしゅろのように、エリコのばら、野にある見事なオリーヴの木、すずかけの木のようにわたしは大きく育った。肉桂やアスパラトの木のように、最上の没薬のように、わたしは良い香りを漂わせた。ヘルベナ香、シェヘレト香、ナタフ香のように、また、幕屋に立ちこめる乳香の香りのように。わたしはテレビンの木のように枝を広げた、壮大で優美な枝を。わたしはぶどうの木のように美しく若枝を出し、花は栄光と富の実を結ぶ。 (「シラ書」 24章 13 - 17節 新共同訳)
・イスラエルを象徴する葡萄
葡萄は神に愛されるイスラエルの象徴でもあります。
イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされますが、「詩編」 80編はこの少し前に書かれたと考えられ、神に救いを求める痛切な哀訴となっています。この箇所において、イスラエル民族は葡萄の木に譬えられています。
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました。その陰は山々を覆い、枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで、若枝を大河にまで届かせられました。なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。森の猪がこれを荒らし、野の獣が食い荒らしています。万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください。あなたが右の御手で植えられた株を。御自分のために強くされた子を。それを切り、火に焼く者らは、御前に咎めを受けて滅ぼされますように。御手があなたの右に立つ人の上にあり、御自分のために強められた人の子の上にありますように。 (「詩編」
80編 9 - 18節 新共同訳)
イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたのは、預言者イザヤによると、イスラエル民族が神に背いたゆえに招いた災いでした。「イザヤ書」 5章 1
- 10節では、イスラエル民族が実りをもたらさない悪い葡萄畑に譬えられています。新共同訳により、該当箇所を引用します。
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに、この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は、必ず荒れ果てて住む者がなくなる。十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫。一ホメルの種に一エファの実りしかない。(「イザヤ書」
5章 1 - 10節 新共同訳)
「イザヤ書」 27章 2節から 6節は、上記「イザヤ書」 5章 1 - 10節に対応します。「イザヤ書」 27章 2節から 6節では、アッシリアに滅ぼされ、ニネヴェに連れ去られて辛酸を舐めたイスラエルを、神が赦し、その敵から守り給うと語られています。新共同訳により、該当箇所を引用します。
その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば、わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。そうではなく、わたしを砦と頼む者は、わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす。 (「イザヤ書」
27章 2 - 6節 新共同訳)
「エレミヤ書」 2章 21節、「ホセア書」 10章 1節においても、イスラエル民族は葡萄の木に譬えられています。
わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。 (「エレミヤ書」
2章 21節 新共同訳)
イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き、聖なる柱を倒される。 (「ホセア書」
10章 1 - 2節 新共同訳)
・神の裁きを受ける異民族を象徴する「酒舟で踏まれる葡萄」
un bas-relief, la cathédrale Notre-Dame d'Amiens
(上) 収穫した葡萄を踏んで搾汁する男。アミアン司教座聖堂ノートル=ダムにある「四季の仕事」の浮き彫りより。
収穫されて酒舟で踏まれる葡萄は、神の裁きを受ける異民族を象徴します。「イザヤ書」 63章 1 - 6節には次のように書かれています。
「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き、勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ、大いなる救いをもたらすもの。」「なぜ、あなたの装いは赤く染まり、衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した。」わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来たので、わたしは見回したが、助ける者はなく、驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により、わたしを支えたのはわたしの憤りだ。わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた。 (「イザヤ書」
63章 1 - 6節 新共同訳)
「エレミヤ書」 25章 30 - 31節には次のように書かれています。
あなたは、これらの言葉をすべて彼らに預言して言うがよい。「主は、高い天からほえたけり、聖なる宮から声をとどろかされる。その牧場に向かってほえたけり、この地のすべての住民に向かって、酒ぶねを踏む者のように叫び声をあげられる。その響きは地の果てに至る。主は、諸国民と争い、肉なるものをすべて裁き、主に逆らう者を剣に渡される」と主は言われる。 (「エレミヤ書」
25章 30 - 31節 新共同訳)
「ヨエル書」 4章 13節には次のように書かれています。
鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ。酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。 (「ヨエル書」 4章 13節 新共同訳)
a fresco painting at Dionysiou Monastery, Mt. Athos
「ヨハネの黙示録」 14章 14 - 20節における最後の審判の描写は、旧約聖書のこれらの箇所と照応します。新共同訳により、該当箇所を引用します。
また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。 (「ヨハネの黙示録」
14章 14 - 20節 新共同訳)
【新約聖書における葡萄】
・「神の国」を象徴する葡萄畑
イエス・キリストが語り、すべての共観福音書に記録されている「葡萄園と悪い農夫」のたとえ話は、上で引用した「イザヤ書」 5章 1 - 10節に基づいています。「マタイによる福音書」
21章 33 - 44節を、新共同訳により引用します。
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 (「マタイによる福音書」
21章 33 - 44節 新共同訳)
この譬え話において、葡萄畑は神の国を、農園主は神を、農夫は人間(イスラエル民族あるいは異民族)を象徴しています。神の国は当初イスラエル民族に与えられるはずでしたが、彼らは多数の預言者たちを殺し、ついには神のひとり子さえも捕えて殺してしまいました。それゆえ葡萄園すなわち神の国は、イスラエル民族にではなく、異邦人に与えられました。
(下) Rembrandt,
"The Parable of the Laborers in the Vineyard", 1637. Oil on panel. The Hermitage, St. Petersburg
・「まことの葡萄の木」であるイエス・キリストと、「葡萄の枝」であるキリスト者
「ヨハネによる福音書」 15章 1 - 10節において、イエスは弟子たちに対して葡萄の木のたとえ話を語り、「わたしの愛にとどまりなさい」と命じておられます。このたとえ話において、葡萄の木の幹はイエスを、葡萄の枝はイエスの弟子(キリスト者)を、農夫は父なる神を象徴しています。新共同訳により、該当箇所を引用します。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 (「ヨハネによる福音書」
15章 1 - 10節 新共同訳)
15章 9節の後半にある「わたしの愛にとどまりなさい」(μείνατε ἐν τῇ ἀγάπῃ τῇ ἐμῇ. ) という言葉は、「わたし(イエス)を常に愛しなさい」という意味にも、「私の愛を受けるにふさわしい者であり続けなさい」という意味にも取れますが、いずれにせよ、このたとえ話では、キリスト者がキリストに倣い、キリストに一致することの必要性が語られています。
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