イスラエル・ファン・メッケネム(子)
Israhel van Meckenem der Jüngere, um 1440/1445 - 1503




(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Selbstporträt mit seiner Frau Ida, um 1490, Kupferstich, 124 x 173 cm, the British Museum, London 妻イダとの自画像。絵の下にラテン語で「イスラエルとその妻イダの顔を描いた絵」(羅 Figuratio facierum Israhelis et Ide eius uxoris)とある。本作品は銅版画家による自画像の初例とされる。


 小イスラエル・ファン・メッケネム(Israhel van Meckenem der Jüngere, um 1440/1445 - 1503)は十五世紀ドイツを代表する銅版画家で、数多くの優れた作品を遺しています。同名の父と区別するために、名前に小(der Jüngere)を付して呼ばれます。イスラエル・ファン・メッケネム父子はオランダとの国境に近いドイツ西端の町ボホルト(Bocholt ノルトライン=ヴェストファーレン州)で活動しました。

 小イスラエル・ファン・メッケネムによる作品の制作年代は、古文書に言及がある 1465年が最古の記録です。小イスラエル・ファン・メッケネムは 1465年の時点でクレヴェ(Cleve/Kleve ノルトライン=ヴェストファーレン州)に住んでいましたが、別の古文書は小イスラエルが 1470年の時点でバンベルク(Bamberg バイエルン州)におり、1480年にボホルトに移って、生涯の終わりまでボホルトで暮らしたと伝えます。




(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Sancta Odilia, 1475 - 80, 16.19 x 12.54 cm, Minneapolis Institute of Art アルザスの聖オディリアを主題に小イスラエルが制作した銅版画。聖女の祈りにより、悪王であった父アダルリックが煉獄から救い出されている。


 「創世記」三十二章によると、アブラハムの孫ヤコブは、ヤボクの渡しで神あるいは天使と格闘しました。イスラエルとはこのときヤコブに与えられた名前です。それゆえイスラエルは、名前の持ち主がユダヤ系であることを示します。しかしながら小イスラエルはキリスト教に取材した数多くの版画を制作し、ユダヤ人に禁じられていた金細工の仕事にも関わっていました。小イスラエルは 1503年11月10日にボホルトで亡くなり、当地のサンクト・ゲオルク教会に葬られました。


【イスラエル・ファン・メッケネム父子と他の版画家との関係】

◆ マイスター・デア・ベルリナー・パシオンと大イスラエル

 小イスラエルの父である大イスラエル・ファン・メッケネム(Israhel van Meckenem der Ältere, um 1430 - nach 1466)は、ドイツにおいて最も古い世代に属する銅版画家のひとりです。かつて大イスラエルは逸名の銅版画家マイスター・デア・ベルリナー・パシオン(der Meister der Berliner Passion, fl. 1450 - 70)と同一人物と考えられました。現在ではこの説は否定されていますが、大イスラエルがマイスター・デア・ベルリナー・パシオンの版を所有していたことから、同人の下で腕を磨いたことは確実と考えられています。


◆ マイスター・エー・エスと小イスラエル

 作品に署名を遺した嚆矢と考えられる銅版画家は、その署名エー・エス(E. S.)に基づき、マイスター・エー・エス(Meister E. S., um 1420 - um 1468 註2)と呼ばれます。小イスラエルはマイスター・エー・エスの晩年にそのアトリエ(註3)に入り、師の死去まで留まりました。師の死後はその仕事を引き継ぎ、師の手による四十一枚の版を刻み直しています(註4)。小イスラエルの版画のうちおよそ二百点が、師の作品を複製しています。


◆ 小イスラエルによる版画作品数



(上) 「ユダの接吻」 レ・ズール・ド・シャルル・ダングレーム(Les Heures de Charles d'Angoulême シャルル・ダングレームの時祷書)に挿絵として挿入された小イスラエルの版画。ロビネ・テスタールによって手彩色が施されている。


 マックス・ガイズベルク(註5)及びマックス・レールス(註6)の研究によると、小イスラエル・ファン・メッケネムの手による版画作品は、二十世紀初頭の時点で六百二十四点が数えられました。フリッツ・コレニー(註7)は 1986年にこの先行研究を見直し、小イスラエル・ファン・メッケネムの手によることが確実な版画作品を五百四十八点としています。これは十五世紀末のアルプス以北で制作された版画の十五パーセント近くに上ります。


◆ 小イスラエルによる模刻

 小イスラエルは数多くの銅版画や素描を模刻しており、その数は小イスラエルの作品のおよそ五分の四を占めます。小イスラエルが模刻するのはドイツとオランダの作品で、自身の師であるマイスター・エー・エス、おそらく父の師であったマイスター・デア・ベルリナー・パシオン、自身と同時代人であるマルティン・ショーンガウアー(Martin Schongauer, 1445/50 - 1491)、自身よりも二世代年下のアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)、デューラーと同年代と思われる家の書のマイスター(der Meister des Hausbuches)など、多岐にわたります。




(上) Albrecht Dürer, Fortuna, die Kleine Glück, 12.3 x 6.5 cm, the National Gallery of Art, Washington デューラーによる最初の裸婦版画


 小イスラエルによる模刻は、ほとんどの場合、版画に基づきます。小イスラエルはデューラーによる四点の銅版画「蝶のいる聖家族」「恋人たちと死」「四人の魔女」「小フォルトゥーナ」を模刻しています。その一方で小イスラエルは素描に基づく銅版画も制作しています。小イスラエルとハンス・ホルバイン(父)は同時代人で、両者の間には商業的な取引関係があったと考えられており、小イスラエルの銅版画連作「聖母の生涯」はハンス・ホルバイン(父)(Hans Holbein der Ältere, 1460 - 1524)の素描に基づきます。




(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Verkündigung und Heimsuchung 連作「マリアの生涯」より、『受胎告知とご訪問』 ハンス・ホルバイン(父)の素描に基づいて、小イスラエルが制作した銅版画


 小イスラエルによる模刻は、版画としての芸術的価値に加え、現在では原作が失われてしまったり、細部が不明となった作品を再現している点で、美術史研究にとって掛け替えのない資料です。たとえば家の書のマイスター(der Meister des Hausbuches)はドライポイントをの創始者ですが、この技法は刷れる枚数が限られ、また細部が不明瞭になりやすいため、小イスラエルによる模刻が研究に役立っています。その一方で日常生活を描く銅版画作品のように、失われた原作と小イスラエルによる模刻を識別することが困難な場合があり、研究者が混乱する原因ともなっています。

 近現代の美術史家は作品の独創性を重視し、独創性を芸術性の必要条件と考える傾向にあります。そのためとりわけ十九世紀において模刻は芸術性欠如の表れと見做され、小イスラエルの仕事には著しく低い評価しか与えられませんでした。しかしながら芸術を評価する基準は時代によって変化するのであって、摸刻を無価値と見做すのは近現代特有の価値観に過ぎません。小イスラエルと同時代のユマニストであるジャック・ヴィンフェリンク(Jacques Wimpfeling, Jakob Wimpfeling, 1450 - 1528)は、マルティン・ショーンガウアー(Martin Schongauer, c. 1445/50 - 1491)、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)と並ぶ当代最高のドイツ人芸術家として、小イスラエルを称えています。


◆ 画風の変遷



(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, la Danse d'Hérodiade, ca. 1490, 21.4 x 31.8 cm 小イスラエルによる銅版画のなかで最大の作品。


 小イスラエルによる初期の銅版画は描線に生硬さが目立ちますが、1480年代以降は生命溢れる人物を活写するようになり、それらの作品は当時の生活に関する貴重な記録となっています。上に示した銅版画は、ヘロディアスの宮廷で踊る人々を描きます。「マルコによる福音書」六章にはヘロデ・アンティパスの妃ヘロディアスが娘サロメを唆し、王をして洗礼者ヨハネの斬首を命じさせた故事が記録されています。上の銅版画はヨハネの斬首を典拠としながらも、殉教の光景は遠く背景に退き、十五世紀の服装で踊りを楽しむ人々が活写されています。

 1830年代以降に実用化された鋼版に比べると、銅版は軟らかく摩滅しやすいので、多数の作品を刷る過程で、浅くなった溝を彫り直す必要があります。小イスラエルによる多数の作品が現代まで伝わるのは、銅版がたびたび溝を彫り直して再生され、あるいは新しく作り直されて、数多く刷られたからです。カトリック教会の贖宥状は木口木版(Holzschnitt, xylographie, wood engraving)によります。小イスラエルは銅版での制作を教会に提案して却下されていますが、もしこれが実現していれば、簡易ながら膨大な数の作品が生まれていたことでしょう。


◆ 小イスラエルの署名



(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Der Greif nach Martin Schongauer, the National Gallery of Art, Washington, D.C. マルティン・ショーンガウアーのグリフィンを写したもの。

 中世までの時代には実用を離れた芸術は存在せず、画家も彫刻家も自らを職人と見做して、作品に署名を遺しませんでした。職人芸術家が署名を遺し始めたのはルネサンス期以降のことです。




(上) マルティン・ショーンガウアーによるグリフィン。


 小イスラエルはマルティン・ショーンガウアー、ヴェンツェル・オルミュッツ(註8)とともに、署名を遺し始めた第一世代の銅版画家です。十五世紀のドイツにはこの三名以外にも銅版画家がいましたが、名前がわかるのはこの三人のみです。小イスラエルは自作のおよそ四十パーセントに署名を遺しています。


◆ 小イスラエルと金細工



(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Head of an Oriental, sheet 19.5 x 12.4 cm, the Metropolitan Museum of Art, New York


 中近東の老人を描いた上の銅版画は小イスラエルの作品で、メトロポリタン美術館に収蔵されています。絵の下部には「ゴルトシュミット、イスラエル・ファン・メッケネム」(Israhel van Meckenem Goltsmit)の署名が刻まれています。ゴルトシュミット(Goldsmit)は現代のドイツ語でゴルトシュミート(Goldschmied)ですが、いずれも金細工師のことです。




(上) Israhel van Meckenem der Jüngere, Musizierendes Paar am Brunnen, 1460/1465 泉水のほとりで楽器を演奏する男女の銅版画。泉のすぐ下にイスラエルの署名(Israhel)がある。このような円形の版画は、金細工の見本として制作されたと思われる。


 ほぼ銅版画のみを制作した小イスラエルが金細工師を名乗った理由は、十五世紀のドイツにおいて、銅版画はしばしば金細工の一種と見做されていたためと考えられます。すなわち金細工師たちは銅版画を手本にして作品を制作することが多く、そのため銅版画家と金細工師は同じ分野の職業と見做されたのです。小イスラエルはボホルト市の依頼で数点の金細工に関わった記録が遺されていますが、これらは修復作業であって創作ではないので、小イスラエルの仕事としては二次的なものです。

 それゆえ小イスラエルはあくまでも銅版画家であって、今日的な語義の金細工師とは言えないと思われます。しかしながら既に述べたように、当時の金細工師は銅版画を元に仕事をすることが多かったので、金細工師と同じ分野の芸術家であり、広義の金細工師と呼ぶことができます。



註1 イスラエル・ファン・メッケネムとはオランダ語で「メッケネムのイスラエル」という意味だが、地名メッケネムがどこを指すのか不明である。一説によると、メッケネムはベルギー、アントウェルペン州のメヘレン(Mechelen フランスと国境を接するベルギー南部の都市)を指す。別の説によると、メッケネムはマインツの訛化である。マインツ(Mainz)はドイツ西部ラインラント=プファルツ州の州都である。しかるにメッケネムがドイツ西部メッケンハイム(Meckenheim)を指す可能性も高い。メッケンハイム(Meckenheim)はボン近郊の町で、ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン行政管区に属する。

註2 マイスター・エー・エスはかつてマイスター・フォン・フィーアツェーンフンデルトゼックスウントゼヒツィッヒ(Meister von 1466 1466年のマイスター)と呼ばれていた。

註3 小イスラエルがマイスター・エー・エスのアトリエに入ったのは、1467年頃である。アトリエの詳しい場所は不明だが、ストラスブールにあったと考えられている。

註4 銅版は鋼版よりも軟らかく、摩耗しやすい。摩耗した銅版は、インタリオの溝を刻み直す必要がある。

註 レ・ズール・ド・シャルル・ダングレーム(シャルル・ダングレームの時祷書)の挿絵はロビネ・テスタール(Robinet Testard, fl. 1470 - 1531)によるが、ロビネは銅版画を手本に挿絵の多くを描いている。本時祷書に採用された小イスラエルの銅版画は十六点で、ロビネ・テスタールはそれらを糊で時祷書に貼り付け、彩色を施している。なお時祷書を注文したシャルル・ダングレーム(Charles d'Angoulême, 1459 - 1496 アングレーム伯シャルル)はカペー家の人で、フランス王シャルル一世(François Ier, 1494 - 1547)の父である。時祷書の制作年代は 1475年から 1500年の間と考えられ、現在はフランス国立公文書館(la Bibliothèque nationale de France, BnF)に収蔵されている。


註5 マックス・ガイズベルク(Max Heinrich Geisberg, 1875 - 1943)はミュンスターのヴェストファーレン=リッペ芸術文化博物館(das LWL-Museum für Kunst und Kultur)館長を務めた美術史家で、イスラエル・ファン・メッケネムについて次の研究を著している。なおエル・ヴェー・エル(LWL)とは、ヴェストファーレン=リッペ地方連合(der Landschaftsverband Westfalen-Lippe)の略称である。

Israhel van Meckenem. Heitz, Strassburg 1902(学位請求論文)
Der Meister der Berliner Passion und Israhel van Meckenem. Studien zur Geschichte der westfälischen Kupferstecher im fünfzehnten Jahrhundert. Heitz, Strassburg 1903
Verzeichnis der Kupferstiche Israhels van Meckenem † 1503. Heitz, Strassburg 1905

註6 マックス・レールス(Max Peter Lehrs, 1855 - 1938)はドレスデン版画収集館(das Kupferstich-Kabinett Dresden)館長を長年に亙って務めた美術史家で、1908年から 1934年に九巻に分けて刊行された「十五世紀ドイツ・オランダ・フランス銅版画史及び批判的目録」(Geschichte und kritischer Katalog des deutschen, niederländischen und französischen Kupferstichs im 15. Jahrhundert)が良く知られる。現在のドレスデン版画収集館は素描・版画・写真美術館(das Kunstmuseum für Zeichnung, Druckgrafik und Fotografie)と改称され、ドレスデン国立美術館(die Staatlichen Kunstsammlungen Dresden)の一部を構成している。

註7 フリッツ・コレニー(Fritz Koreny)は現代の美術史家で、1971年から 2000年までウィーン、アルベルティナ美術館(die Albertina)のドイツ・オランダ版画学芸員を務めた。ウィーン大学美術史研究所の教授でもあった。

註8 ヴェンツェル・オルミュッツ(Wenzel von Olmütz)またはウェンセスラス・フォン・オロモウツ(Wenceslaus von Olomouc)はメーレン出身の銅版画家及び金細工師。正確な生没年は分からないが、小イスラエルと同時代人である。メーレン(Mähren)は現在のチェコ東部にあたる。



(上) マルティン・ショーンガウアーの作品に基づいて、ヴェンツェル・オルミュッツが 1481年に制作した銅版画。絵の下部に署名が見える。




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