ウィリアム・エティ William Etty R. A., 1787 - 1849



(上) William Etty, "Self portrait", 1823. Oil on paper on panel, 19.1 x 14 cm. Yale Center for British Art


 ウィリアム・エティは十九世紀前半に活躍したイギリスの画家です。歴史画を得意としましたが、道徳に堅苦しいヴィクトリア時代にあって、絵の中に男女の大胆な裸像を描き入れ、いくら非難されても画風を変えませんでした。

 十九世紀半ば以降、ターナーの後期の名作やラファエル前派及び印象派の活動が世間の耳目を奪うにつれて、生前に高く評価されたエティの画業は、徐々に忘れられました。エティの絵の価格は没後いったん急上昇しましたが、その徐々に下落し、十九世紀末には生前の値段を下回っていました。1954年に英国アート・カウンシル(The Arts Council of Great Britain)によって回顧展が開かれたことで再評価が行われましたが、それも短期間しか持続しませんでした。その後エティはおよそ半世紀に亙って再び忘却されていましたが、2011年に生地のヨーク美術館(the York Art Gallery)で百点近い作品を集めた大規模な回顧展が開かれて、再び美術界の注目を集めています。


【十九世紀前半のイギリス美術界】

 1768年から 1792年まで王立アカデミー会長の地位にあったサー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿 Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792)はイギリス美術界に大きな影響を及ぼしました。レノルズhはイタリア・ルネサンスの巨匠を範と仰ぎ、対象のあるがままを写すのではなく、むしろ詩的理想に従って描写すべきであると考えました。1769年から1790年までレノルズがアカデミーで行った講義の集成である「美術対話」(Discourses on Art)は、レノルズの没後も美術を学ぶ者の指針となり、美術界に大きな影響を及ぼし続けました。1769年以来、王立アカデミーが毎年開催している夏の展覧会(the Royal Academy Summer Exhibition)は、イギリス美術界最大の年中行事でしたし、美術を志す若者を独占的に教育する王立アカデミー美術学校(the Royal Academy Schools)では、ごく限られた様式の描き方しか教えませんでした。

 ところで中世以来ヨーロッパ絵画は、その主題にしたがって軽重の序列がありました。すなわち宗教画が最も尊く、次に歴史画や寓意画が尊く、自然を写すに過ぎない肖像画や静物画、風景画は地位が低かったのです。このうち宗教画は、プロテスタントの国となった近世以降のイギリスでは描かれなくなりました。近世以降のイギリスにおいて、宗教画に代わって最高の地位を占めたのは、歴史画でした。しかしながら「歴史画こそ描かれるべきだ」というのは理念上の主張であって、実際に盛んに描かれたのは肖像画でした。写真が無い時代、裕福な人々は自身の肖像画を必ず注文したからです。これに対して顧客が歴史画の制作を注文することなど、まず考えられませんでした。このような事情により、理念上は最高の地位を占めるはずの歴史画は、実際に描かれることがほとんどなくなってしまっていました。


(下) William Etty, "Miss Mary Arabella Jay ", 1819, Oil on canvas, 76.2 x 63.2 cm, Tate Britain




【ウィリアム・エティの生涯】

 ウィリアム・エティ(William Etty R. A., 1787 - 1849)は 1787年3月10日、イングランド北東部のヨーク(York)に、製粉・製パン業者の息子として生まれました。両親はメソディスト派の信徒でしたが、ウィリアムはメソディスト教会の殺風景な様子が気に入らず、国教会の礼拝に出席することもありました。

 ウィリアムは十一歳から七年間、印刷工の徒弟として働きましたが、仕事の合間に絵を描き、また読書によって見識を広めました。ウィリアムが従事していた印刷業は、間接的であるにせよ美術と関連のある仕事であり、ウィリアムはこの仕事を通じて、職業美術家になる希望を育んだと思われます。

 1805年に徒弟の年季が開けると、ウィリアムは数本のパステルを持ち、兄のウォルターを頼ってロンドンに出ました。ロンドンでは父方のおじで同名のウィリアムが金糸(軍服等に使う金属の糸)製造業者として成功しており、ウォルターはそこで職人として働いていたのです。

 ウィリアムは王立アカデミー美術学校(the Royal Academy Schools 註1)に入学したいと考えていたので、ロンドンに出るとすぐに版画の模写や写生に励み、またロンドン中心部のスミスフィールドにあったジャネリ(Gianelli)の石膏像工房をたびたび訪ねて、厳しい入学試験に備えました。ヘンリー・フュースリーに才能を認められて仮入学を果たしたウィリアムは、与えられた課題を見事に果たして、1807年に正式の入学を果たしました。

 ウィリアム青年はこの頃までにサー・トーマス・ローレンス (Sir Thomas Lawrence, 1769 - 1830) を強く尊敬するようになっており、おじウィリアムに一年分の謝礼を払ってもらってローレンスの弟子になりました。ローレンスは自作の模写を命じただけで丁寧に指導してくれず、ウィリアム青年は不満でしたが、模写の腕前が上達したことは、将来エティがイタリア・ルネサンスの巨匠の画風を自分の絵に取り入れるうえで、貴重な財産となりました。

 こうして一年のあいだ模写の修業をした後、ウィリアム・エティはアカデミーに復学して勉学を続けました。1811年、エティの作品「アンティオペーを熊から救うテレマコス」(Telemachus Rescues Antiope from the Fury of the Wild Boar)が王立アカデミーの夏期展覧会で、「サッフォー」(Sappho)が英国協会(the British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom)で、それぞれ展示され、「サッフォー」は二十五ギニー(現在の二十五万円から三十万円ぐらい)の高値で売れました。これは例外的な出来事で、この時期のエティの絵はあまり売れませんでした。それでも 1814年頃までに、エティの巧みな色遣い、とりわけ肌の色の写実的な表現力は、高く評価されるようになっていました。

 1816年、エティはディエップからルーアン、パリ、ジュネーヴを通り、ピエモンテ経由でイタリアに入りました。フランスとスイスで心愉しまなかったエティは、北イタリアの風光にようやく喜びを見出しましたが、九月末から滞在し始めたフィレンツェで宿の不潔さに辟易し、ひと月も経たずに帰国の途に就きました。帰途立ち寄ったパリではジャン=バティスト・レニョー(Jean-Baptiste Augustin, baron Regnault, 1754 - 1829)のアトリエに数日間学び、多くの版画を手に入れ、十一月にロンドンに戻りました。

 1816年の旅は失望が多かったものの、画家としての成長に役立ったと思われ、翌 1817年、王立アカデミー夏期展覧会にエティが出品した二点の作品「バッコスの信女たち」(Bacchanalians: a Sketch)と「クピードーとエウプロシュネー」(Cupid and Euphrosyne)は、初めて好意的に批評されました。このとき「リテラリー・ガゼット」("The Literary Gezette" 註3)に好意的な記事を書いたのはアイルランド出身の批評家ウィリアム・ポーレット・ケイリー(William Paulet Carey, 1759 - 1839)で、ケイリーは自分が最初にエティの才能を見抜いたことを誇りにし、終生エティの援護者となりました。翌 1818年には「ガニュメデの略奪」(The Rape of Ganymede 註4)の模写を発表し、やはり高い評価を受けました。




(上) William Etty, "The Coral Finder: Venus and her Youthful Satellites Arriving at the Isle of Paphos", 1820, Oil on canvas, 98.6 x 74.4 cm


 1820年の王立アカデミー夏期展覧会に、エティは「コラル・ファインダー」(The Coral Finder: Venus and her Youthful Satellites Arriving at the Isle of Paphos)を出品し、注目を集めました。「コラル・ファインダー」はティツィアーノの影響を強く受けた作品です。歴史や神話を題材としつつ、裸体を大胆に取り入れた画面は、エティが得意とする様式となりますが、「コラル・ファインダー」はそのような様式に基づく最初の作品でした。

 サー・フランシス・フリーリング(Sir Francis Freeling, 1st Baronet FSA, 1764 - 1836)は古美術品収集家であり愛書家としても知られた人物ですが、このとき「コラル・ファインダー」を買い逃して悔しがり、「コラル・ファインダー」が売れた価格のおよそ七倍に相当する二百ギニーの報酬を提示して、「コラル・ファインダー」と似た雰囲気のもっと大きな絵を描くように、エティに注文しました。




(上) William Etty, "Cleopatra's Arrival in Cilicia", 1821, Oil on canvas, 132.5 x 106.5 cm, the Lady Lever Art Gallery, Port Sunlight


 サー・フランシス・フリーリングの依頼に応えて制作されたのが「キリキアに上陸するクレオパトラ」(Cleopatra's Arrival in Cilicia)で、この作品は翌 1821年に王立アカデミーで展示され、非常な好評を博しました。この絵はティツィアーノやルーベンス、古代彫刻から要素を取り入れるとともに、パリで学んだレニョーの影響も受けています。この作品の成功により、エティは裸体を取り入れた歴史画を連続して制作しました。1820年代にエティが王立アカデミーに展示した作品は、一点を除き、すべて裸体を取り入れています。しかるにエティが描く裸体はポーズが自然である上に、肌の色も写実的であったので、ピューリタンたちから批判され、良き理解者である批評家ケイリーも、画家自身のために裸像を控えるよう忠告せざるを得ませんでした。

 「キリキアに上陸するクレオパトラ」の成功により、三十歳代半ばのエティはいまや一人前の画家として評価されていましたが、謙虚な探求心ゆえに、未だに王立アカデミー美術学校の生徒として学んでいました。この頃エティは、真の芸術家になるためには再び大陸を旅行し、名画を見て回ることが必要だと感じていました。そこでエティは、1822年6月、友人の画家リチャード・エヴァンズ(Richard Evans, 1783 - 1871)とともにフランスに渡りました。ルーベンスの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」をルーヴルで目にしたエティは大きな感銘を受け、自身が後に描く絵に、この作品の要素を繰り返し取り入れることになります。途中ミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見、フィレンツェでも美術見学をした二人は、八月十日に最終目的地ローマに至りました。ローマではシスティナ礼拝堂壁画の色遣いに感銘を受け、また美術館を巡ってティツィアーノやヴェロネーゼを模写しました。

 ローマでエヴァンズと別れたエティは、ヴェネツィアに移動しました。当初の予定によるとヴェネツィア滞在は十日間のはずでしたが、ヴェネツィアに魅了されたエティは、昼間には美術館で絵を模写し、夜には当地の美術学校(L'Accademia di Belle Arti di Venezia)で裸体の写生をして、結局七か月間をこの町で過ごしました。ヴェネツィア滞在中にエティが仕上げた油彩画は、およそ五十点にも上りました。ヴェネツィアでのエティは名画の模写に専念していたため、翌 1823年のロンドンでは自作の展示を行いませんでした。

 1823年6月、エティはフィレンツェに移り、ウフィツィ美術館と十日に亙って粘り強く交渉した末、ティツィアーノの「ウルビノの聖母」(La Venere di Urbino, 1538)を模写する許可をもらい、不可能とされていたこの作品の模写を成し遂げました。その後エティはヴェネツィアに戻って二か月滞在した後、同年10月8日、ようやくヴェネツィアを発ちました。途中に立ち寄ったパリでも方々の美術館で模写を行うちちもに、多数の版画と道具類を購入し、1824年1月になってエティはようやくロンドンに戻りました。




(上) William Etty, "Pandora Crowned by the Seasons", 1824 Oil on canvas, 111.8 x 87.6 cm, Leeds Art Gallery, West Yorkshire


 ロンドンに戻るとすぐに、夏期展覧会に出品する「ホーラエから冠を受けるパンドラ」(Pandora Crowned by the Seasons)の制作に取り掛かりました。この作品はウルカヌス、ウェヌス、クピードーがパンドラを囲む構図で、平坦な背景ゆえに、人物像はいずれも浮彫のように見えます。ウルカヌスの足元にある額縁はルーベンスに倣い、他のいくつかの要素はジョン・フラクスマン(John Flaxman R. .A., 1755 - 1826)の絵に基づいてウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757 - 1827)が 1817年に制作したエングレーヴィングから取り入れられていました。二度目の大陸旅行が生み出した「ホーラエから冠を受けるパンドラ」の完成度は、「コラル・ファインダー」及び「キリキアに上陸するクレオパトラ」をはるかにしのいでいました。「ホーラエから冠を受けるパンドラ」は、夏期展覧会の会期中に、サー・トーマス・ローレンスによって購入されました。この後まもなくエティは王立アカデミー準会員に選出されました。




(上) William Etty, "The Combat: Woman Pleading for the Vanquished", 1825 Oil on canvas, 399 x 304 cm, National Galleries of Scotland


 「ホーラエから冠を受けるパンドラ」の成功に自信を深めたエティは、幅四メートルの大作「戦闘 ― 敗者の命乞いをする女」(The Combat: Woman Pleading for the Vanquished)の制作に取り掛かりました。「戦闘」の題材は 1821年頃にエティが考え付いたもので、出典が無く、全面的に想像に基づく光景でした。「戦闘 ― 敗者の命乞いをする女」は、エティの画風にもともと批判的であった人たちを含め、全ての批評家に認められ、「ティツィアーノやヴェロネーゼをも凌ぐ名作」「王立アカデミー史上、最高傑作のひとつ」とまで絶賛されました。1848年にはジョージ・トーマス・ドゥー(George Thomas Doo, 1800 - 1884)がこの作品をエングレーヴィングにしています。

 エティは「戦闘」に続いて、同様に大きな絵を四点制作し、「パリスの審判」を描いた最初の作品は 1826年に、ユディトを描いた残りの三点は 1827年に、それぞれ公開されました。この四点の中では、一点目のユディトが最もよい評価を得ました。

 1828年2月、四十歳のエティはジョン・コンスタブル(John Constable, R. A., 1776 - 1837) を十八対五で抑えて、王立アカデミー正会員に選ばれる資格を獲得しました。この年の夏期展覧会に、エティは「洪水前の世界」(The World Before the Flood)、「宵の明星」(Venus, the Evening Star)、「守護の天使たち」(Guardian Cherubs)を出品しました。「守護の天使たち」はエティが 1820年代に描いた中でただ一点、裸体を含まない作品です。これら三点はいずれも完成度が高く、「洪水前の世界」と「宵の明星」は展覧会の会期中に売れました。展覧会が終ると、エティは王立アカデミー正会員になるのに必要な提出作品「眠るニンフとサテュロスたち」(Sleeping Nymph and Satyrs)の制作に取り掛かり、十月にこれを提出して、十二月に正会員となりました。なおこの年、エティは英国協会から百ポンドの賞金を得ています。

 1829年の夏期展覧会には「ダヴェデの将ベナヤ」(Benaiah, David's Chief Captain)「溺死したレアンドロスを見て塔から身を投げたヘーロー」(Hero, Having Thrown Herself from the Tower at the Sight of Leander Drowned, Dies on his Body)を、1830年の夏期展覧会には「進み出るユディト」(Judith Going Forth)を含む三点を出品しました。




(上) William Etty, "Candaules, King of Lydia, Shews his Wife by Stealth to Gyges, One of his Ministers, as She Goes to Bed", 1830, Oil on canvas, 451 x 559 mm, Tate


 三点のうちの一点、「妃の裸をギュゲースに見せるリュディア王カンダウレース」(Candaules, King of Lydia, Shews his Wife by Stealth to Gyges, One of his Ministers, as She Goes to Bed)は、大きな物議をかもしました。エティは「女性は男性の意のままにされるのではなく、自分の意志を通す権利がある」という考えをこの作品に籠めたのですが、制作意図の説明を怠ったために、この絵はどのようにも解釈できる作品となってしまったのでした。

 1830年7月、エティは七月革命さなかのパリを訪れ、ルーヴルで五点の模写を完成してロンドンに戻りました。この時以降、エティはモデルの素描に基づく油絵制作をやめて、全面的に想像で描くようになりました、この結果、画面に登場する人物の姿は、その画面での役割に応じて理想化されてゆきました。




(上) William Etty, "Youth on the Prow, and Pleasure at the Helm", 1832 Oil on canvas, 117.5 x 158.7 cm, Tate Britain


 1832年、エティは代表作のひとつ「青春の船は歓びが舵を取る」(Youth on the Prow, and Pleasure at the Helm)を制作し、夏期展覧会に発表します。これはトーマス・グレイ(Thomas Gray, 1716 - 1771)がケルトを主題に作ったロマン主義の詩「ザ・バード」("The Bard, a Pindaric Ode", 1757)に基づく作品で、エティはよく似た構図の作品を、「キリキアに上陸するクレオパトラ」が好評を博した翌年(1822年)に英国協会で展示しましたが、前作に続いて多数の裸婦を画面に描き込んだため、当時は下品だと批判されていました。「青春の船は歓びが舵を取る」は批判にさらされた 1822年の作品と同じテーマですが、大まかな構図は前作のまま、裸婦の数をさらに増やしています。その一方で新作では陽気な舟に忍び寄る黒雲から悪魔的な者が姿を現しつつあり、教訓的色彩を加えています。

 同じ展覧会ではもう一つ、「邪悪で不摂生な者たちの楽しみに踏み入る破滅の天使と悪霊たち」(The Destroying Angel and Daemons of Evil Interrupting the Orgies of the Vicious and Intemperate)が展示されました。この作品は多数の裸婦を描きながらも道徳的メッセージが明らかであり、エティの裸体画の批判者たちも黙らざるを得ませんでした。




(上) William Etty, "Preparing for a Fancy Dress Ball", 1833 Oil on canvas, 131 x 150 cm, York Art Gallery, York


 1833年の半ば、エティは政治家チャールズ・ウィリアム=ウィン(Charles Watkin Williams-Wynn, 1775 - 1850)の二人の令嬢をモデルに、「舞踏会の支度」(Preparing for a Fancy Dress Ball)を描き始めます。しかしながらエティはこの直後に体調を崩したために絵の完成は遅れ、この作品が公開されたのは 1835年の夏期展覧会においてでした。単なる肖像画を超えた芸術品とすべく、エティが大きな労力を注いで描き上げたこの作品は、展覧会で高く評価されました。「舞踏会の支度」を見た人々は、エティの作品が裸体画に限らないことを理解するとともに、エティが絵画制作の注文にも応じることを知りました。この結果、何件もの注文が新たに入りました。




(上) William Etty, "The Sirens and Ulysses", 1837, Oil on canvas, 442.5 x 297 cm, the Manchester Art Gallery


 1836年、エティは最大サイズの自信作「シーレーネースとウーリクセース」(The Sirens and Ulysses)の制作に取り掛かり、翌 1837年の夏期展覧会に出品しました。この作品は強力な糊を定着材に使用していましたが、絵の完成直後、この糊のせいで絵具が剥離し始め、1857年以降は展示されなくなりました。しかしながら2006年から2010年にかけて「シーレーネースとウーリクセース」は修復され、現在はマンチェスター美術館(the Manchester Art Gallery)に展示されています。

 1838年以降もエティの創作意欲は衰えませんでしたが、批評家たちからは過去の作品の繰り返しが目立つと考えられるようになり、画題が時代遅れだという批判も聞かれるようになりました。この頃からエティは多数の静物画や風景画を描くようになりました。エティはまとまった数の静物画を描いたイングランドで最初の画家です。




(上) William Etty, "Musidora: The Bather 'At the Doubtful Breeze Alarmed'", 1846, Oil on canvas, 50.2 x 65.1 cm, Tate Britain


 1839年以来、エティはジャンヌ・ダルクをテーマにした作品を描きたいと考えており、その取材のために、1843年8月、ルーアンとパリとオルレアンを訪れました。またこの年、エティはジェイムズ・トムスン(James Thomson, 1700 - 1748)の詩「サマー」(Summer)に基づく裸婦像「ミュジドラ」(Musidora: The Bather 'At the Doubtful Breeze Alarmed' 註5)を描きます。この作品は「イギリス美術の勝利と称えられ、エティはティツィアーノやルーベンスに並ぶ画家としてあらゆる批評家から称賛を得ました。「ミュジドラ」はエティの芸術性が失われないうちに、文学に基づいて描かれた最後の作品といえます。


 この頃からエティは喘息に苦しむようになり、高さ三メートル、幅八・五メートルの三翼画「ジャンヌ・ダルク」を辛うじて完成させました。「ジャンヌ・ダルク」は二千五百ギニー、現在の貨幣価値で三千数百万円という高価格で売れ、三枚のパネルは一点ずつにばらされました。後にエティの人気が下がってゆくとともに、これら三枚のパネルは低価格で繰り返し転売され、1893年にはパネルのうちの一枚が七・五ギニー、およそ十万円弱で売却されています。「ジャンヌ・ダルク」の三枚のパネルは、いずれも 1950年代までに廃棄されたらしく、現在まで残っていません。

 「ジャンヌ・ダルク」の完成後、健康状態がさらに悪化したエティは、1848年6月に故郷ヨークに戻りました。この年の夏期展覧会に、エティは七点を出品しましたが、大きな反響はありませんでした。翌 1849年8月9日から25日、王立技芸協会(The Royal Society of Arts, RSA)で百三十三点を集めたエティの回顧展が開かれ、多くの人出を集めました。

 回顧展のためにロンドンに滞在していたエティは、この会期中にリウマチ熱の深刻な発作に見舞われました。ヨークに戻って後の11月3日には喘息の発作が起き、11月13日夜、姪に看取られて息を引き取りました。



註1 ロンドンの王立アカデミー美術学校(the Royal Academy Schools)はイギリス最古の美術学校で、王立芸術院(the Royal Academy of Arts, RA)に付属しています。

註2 ヘンリー・フュースリー(Henry Fuseli R. A., 1741 - 1825)はスイス出身の画家で、1799年に王立アカデミー美術学校の絵画科教授に就任しました。1803年には同校の校長(キーパー Keeper of the Royal Academy of Arts)に指名されて教授職を辞しますが、1810年に再び教授となり、没するまで教授職に留まりました。

註3 "The Literary Gazette, and Journal of Belles Lettres, Arts, Sciences". ロンドンで 1817年に創刊され、1840年代まで存続した雑誌。

註4 この絵はティツィアーノの弟子ダミアーノ・マッツァ(Damiano Mazza)が描いたものですが、当時はティツィアーノ自身の作と考えられていました。

註5 女性名「ミュジドラ」(Musidora)は、「ムーサエ(芸術の女神たち、ミューズたち)の賜物」という意味です。



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 ウィリアム・エティ作 「クピードーとプシューケー」 Cupid and Psyche ジャン・フェルディナン・ジュベール・ド・ラ・フェルテによる名品エングレーヴィング 1863年

 ウィリアム・エティ作 「ルーシー・アシュトン」 Lucy Ashton ヘンリー・ロビンソンによるスティール・エングレーヴィング 1833年





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