十九世紀末に最盛期を迎えるアール・ヌーヴォーの濫觴(らんしょう)期に、高名な彫刻家によって製作された小品メダイユ。植物のモティーフを多用した左右非対称の曲線的デザインは、この様式の特徴を既に色濃く示しています。
本品の直径は十五ミリメートルあまりで、フランス語で「ロブ」(lobe) と呼ばれる四つ葉形の画面を窓のように設け、豊かな髪を春風になびかせる若い女性を浮き彫りにしています。女性は花輪を髪に飾り、生命力あふれる木々と萌える下草を背景に、美しく整った横顔を見せています。
メダイユの周辺部分四箇所にヤドリギがあしらわれています。ヤドリギは不死の象徴ですから、女性は冬の後に息を吹き返す春の擬人化であり、春の女神((プリーマヴェーラ)と考えられます。あるいは花の女神(フローラ)と考えても構いません。
人間以外の生き物や無生物、抽象概念を擬人化して表す場合、男性の姿になるか女性の姿になるかは、擬人化されるものを表す名詞の性によります。「春」を表すフランス語「プランタン」(printemps)
は、「最初のとき」を意味する俗ラテン語「プリームムテンプス」(PRIMUM-TEMPUS*) に由来すると考えられる男性名詞ですが、他のロマンス諸語はいずれもラテン語の「プリーマヴェーラ」(PRIMAVERA 春)をそのまま使った女性名詞ですので、美術において「春」を擬人化する場合、女性の姿で表されます。「花」を表すラテン語「フローラ」(FLORA)
は女性名詞ですので、花も女神に擬人化されます。また「木」を表す語はロマンス諸語において男性名詞(arbero, arbre, arbol, arvore
等)で、これはおそらく樹種を表すラテン語の名詞(たとえば「ケラスス」 CERASUS 桜)が、男性名詞と同様に -US で終わるために、ラテン語からロマンス語への移行期に性が混乱したのであろうと思いますが、「木」を表すラテン語「アルボル」(ARBOR)
は女性名詞ですし、単数主格が -US で終わる樹種名も、おそらく樹木のニンフが女性であると考えられたために、ラテン語ではすべて女性名詞です。したがって樹木も、美術においては女性として擬人化されます。
(上) Pierre-Auguste Pichon, Portrait d'Édouard Gatteaux, 73 x 55 cm, l'huile sur toile, musée Ingres, Montauban
メダイに浮き彫りにされた女神、あるいはニンフの胸のあたりに、ジャック=エドゥアール・ガトォ (Jacques-Édouard Gatteaux, 1788 - 1881) の署名が刻まれています。
ガトォはやはり高名なメダイユ彫刻家であったニコラ=マリ・ガトォ (Nicolas-Marie Gatteaux, 1751 - 1832)
の息子で、リュクサンブール公園にあるフランスの王女アンヌ・ド・フランス (Anne de France, 1461 - 1522) 像や、傑作とされる数々のメダイユの作者です。メダイユの裏面には桜桃(おうとう、さくらんぼの木)の枝と思われるモティーフが浮き彫りにされています。
本品は百年以上も前に制作された古い物ですが、特筆すべき疵(きず)や摩耗はありません。細部までよく残っており、きわめて良好な保存状態です。