アレクシス・ファリーズ、リュシアン・ファリーズと、ファリーズ・フレール
Alexis Falize, Lucien Falize et Falize Frères
ファリーズ 《マツユキソウのリング》
ファリーズ (Falize) は三代に亙って活躍したフランスの金銀細工師の名前、及び代替わりしつつ 1838年から 1930年まで存続したファリーズ家の金銀細工工房の名前です。
【アレクシス・ファリーズ】
アレクシス・ファリーズ (Alexis Falize, 1811 - 1898) は、1833年から 1835年まで老舗高級宝飾店メレリオ(Mellerio
註1)に在籍しました。アレクシス青年はここで製図と水彩画の才能を発揮し、メレリオのデザイナーとして活躍しましたが、1838年までにジュエリー・デザイナーとして独立を果たします。アレクシスのオフィスはガルリ・ド・ヴァロワ(La
galerie de Valois パリ、パレ・ロワイヤルの西側廻廊)にあり、1848年まで、当時の高級宝飾店ジャニセ (Janisset)
のみを顧客としました。
広く世界中にモティーフを求めたアレクシスのジュエリー・デザインは独特のもので、パリの宝飾店の間で人気を呼びましたが、なかでも日本の美術工芸品の影響が顕著でした。アレクシス・ファリーズは浮世絵を綴じたものを50冊も所有しており、これを資料として日本風の動植物や扇、ひょうたん、能面など、当時のヨーロッパに類例のないモティーフのジュエリーや美術工芸品をデザインしました。アレクシスのデザインは当代一流の
エマイユ作家アントワーヌ・タール (Antoine Tard, fl. 1860 - c. 1889) の手で製品となりました。
アントワーヌ・タールはもともとクリストフル (Christofle et Cie) に起用されて美術工芸品を制作していましたが、アレクシス・ファリーズは
1867年のパリ万博でクリストフルが出展した作品を見て、アントワーヌ・タールを専属エマイユ作家として引き抜いたのでした。タールはファリーズ社の期待によく応え、日本から学んだ有線七宝(エマイユ・クロワゾネ)の技術により、浮世絵に取材した図柄を優美な作品群に描き出しました。
下の二点はいずれもアントワーヌ・タールがファリーズのために制作した品物で、日本風のエマイユが特長です。上の塩入れは2008年にトゥールーズで競売に掛けられ、約
40,000ユーロ(当時のレートで約660万円)で落札されました。下のブレスレットは2000年にロンドンで競売に掛けられ、約 30,550ポンド(当時のレートで約855万円)で落札されています。
ファリーズの塩入れ。アントワーヌ・タールによる多彩色エマイユ。 Flacon à sels émaillé polychrome par Antoine
Tard, vers 1870, Maison Falize, poids :66 g brut, h. 6,5 cm
ファリーズのブレスレット。アントワーヌ・タールによる多彩色エマイユ。 Bracelet émaillé polychrome par Antoine
Tard, vers 1870, Maison Falize
アレクシス・ファリーズの日本風デザインは、アール・ヌーヴォー様式を生む苗床の役割を果たしたといえます。実際、アレクシス・ファリーズの息子であるリュシアン・ファリーズは、アール・ヌーヴォーを産み出した最初のデザイナーと考えられています。
筆者(広川)の手許に、1875年にアシェットから出た「金銀細工の歴史」(Ferdinand de Lasteyrie,
"Histoire de l'Orfèvrerie", Librairie Hachette, Paris, 1875) があります。この本は巻末近くでシャルル・クリストフル (Charles
Christofle, 1805 - 1863) や 1867年のパリ万博について言及しており、昔の工芸品だけでなく、同時代の工芸品をも積極的に評価してゆこうとする姿勢が感じられます。しかしながらこの本は、同時代のフランスの金銀細工師たち、同時代のイギリスの金銀細工師たちを詳しく扱う一方で、アレクシス・ファリーズについては、まったく取り上げていません。
「金銀細工の歴史」の著者フェルディナン・ド・ラステリ (Comte Ferdinand Charles Léon de Lasteyrie du Saillant, 1810-1879) はミラボーの大甥(きょうだいの孫)で、フランス学士院会員であり、伯爵位を持つ貴族でもありました。日本に魅入られたアレクシス・ファリーズの作品は、エタブリスマン(エスタブリッシュメント)に属するこの美術史家にとって、あまりにも革新的過ぎたのでしょう。
1867年のパリ万博以来流行し始めた日本趣味と、そこから生まれてヨーロッパを席捲するアール・ヌーヴォーは、この後の西洋美術に変革をもたらすことになります。しかしその前夜ともいえる
1875年の時点で、この変革を予想するのは難しかったことが、当時のアカデミックな資料を読むとよく分かります。
【リュシアン・ファリーズ】
リュシアン・ファリ-ズ
アレクシス・ファリーズの息子リュシアン (Lucien Falize, 1839 - 1897) は、1839年8月4日、パリで生まれ、1856年から父の工房で働きました。
父アレクシスと同様に、リュシアン・ファリーズは日本美術を愛好し、北斎等の浮世絵をよく研究しました。これらの資料は 1862年にリヴォリ通り220番地に開店したマダム・ドゾワの東洋美術品店「ラ・ポルト・シノワーズ」(La
Porte Chinoise) で手に入りましたし、「ジャポニスム」(japonisme) という言葉を初めて使った批評家フィリップ・ビュルティ
(Philippe Burty ,1830 – 1890)、詩人テオフィル・ゴーティエ (Théophile Gautier, 1811 -
1872)、美術品商フランソワ=ウジェーヌ・ルソー (François-Eugène Rousseau, 1827 - 1890) 等から借り受けることもありました。(註1)
リュシアン・ファリーズは1862年のロンドン万国博覧会で日本の工芸品を初めて実見し、1867年のパリ万国博覧会ではアントワーヌ・タールの日本風エマイユ作品に感嘆します。アレクシス・ファリーズの工房はアントワーヌ・タールを引き抜いて、日本の有線七宝によるエマイユ作品を制作させますが、リュシアン・ファリ-ズは、父アレクシス・ファリーズとともに、これらの作品のデザインに携わっています。ふたりのデザインに基づく作品にはいずれも工房のマーク(註2)しか刻印されていないので、どちらがデザインした作品であるかを判別することはできません。
1871年、リュシアン・ファリーズは父アレクシスの工房で父とともに経営に携わるようになり、工房は「ファリーズ・ペール・エ・フィス」(Falize père et fils フランス語で「ファリーズ父子工房」)となりました。父アレクシスが1876年に引退すると、リュシアン・ファリーズは父アレクシスの仕事を継いで、パリ市中心部、オペラ座通りに新しい仕事場を構えます。
さらに1878年、工房の作品が初めて「リュシアン・ファリーズ」の名前で万国博覧会に出品され、オスカル・マサン (Oscar Massin)、フレデリック・ブシュロン
(Frédéric Boucheron) の作品とともにグランプリを獲得しました。この功績により、リュシアン・ファリーズにはレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエが与えられています。
「リュシアン・ファリーズ」の工房は、アントワーヌ・タールのエマイユによる日本風ジュエリーのほか、エマニュエル・フレミエ (Emmanuel
Frémiet, 1824 - 1910 註3) やカリエ=ベルーズ (Albert-Ernest Carrier de Belleuse,
dit Carrier-Belleuse, 1824 - 1887 註4) の協力を得て、彫刻や建築を含めたモティーフに基づくジュエリーや、銀製の彫像、置時計などの工芸品を制作しました。工房の作品は日本美術、イタリア・ルネサンス美術に基づくものを中心としもつつも、中世風のブレスレットやペンダント、アルブレヒト・デューラーの原画に基づく聖ゲオルギウスのブローチ、ヴァン・ダイクの原画に基づくエマイユ作品、インド風のネックレス、中国風の髪飾りなど、さまざまな美術様式の作品が制作されました。デザインの一部にカリグラフィー(文字)を取り入れることも多く、肖像を立体的に浮かび上がらせるバス・タイユをはじめ、エマイユもさまざまな技法が使われました。
(下) リュシアン・ファリーズ 《中世のドラゴンのペンダント》 金に多色エマイユ 高さ 5.5 cm 1880年頃
(下) リュシアン・ファリーズ 《中世の草花文とカリグラフィーによるブレスレット》 金に多色エマイユ 1880年頃 プフォルツハイム、ジュエリー美術館蔵 Schmuckmuseum
Pforzheim
(下) リュシアン・ファリーズ 《ピンク・トリマリン、ダイヤモンド、バロック・パールのネオ・ルネサンス式ペンダント》 金に多色エマイユ 1880年頃 プチ・パレ美術館蔵
1880年、老舗の有名宝石商であるジェルマン・バプスト (Germain Bapst, 1853 - 1921 註5) がリュシアン・ファリーズに提携を持ちかけ、ファリーズはこれを受け容れて、パリ二区のアンタン通り6番地に新会社「ジェ・バプスト・エ・エル・ファリーズ」(G.
Bapst et L.. Falize, 1880 - 92) が設立されました。新工房のマークは、真珠の指輪を象(かたど)った記号と "BF"
のイニシアルを組み合わせたものでした。「メゾン・バプスト・エ・ファリーズ」は 1889年の万国博覧会にいくつもの作品を出展して国内外から高い評価を受け、リュシアンはレジオン・ドヌール・オフィシエを授与されました。
(下) G. バプスト・エ・L. ファリーズ 《六十七個のダイヤモンドをあしらったちょうつがい式ブレスレット》 18カラット・ゴールドにエマイユ 1887年
(下) G. バプスト・エ・L. ファリーズ 《ルネサンス風の彫金とエマイユによる人生の四季のブレスレット》 18カラット・ゴールドのブレスレット。エマイユはポール・グランドム
(Paul Grandhomme, 1851 - 1944 メダイユ彫刻家とは別人) によります。
(下) G. バプスト・エ・L. ファリーズ 《銀に金めっき、象牙、瑪瑙(めのう)のティー・セット》 1889年パリ万博の出展品 パリ装飾美術館蔵 Bapst
et Falize,
Service à thé, vers 1889, argent partiellement doré, ivoire et agate, présenté à l'Exposition
Universelle de Paris en 1889, Musée des arts décoratifs
日本美術の熱烈な愛好家であったリュシアン・ファリーズは、アール・ヌーヴォーの最初期のデザイナーであり、フランスにおけるアール・ヌーヴォーの産みの親と言っても過言ではありません。上に示した最後の作例《銀に金めっき、象牙、瑪瑙のティー・セット》は、1889年という早い時期に、完全なアール・ヌーヴォー様式を示しています。
リュシアン・ファリーズは勉強熱心な研究家タイプの人物で、博識の美術史学者として尊敬を集めました。後年には古今のジュエリーに関する豊富な知識を買われ、さまざまな展覧会の公式記録執筆を依頼されるようになりますが、1889年パリ万国博覧会の後に出版された詳細な記事は特によく知られています。講演を依頼されることもよくありました。
リュシアンはまた、日本美術商サミュエル・ビンク (Siegfried/Samuel Bing, 1838 - 1905) の月刊誌「ル・ジャポン・アルティスティーク」("le
Japon Artistique", 1888 - 91) をはじめ、さまざまな美術専門誌にも、日本美術や自身の作品に関する多くの記事を寄稿しました。雑誌「ラ・ルヴュ・デ・ザール・デコラティフ」(
"La Revue des Arts Décoratifs" 「装飾美術批評」)には「ジョス氏」(Monsieur Josse) という筆名で執筆しています。
パリ装飾美術館には、1896年のサロン展に出品された金とエマイユのルネサンス風ゴブレットが収蔵されています。このゴブレットはリュシアン・ファリーズがデザインし、彫金師エミール・ピィ
(Émile Pye) に制作させたものです。リュシアン・ファリーズは 1897年、58歳の若さで亡くなりましたので、このゴブレットはリュシアン・ファリーズの最後の大作と考えられます。
このゴブレットについて、リュック=オリヴィエ・メルソン (Nicolas Luc-Olivier Merson, 1846 - 1920)
が制作したバス=タイユ(註6)の銘板には次の言葉が彫られています。
|
|
l'an M.DCCC.XCV, LUC. FALIZE ORF. ET ÉM. PYE, GRAV. ONT FAIT CE VASE d'OR
A l'EXEMPLE DES VIEUX MAITRES |
1895年、リュシアン・ファリーズとエミール・ピィが、古(いにしえ)の名手たちに倣って、この金の器を制作した。 |
上の言葉とともに、工房の様子が浮き彫りで表されています。工房ではルネサンス期の画家の身なりをしたリュシアン・ファリーズが椅子に掛けており、仕事着の腕をまくりあげた彫金師が差し出すゴブレットを調べて、意見を述べています。
この浮き彫りにおいて、リュシアン・ファリーズの膝には本が開かれ、傍らのテーブルには花が活けられています。膝の上の本は学識、活け花は日本人のように自然を愛する心を表しており、リュシアン・ファリーズの芸術の本質を見事に取り出して示したエマイユ作品となっています。
【ファリーズ・フレール】
1897年にリュシアン・ファリーズが亡くなると、事業は 1894年に入社した長男アンドレ (André Falize, 1872 - 1936)
とその弟ジャン、ピエールに引き継がれ、工房は「ファリーズ・フレール」(Falize Fréres フランス語で「ファリーズ兄弟社」)となりました。新会社ファリーズ・フレールは
1930年まで存続することになります。
「ファリーズ・フレール」は1900年パリ万博にアール・ヌーヴォーの作品群を出品してグランプリを獲得しました。
1904年、ファリーズ・フレールは駐仏セルビア大使から注文を受けて、国王ペータル1世即位式のためにレガリア、すなわち王冠や笏など即位に必要な宝器一式を制作しました。この功績により、アンドレ・ファリーズとジャン・ファリーズはセルビア王国から聖スラヴァ勲章を授与されています。また1922年にはルーマニア国王フェルディナンド1世の妃マリアのために、戴冠式の王冠を製作しています。
第一次世界大戦で功があった軍人のための剣の制作を、フランス共和国はファリーズ・フレールに依頼しています。これらの剣はフォシュ元帥 (Ferdinand
Jean Marie Foch, 1851 - 1929) やペタン元帥 (Henri Philippe Benoni Omer Joseph
Pétain, 1856 - 1951) に贈られました。ファリーズ・フレールはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた作家たちのための剣、ベルギー国王アルベール1世の剣も制作しています。ベルギー国王の剣は都市リエージュの依頼によるものです。
アレクシス・ファリーズからファリーズ・フレールに至る作品は、オルセー美術館、パリ装飾美術館、大英博物館、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、メトロポリタン美術館など、世界各地の美術館に収蔵されています。
註1 メレリオ (Mellerio) はフランスで最高の地位にある高級宝飾品商で、現在はパリ、リュ・ド・ラ・ペ9番地に店を構えています。
註2 作品に刻印されるアレクシス・ファリーズ工房のマークは、当初、「Aと鉤とF」を菱形のなかに並べたものでした。 このマークは 1875年、聖アンドレアス十字に変更されました。
註3 エマニュエル・フレミエ (Emmanuel Frémiet, 1824 - 1910) は高名な彫刻家で、パリの中心部、ラ・プラス・デ・ピラミード(la
place des Pyramides ピラミッド広場)に置かれているブロンズの
ジャンヌ・ダルク騎馬像は、特によく知られています。この騎馬像は普仏戦争の直後に共和国政府の発注により制作された作品で、オルセー美術館に石膏製の縮小版があります。
(下) Emmanuel Fremiet,
"Jeanne d'Arc", entre 1872 et 1874, réduction en plâtre du premier modèle, hauteur. 75cm;
largeur, 46 cm; profondeur 22 cm, musée d'Orsay, Paris
エマニュエル・フレミエは
モン=サン=ミシェル修道院の尖塔上に立つ
大天使ミカエル像の作者としても知られており、パリ十七区のサン=ミシェル=デ=バティニョル教会(l'église Saint-Michel-des-Batignolles)の鐘楼、及びオルセー美術館にも同一の像があります。
(下) Emmanuel Frémiet,
"St. Michel", 1895, l'abbaye du Mont Saint-Michel フランスの古い絵はがき
モン=サン=ミシェル修道院の大天使像は、1895年、パリのモンデュイ社(Maison Monduit et Bechet, Gaget Gauthier & Cie Sccrs, 25 rue de Chazelles, Paris)で鋳造されたもので、鋼鉄の表面を銅板で蔽い、金めっきを施してあります。大天使の身長は 2.8メートル、翼と剣の先端までを合わせると 4.5メートルの高さがあり、重量は 520キログラムに及びます。モンデュイ社はフランスからアメリカ合衆国に贈られた「自由の女神」(
"La Liberté éclairant le monde" par Auguste Bartholdi, 1886)像を鋳造したことでも知られています。
(下) ソクラ社における修復作業 出典
レサンシエル紙
エマニュエル・フレミエは動物をモティーフにした彫刻の名手でもあり、各地の美術館に作品が収蔵されています。
註4 カリエ=ベルーズ (Albert-Ernest Carrier de Belleuse, dit Carrier-Belleuse, 1824
- 1887) は
ダヴィッド・ダンジェの弟子、オーギュスト・ロダンの師であった高名な彫刻家、画家で、特にネオ・ルネサンス様式の作品群によって知られています。
(下) Carrier-Belleuse,
"buste de femme portant diadème", c. 1860/70, terre cuite
註5 ジェルマン・バプスト (Germain Bapst, 1853 - 1921) は、ルイ16世のお抱え宝飾品商であったポール・アルフレッド・バプスト
(Paul-Alfred Bapst, 1823 - 1879) の息子です。1879年に父が亡くなると、当初は家業を継ぐつもりでリュシアン・ファリーズと提携しましたが、やがて本格的な歴史研究に取り組む意思を固め、宝石の仕事を辞めてファリーズとの提携も解消しました。ジェルマン・バプストの辞任によって、工房の名前は「G.
バプスト・エ・Lファリーズ」から「リュシアン・ファリーズ」に戻りました。
註6 「バス=タイユ」(la basse-taille) とは、「エマイユ・シュル・バス=タイユ」(l'émail sur basse-taille)、すなわち浅浮き彫り(フランス語で「バス=タイユ」)の上に半透明エマイユを掛ける技法です。
バス=タイユは下地の金属板をシャンルヴェのように彫りくぼめますが、単に彫りくぼめるのではなくて、窪みの内部に浅浮き彫りのカメオを制作します。カメオの最も突出した部分の高さは、窪みの周囲の金属よりも低くなっています。この窪みに半透明色ガラスのフリットを入れて焼成すると、浮き彫りの高さにしたがって色ガラスの諧調が無段階に変化し、奥行きを感じさせるエマイユが出来上がります。
バス=タイユは勲章や信心具に頻用される技法です。下の写真は
ピブラックの聖ジェルメーヌ・クザンのメダイで、紫色ガラスのバス=タイユによります。
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