第二部 生物進化史

18. 胎盤、乳腺、表情筋

 哺乳類の特徴は次の三つだ。

 

① 卵ではなく、赤ちゃんを産む。 ② お母さんがおっぱいを出す。 ③ 赤ちゃんがおっぱいを飲む。

 

 陸に上がった脊椎動物は、どのような道筋をとおって哺乳類になったのだろうか。これら三つの特徴に注目して、哺乳類への進化の道筋をたどってみよう。

 

 

■ 胎盤の役割と進化

 

 哺乳類に属する現生種の数は四千四百七十五種類だが、このうち卵を産むのは単孔目(たんこうもく ハリモグラカモノハシの仲間)に属する五種だけだ。大多数の哺乳類は、卵ではなく赤ちゃんを産む。胎児は母親の子宮(しきゅう)で育つ。

 

 哺乳類の母親と胎児は、胎盤(プラセンタ)へその緒(お)でつながっている。

 

 へその緒は母親と胎児を繋ぐ血管で、大切ではあるが、そのはたらきは単純だ。へその緒は血が流れる管に過ぎない。非常に複雑でたくさんの仕事をこなしているのは、へその緒ではなくて胎盤のほうだ。

 

 胎児は自力で呼吸、食事、排泄(はいせつ)ができない。胎児に必要な栄養分酸素は、母親から与えられる。胎児から排出される代謝廃物二酸化炭素は、母親に送られる。卵の中で育つ胚は、尿膜嚢(にょうまくのう)という袋に尿を貯めたが、卵を産まない哺乳類の胎児は、要らない物を母親に送って処理してもらう。

 

 母親と胎児の間で行われる主なやり取りには、栄養分と代謝廃物の「物質交換」、酸素と二酸化炭素の「ガス交換」の二種類がある。これら二種類の交換は、へその緒の血管を通じて行われるが、胎盤はこのやり取りが順調に進むように、仲立ちをしている。母親と胎児で血液型が異なっていても、物質交換、ガス交換は、問題なく行われる。これは胎盤が母親と胎児の間に立って調整しているお蔭だ。胎児に免疫力(めんえきりょく)を与えたり、妊娠(にんしん お腹に赤ちゃんがいる状態)を継続(けいぞく)させるホルモンを作ったりするのも、胎盤の仕事だ。

 

 単孔類以外の哺乳類は、有袋類(ゆうたいるい)真獣類(しんじゅうるい)に分かれる。有袋類はカンガルーやコアラ、オポッサムなど、非常に未熟な子供を産んで、袋の中で育てる動物だ。有袋類は主にオセアニア(オーストラリア、ニュージーランドとその周辺地域)に分布する。真獣類は単孔類と有袋類以外の哺乳類で、ネズミ、ネコ、人間、ウマ、クジラなど、哺乳類の大部分が属する。有袋類の赤ちゃんに比べると、真獣類の赤ちゃんはずっと成熟した状態で生まれてくる。

 

 有袋類と真獣類はどちらも胎盤を持ち、赤ちゃんを産むが、胎盤の進化の過程が異なる。有袋類の胎盤は、もともとの卵黄嚢(卵黄を入れる袋)が、母体に食い込んでできたものだ。いっぽう真獣類の胎盤は、もともとの尿膜嚢(尿を貯める袋)が母体に食い込んでできたものだ。

 

 哺乳類の祖先が赤ちゃんではなく卵を産んでいた時代、卵の中に作られたのが、卵黄嚢と尿膜嚢だ。赤ちゃんを産むようになった哺乳類は、祖先から受け継いだ卵の仕組みを捨ててしまわずに、改良を加えながら大切に使い続けているのだ。

 

 

■ 乳腺と乳汁

 

 哺乳類のお母さんが出すおっぱい(乳汁)は、乳腺(にゅうせん)という組織で作られる。

 

人間のお母さんの乳房は一対(いっつい 二つ一組)だが、乳首と腋(わき)の中間あたりに、副乳(ふくにゅう)という乳首状の突起がある人もいる。腋に汗(あせ)をかきやすいことからわかるように、人間の腋には多くの汗腺(かんせん)が集中する。副乳は、腋付近に集まる汗腺の一部が、乳腺に変化したものと考えれば分かり易い。汗腺と乳腺には深い関係がある。実際、乳腺は汗腺から進化した組織なのだ。

 

 汗は体の広い範囲から出るし、無色透明だ。乳汁は乳首からしか出ないし、白濁(はくだく 白くにごること)している。汗と乳汁はずいぶんと違って見える。しかし汗の成分と乳汁の成分を分析すると、どちらにもリゾチームが含まれている。

 

 リゾチームは殺菌物質で、汗や涙や鼻水、卵の白身にも含まれて、細菌の侵入を防いでいる。リゾチーム分子の構造が少し変わると、α(アルファ)ラクトアルブミンになる。これは甘い乳汁の成分だ。

 

 単孔類は、卵を産む珍しい哺乳類だ。単孔類は哺乳類だから、お母さんは乳汁を分泌(ぶんぴつ)する。ただし単孔類には乳首が無い。単孔類の乳汁は、お母さんのお腹(なか)の表面から、汗のように滲(にじ)み出す。単孔類の赤ちゃんは、乳首に吸い付くのではなく、お母さんのお腹から滲み出す乳汁をなめて育つ。

 

 単孔類のお母さんは鳥と同じように卵を温(あたた)めるが、このときすでに乳汁が出ていて、卵を濡らしている。卵が孵化(ふか)する前から乳汁を出すのは、ちょっと見たところでは無駄に思える。しかし乳汁には栄養分(αラクトアルブミン)とともに、殺菌物質(リゾチーム)も含まれていて、卵を細菌から守っているのだ。卵から孵化した赤ちゃんは、栄養分と殺菌物質を含んだ乳汁をなめて、元気に育ってゆく。

 

 単孔類のお母さんには乳首が無く、有袋類と真獣類のお母さんには乳首がある。乳首の有無(うむ)は異なるが、哺乳類の乳汁の成分は基本的に同じ。哺乳類の乳汁には、栄養と殺菌物質の両方がふくまれる。そして乳汁の栄養分は、殺菌物質リゾチームがわずかに変化したものだ。乳腺は汗腺から進化した組織であり、乳汁は汗から進化した分泌物であり、乳汁の栄養分はリゾチームから進化した物質だ。

 

 

■ 乳首から飲むのに適した口への進化

 

 有袋類と真獣類の赤ちゃんは、お母さんの乳首を上手(じょうず)にくわえる。もし爬虫類のような口だったら、乳首をうまくくわえられないだろう。有袋類と真獣類は、お母さんの乳房と乳首が、授乳しやすい形に進化している。その一方で赤ちゃんの口の形も、乳首をくわえやすい形に進化している。

 

 デボン紀の魚、板皮類(ばんぴるい)顎(あご)ができた進化を思い出してほしい(II - 14 - 2~3)。現代のサメと同様に、板皮類の口の後ろには、鰓孔(えらあな)がたくさん並んでいた。鰓孔はただの孔ではなく、筋肉によって閉じたり開いたりして、強制的に水を動かしていた。

 

 動物が陸上に上がると、鰓孔を動かす筋肉は不要になる。しかし陸上動物は不要になった鰓孔の筋肉を捨てず、本来と異なる用途(ようと 使いみち)のために改良を施(ほどこ)して、大切に使い続けた。

 

 ヘビの例は分かりやすい。ヘビは獲物を噛みくだかずに、大きいまま丸呑(の)みする。動物が食べ物を飲み込むときには、消化管(食道から腸まで続く管)の筋肉が食べ物を後ろに送るのだが、ヘビの獲物は大きくて、消化管だけで対処できない。そこでヘビは、鰓孔を動かすために一列に並んでいた筋肉をそのまま転用し、食べ物を後ろに送るために使っている。ヘビ以外の爬虫類も、鰓孔を動かしていた筋肉を、ヘビと同じように使っている。

 板皮類の鰓孔を動かしていた筋肉は、爬虫類では喉のあたりに保存されていた。有袋類と真獣類は、これを前に引っ張ってきて顔の表面に広げ、表情筋(ひょうじょうきん)に変えた。表情筋は哺乳類の顔のほぼ全面を覆う筋肉だ。

 

 表情筋は人間では表情を作り出すので、このように呼ばれている。ただし表情筋のいちばん大切な役割は、頬(ほほ)と唇(くちびる)を作ることだ。頬と唇が大切な理由は、頬と唇がなければ、乳首から乳汁を吸い出すことができないからだ。

 

 爬虫類が乳首をくわえたところを想像すればよくわかるだろう。ワニやトカゲなど、爬虫類の口は長く裂けていて、頬も唇も無い。爬虫類のまねをして、口を「イーッ」と横長に開き、ストローをくわえてみよう。その状態でストローを吸って、ジュースを飲めるだろうか。

 

 ストローや乳首をくわえて液体を吸い出すには、口の中の気密性(きみつせい)が保たれていなければならない。頬と唇は、赤ちゃんが口の中の気密性を保って乳汁を吸うために絶対に必要な部分なのだ。爬虫類がのどに保存していた鰓孔の筋肉を、哺乳類が前に引っ張って、顔全体を覆う表情筋に変えたのは、赤ちゃんが乳首から乳汁を吸うためにほかならない。





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