19世紀後半のフランスで制作された手描きミニアチュール(細密画)。薔薇の花束を右手に持った栗色の髪の令嬢が、こちらを振り返っています。
令嬢が着ているローズ(rose フランス語で「薔薇色」「ピンク色」)のドレスには、白いチュールの大きな襟が付き、襟は繊細な芥子(けし)パールに縁取られています。首には真珠のネックレス、形の良い耳にはルビーと真珠のイアリングを着け、薔薇の飾りがあるローズ色のリボンで髪をまとめています。
この絵を全体としてみると、高明度の背景に、ローズ(ピンク)と白を基調とし、ほのかにローズに色づいた令嬢の肌と優しい栗色の髪がたいへんやわらかな印象を与える、明るい作品となっています。
令嬢は顔を左横に向けていますが、表情は落ち着き、イアリングも揺れていませんので、何かに注意を惹かれて不意に振り返ったようには見えません。この絵は19世紀のオーソドックスな肖像画と同様に、ポーズを取ったモデルを描いていることがわかります。
令嬢は絵の左後方に体を向けています。真横を向いた方がスマートに見えるはずですが、この作品では令嬢の項(うなじ)から肩、背中にかけて仄かな桜色に色づいた滑らかな肌を露出し、輝くような健康美を描くことによって、名士や王侯貴族の肖像画とは大きく異なる、誰もが親しめる美しい絵となっています。
絵の下地はかつて多用された象牙の薄片と思われますが、象牙を薄片に切り出す際に付く鋸(のこぎり)の痕を木づちで叩いて消し去り、下地の表面を完全に滑らかにすることによって、眼、鼻、口をはじめとする人物像の主要部分を、筆の跡も判別できないほど丁寧な描き方で仕上げています。また人物像と背景の境目に注目すると、この作品は人工的な輪郭線を用いない「スフマート」(sfumato イタリア語で「ぼかし」)の描法を採用しています。目鼻立ちの丁寧な仕上げと、輪郭線の無いスフマートのせいで、この作品はあたかも写真と見まがうような、あるいは生身の令嬢を眼前にするかのような、自然な仕上がりとなっています。
この作品のいわば通奏低音となっているローズ、すなわち薔薇は、愛と秘密の象徴です。この令嬢の活き活きと輝く美しさも、密かに想いを寄せる人がいるせいかもしれません。令嬢自身が、美しく芳(かぐわ)しい一輪の薔薇なのです。
本品は肉筆画ですので、同じ物が制作されていないという稀少性があります。また象牙に描いた19世紀のミニアチュールの中で、本品は中ぐらいの大きさがあって、画面が小さ過ぎないために、大型の作品と同様の余裕を以って非常に丁寧に描かれています。私は自分が心から欲しいと思える水準の品物、自信を持ってお薦めできる品物のみを厳選して仕入れますが、本品は本当に稀にしか出会えない優れた出来栄えで、私がこれまでに目にした19世紀ミニアチュールのなかでも、最高の作品のひとつです。