ジェイムズ・ティソ James Tissot (Jacques-Joseph Tissot), 1836 - 1902
(上) エドガール・ドガによるティソの肖像 Edgar Degas,
"Portrairt de James Tissot", 1867 - 68, 151.4 x 112 cm, oil on canvas, the Metropolitan Museum of Art, New York
ジェイムズ・ティソ(James Tissot)は、本名をジャック=ジョゼフ・ティソといいます。西フランスのナント(Nantes ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏ロワール=アトランティック県)に生まれ、パリに学び、東フランスのシェヌシー=ブイヨン(Chenecey-Buillon ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ドゥー県)に没したフランス人画家ですが、画家としての実りが大きかった
1871年から 1882年の間はロンドンに住んでいました。
ジェイムズ・ティソは英米文化を愛し、画学生であったパリ時代から「ジェイムズ」という英語名を名乗っていました。そのためフランスにおいても、英語名「ジェイムズ・ティソ」で知られています(註1)。
《ジェイムズ・ティソの生涯》
ジャック=ジョゼフ・ティソ(ジェイムズ・ティソ James Tissot, 1836 - 1902)は、1836年10月15日、富裕な毛織物(羅紗)業者の息子として、ロワール河畔のナントに生まれました(註3)。1856年、ジャック=ジョゼフ青年はパリに出て王立美術学校(l'École
royale des beaux-arts 註4)に入学し、ルイ・ラモット(Louis Lamothe, 1822 - 1869)、及びラモットの師で王立アカデミー会員でもある画家イポリト・フランドラン(Jean
Hippolyte Flandrin, dit Hippolyte Flandrin, 1790 - 1864)に学びました。王立美術学校ではいずれも二つ年下のエドガール・ドガ(Hilaire
Germain Edgar de Gas, dit Edgar Degas, 1834 - 1917)、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(James
Abbott McNeill Whistler, 1834 - 1903)と親交を結んでいます。
(上) James Tissot,
La Rencontre de Faust et de Marguerite, 1860, Huile sur bois, 117 x 78 cm, Musée d'Orsay, Paris
この頃から英語名ジェイムズと名乗り始めたティソ青年は、1859年、サロン・ド・パリに初出品を果たしました。この年の出品作は、二点の女性肖像画と、ゲーテの「ファウスト」によって中世の風俗を描いた三点の歴史画でした。そのうちの一点は上の作品「ファウストとマルガレーテの出会い」(
La Rencontre de Faust et de Marguerite, c. 1860)の元になった絵で、同年の早い時期にアントワープで会った画家アンリ・レ(Henri Leys, ou Hendrik Leys,
1815 - 1869)の強い影響が認められます。なお「ファウストとマルガレーテの出会い」は
グピルの手によって美しい
フォトグラヴュールになっています。
(上) James Tissot,
"La Japonaise au bain", 1864, huile sur toile, 208 x 124 cm, le musée des beaux-arts de Dijon
1860年代のジェイムズ・ティソは専ら女性の肖像画を描きました。女性たちはほとんどの場合上流階級の洋装で描かれましたが、1864年以降のティソはジャポニスムもテーマに取り上げ、日本の着物をモデルに着せることもありました。上の写真は
1864年にティソが描いたジャポニスム絵画三点のうちの一点で、現在ディジョン美術館に収蔵されています。
(上) James Tissot,
"Les Deux Sœurs", 1863, huile sur toile, 210 x 135.5 cm, le musée d'Orsay, Paris
1864年、ティソはサロン・ド・パリに女性の肖像画二点(
"Les Deux Sœurs",
"Portrait de Mlle L. L.")を出品して好評を得ました。これらニ点はいずれもオルセー美術館に収蔵されています。上の写真はそのうちの一枚、「ふたりの姉妹」(
Les Deux Sœurs)です。またこの年、ティソはロンドンの王立アカデミー夏期展覧会にも数点の作品を出品しています。1869年からはコイデ(Coïdé)名義で雑誌「ヴァニティ・フェアー」(
Vanity Fair)にイラストを描く仕事をしています。
(上) James Tissot, "
Jeunes femmes regardant des objets japonais", 1869, oil on canvas, 70.5 x 50.2 cm, the Cincinnati Art Museum
ティソは 1870年の普仏戦争に従軍した後、1871年にはコミューンの側に立ってパリ防衛のために戦いましたが、同年五月にコミューンが鎮圧されるとロンドンに渡り、ウエストミンスターの高級住宅街セイント・ジョンズ・ウッド(Saint
John's Wood)に居を構えました。上述したように、ティソは 1864年の王立アカデミー夏期展覧会に出品したことでイギリスの美術関係者とも知り合っていましたし、「ヴァニティ・フェアー」の発行人トーマス・ギブソン・ボウルズ(Thomas
Gibson Bowles, 1841 - 1922)を通じてロンドンの上流社会にも繋がりができていました。それゆえティソは渡英してすぐに名声を確立しました。ティソは
1874年の第一回印象派展への参加を断りましたが、フランスの画家たちとの関係は良好で、エドガール・マネの義妹に当たる印象派の画家ベルト・モリゾ(Berthe
Marie Pauline Morisot, 1841 - 1895)が 1874年に訪英した際にはロンドンで出迎え、同じ年にはマネと一緒にヴェネツィアを訪問しています。
(上) James Tissot,
"Été" ou
"Kathleen Newton", c. 1877
1875年、ティソはカスリン・ケリー(Kathleen Kelly ou Kathleen Newton, 1854 - 1882)という女性と出会います。カスリンは子供がいる離婚経験者で、アイルランド人でした。婚外の同棲はヴィクトリア時代のエスタブリッシュメントに受け容れられず、ティソが上流の人々と交際する機会は減りましたが、ティソは芸術家仲間とは良好な関係を保っていました。ティソはカスリンと同棲し、庭や日本風に飾り付けた部屋でモデルに使いました。二人はカスリンが結核に罹って
1882年11月9日に自殺するまで共に暮らしました。カスリンが自殺した翌週、ティソはフランスに戻り、二度とロンドンを訪れませんでした。
(上) James Tissot, "
La demoiselle de magasin" , 1882 -1885, oil on canvas, 146.1 x 101.6 cm, the Art Gallery of Ontario
パリに戻ったジェイムズ・ティソは当地での名声を速やかに取り戻し、翌 1883年には当時シャンゼリゼ通にあった産業芸術宮(le Palais
de l'Industrie)で肖像画が展示されました。また 1885年にはロシェフーコー通六番地にあったシャルル・ゼーデルマイヤー(Charles
Sedelmeyer, 1837 - 1925)の画廊にて、「パリの女 十五枚の絵画展」(
Quinze tableaux sur la femme à Paris)と題した油彩の展示が行われましたが、このとき展示された絵は上流階級に限定せずに女性を描いており、浮世絵版画の影響も受けていました。上の写真はこのとき展示された作品のひとつで、店で働く女性を描いています。
1888年、ティソはパリのサン=シュルピス教会で回心を経験し、残りの生涯を宗教画の制作に捧げることを決心します。回心の前後には、1886年、1889年、1896年の三度に亙ってパレスチナとエルサレムを訪れ、現地の風景と人物を描いています。旅で得た題材を基に、ティソは三百六十五枚の水彩画を描き、パリ(1894
- 85年)、ロンドン(1896年)、ニューヨーク(1898 - 99年)で展示して高い評価を得ました。ティソの作品は 1901年にもパリで展示され、没後の
1904年には版画も刷られています。
ティソが取り組んだ最後の仕事は旧約聖書の世界を描くことで、これらの作品群は現在マンハッタンのユダヤ美術館(the Jewish Museum)に収蔵されています。
ジェイムズ・ティソは 1902年8月8日、父が故郷(ドゥ―県のシェヌシー=ブイヨン)に購入したシャトーで亡くなり、シャトー内の礼拝堂に埋葬されました。
註1 英語のジェイムズ(James)、フランス語のジャック(Jacques)は、いずれもラテン語ヤコブス(IACOBUS あるいは JACOBUS 聖人名ヤコブ)に由来し、同じ意味の名前です。
註2 絵画は主題によって「宗教画」「歴史画」「肖像画」「寓意画」「風景画」「静物画」等、様々なジャンル(仏 genre 類、部門)に分類できます。「宗教画」「歴史画」「寓意画」は劇的、非日常的な状況のもとで人物を描きます。しかるに人物を劇的状況の中に置かず、日常的な光景を描く絵画も存在します。上記の分類に含まれないこのような絵画を、「その他のジャンルの絵」という意味で、「ジャンル・ピクチャーズ」(英
genre pictures)と呼びます。「ジャンル・ピクチャーズ」は日本語で「風俗画」といいます。
註3 ジェイムズ・ティソの父は東フランス、ドゥー県の出身ですが、仕事のために遠く離れたナントに住んでいました。仕事が成功して富裕になった父は、出身地に近いシェヌシー=ブイヨンのシャトー(仏
château 城)を買いました。
画家となったジェイムズ・ティソは船や港をたびたび描き、また絵に登場する女性たちは豪奢な布地のドレスを着ていますが、このような画題あるいは小道具は家業の影響と考えられます。
註4 現在の高等美術学校(l'École nationale supérieure des beaux-arts de Paris, ENSBA)の前身。
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