オートゥイユ職業訓練孤児院 ルイ・ルセル神父とダニエル・ブロティエ神父
les Orphelins Apprentis d'Auteuil - l'Abbé Louis Roussel, 1825 - 1897, et l'Abbé Daniel Brottier, 1876 - 1936




(上) オートゥイユ職業訓練孤児院における「リジューの福者テレーズ礼拝堂」定礎式 コロタイプによる 1924年頃の絵葉書 1929年の消印あり


【ルイ・ルセル神父と「オートゥイユ職業訓練孤児院」】

 十九世紀前半のパリは近代都市としてのインフラストラクチャーが未だ整わず、街路の状態は中世のパリと大差が無い状態でした。1853年から 1870年までセーヌ県の知事であったジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン (Georges-Eugène Haussmann, 1809 - 1891) は、在任中、都市計画に基づいたパリの大改造を行い、都心部は急速に整備されました。しかしながらパリの都心が近代都市へと発展を始める一方で、都心から離れた地区は貧しいままでした。

 フランスではイギリスよりも数十年遅れて、1830年代から産業革命が始まりました。当時の工場では九歳以上の子供が雇われていましたが、経済が停滞すると、子供たちは簡単に解雇されました。パリ市では、困窮家庭の子供や孤児が毎年一万八千人、福祉の対象となっていました。しかしながら公共の福祉の恩恵に与(あずか)れるのは、病児の場合を除けば、十一歳以下の子供に限られていました。また教会や慈善団体による私設の孤児院は、そのほとんどが女子のみを対象にしていました。

 したがって十二歳以上の男の子が解雇された場合、この子供たちには行き場がありませんでした。パリだけでも数千人の少年が路上生活を余儀なくされ、浮浪罪や物乞い罪で逮捕されて、かつて十一区にあった刑務所「ラ・プチット・ロケット」(la Petite Roquette) に、成年に達するまで収容されました。ここに収容されている子供の数は、1837年の1334人から、1857年には 9896人に膨れ上がりましたが、ラ・プチット・ロケットは浮浪児を閉じ込めておくだけで、教育を施す等、子供のためになる施策は一切行われず、社会に適応できない犯罪予備軍を作り出すだけでした。


 ルイ・ルセル神父


 聖ヴァンサン・ド・ポール修道士会 (les Frères de Saint Vincent de Paul) のルイ・ルセル師 (l'Abbé Louis Roussel, 1825 - 1897) は、パリに数千人を数える浮浪児の境遇にかねてから心を痛め、少年たちの魂の救済を気に掛けていました。十二歳になってもまだ初聖体を受けていない少年たちに初聖体を受けさせるために、ルセル師は聖霊修道会を出て、市中で見つけた浮浪児たちを自宅に集め、教理問答を教える活動を、1865年の暮れに開始しました。翌年にはパリ大司教から与えられた二千フランを使って、ブーローニュの森に近いパリ西部のオートゥイユ地区 (le quartier d'Auteuil)、ジャン=ド=ラ=フォンテーヌ通四十番地 (40, rue Jean-de-La-Fontaine) に空き家を購入し、1866年3月19日、六人の孤児を収容して、慈善団体「初聖体福祉会」(l'Œuvre de la Première Communion) を創始しました。

 1870年7月に起こった普仏戦争は、およそ半年後の 1871年1月28日、フランスが降伏して終わりました。同年3月から5月に掛けてコミューンの内乱状態に陥ったパリでは、経済活動が壊滅的な打撃を受け、ほとんどの工場が操業を停止するとともに、浮浪児の数は三倍に増えました。初聖体後の少年たちが生活を維持できるように、ルセル師は自前の作業所を作り、収入を得る手段にするとともに、少年たちの職業訓練の場ともしました。こうして靴作りの工房、仕立て屋、家具・内装工房、信心具工房、植木屋、印刷工房が次々と開設されました。宗教教育のみを行っていた「初聖体福祉会」は、「オートゥイユ職業訓練孤児院」(les Orphelins Apprentis d'Auteuil) へと発展してゆきました。

 1895年、老齢のルイ・ルセル師は体調を崩し、オートゥイユ職業訓練孤児院の院長職をやむなく辞しました。オートゥイユの院長職はその後三代にわたって聖ヴァンサン・ド・ポール修道士会の司祭に引き継がれ、在籍する子供の数も、一時は 250名を数えるまでになっていました。しかしながらミュファ神父 (l'abbé Muffat) が四代目院長に就任したまさにその日に第一次世界大戦が勃発し、戦時の困難な状況の下、孤児院も危機に瀕します。1916年暮れには孤児院の資産がほとんどなくなり、在籍者の数を減らさざるを得ませんでした。1923年、オートゥイユ職業訓練孤児院の運営は聖霊修道会に引き継がれましたが、この時点の在籍者数は 170名でした。


【ダニエル・ブロティエ神父】

 ダニエル・ブロティエ神父 (le père Daniel Brottier, 1876 - 1936) は信仰深い子供でした。1899年、二十二歳の時に司祭に叙せられると、ポンルヴォワ(Pontlevoy サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏ロワール=エ=シェール県)のコレージュ(中等学校)に配属されました(註1)。しかしながら宣教師になりたかったブロティエは、1902年に聖霊修道会 (la congrégation du Saint-Esprit, C.S.Sp) に入り、翌 1903年、セネガル北端の港町サン=ルイ (Saint-Louis) に、教区司祭として赴任します。1907年、病気療養のために一時帰国したあとセネガルに戻り、1911年に再び病気で帰国したあとは、1914年から 1918年まで従軍司祭を務めています。この間、激戦地で前線にいながら一度も負傷せず、本人はこれをリジューの聖テレーズの執り成しによる奇跡と考えました。


 従軍司祭時代のダニエル・ブロティエ神父


【オートゥイユ職業訓練孤児院でのブロティエ神父】

 ブロティエ神父は、1923年11月19日、財政破綻に瀕したオートゥイユ職業訓練孤児院の院長に就任しました。ブロティエ神父自身の言葉によると、孤児院は「人間の努力のみでは救いようがない」("humainement parlant comme impossible à redresser") 状況でした。しかしながらブロティエ神父は、神とリジューの福者テレーズに祈りつつ、バザーを開いて数千人を集客し、寄付を募る広告を、孤児院の機関紙だけではなく一般の新聞にも出しました。また教会の塀のみならず地下鉄にもポスターを張りました。

 1929年11月2日には、オートゥイユ職業訓練孤児院への貸付を募る広告を一般の新聞に掲載しました。社会の反響は大きく、数百万フランの貸付金が寄せられて、オートゥイユ職業訓練孤児院は建物が改修され、いくつもの作業場が新設されました。しかも貸付の期限であった 1932年になると、多くの人々が貸付金の返済を受けずに、そのまま寄付に切り替えてくれました。当時は第一次世界大戦の終結から間もない時代で、誰もが身近な人を亡くしていました。生き残った人自身の生活もたいへんでしたが、大戦の落とし子ともいえる孤児たちを人々が思い遣る気持ちも大きかったことがうかがえます。


 若者たちに慕われ囲まれるダニエル・ブロティエ神父


 オートゥイユ職業訓練孤児院は、ル・ヴェジネ (Le Vésinet イール=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県)の孤児院 (l'orphelinat d'Alsace-Lorraine) を1931年に引き継ぎ、その後も各地に孤児院を増設して、1936年までに十四か所の支部ができました。また 1933年からは「ル・フォワイェ・ア・ラ・カンパーニュ」(le Foyer à la Campagne フランス語で「農村家庭」の意)というプログラムが始まりました。第一次世界大戦後のフランスでは戦時に危険な都会を出る人が多く、農村の世帯数が増えました。「ル・フォワイェ・ア・ラ・カンパーニュ」は、都会の孤児が農村の里親のもとで暮らすことで、家庭のなかで育ちながら農業を身に着けられる仕組みでした。


 アプランティ・ゾートゥイユ 2010年の広告


 1936年にブロティエ神父が亡くなったとき、孤児院で学ぶ少年たちの数は 1400名に達していました。ブロティエ神父が危機から救ったオートゥイユ職業訓練孤児院はその後も存続、発展し、2010年に正式名称を「アプランティ・ゾートゥイユ」(Apprentis Auteuil) として今日に至っています。

 ダニエル・ブロティエ神父は、三位一体のエリザベト (Élisabeth de la Trinité, 1880 - 1906)、ジョゼプ・マニャネット・イ・ビベス神父 (padre Josep Manyanet i Vives; 1833 - 1901) とともに、1984年11月25日、教皇ヨハネ=パウロ二世により、サン・ピエトロのバシリカにて列福されました。


【リジューのテレーズとオートゥイユ職業訓練孤児院】

 オートゥイユ職業訓練孤児院の創設者であるルイ・ルセル師は、1895年まで初代院長を務めました。ルセル師には元教師である友人がいて、この人はルセル師が院長であった 1884年から、自らが没する 1912年まで、ルセル師に全面的に協力しました。この人は子だくさんでしたが、娘のひとりがリジューのカルメル会修道院に入り、マリ・ド・ラ・トリニテ(Marie de la Trinité フランス語で「三位一体のマリア」)という修道名を名乗りました。マリ・ド・ラ・トリニテ修道女は、カルメル会に入ったとき、先輩であるテレーズ・ド・ランファン・ジェジュ(Thérèse de l’Enfant-Jésus)修道女、すなわちリジューのテレーズに託され、二人は親しくなりました。

 テレーズはマリ・ド・ラ・トリニテ修道女を通してオートゥイユ職業訓練孤児院のことを知り、孤児院のために祈っていました。ブロティエ神父は「オートゥイユ職業訓練孤児院の礼拝堂を幼きイエスの福者テレーズに捧げる理由」("Nos raisons de dédier la chapelle de l'orphelinat d'Auteuil à la bienheureuse Thérèse de l'Enfant-Jésus") という一文を孤児院の機関紙に書きましたが、このなかにマリ・ド・ラ・トリニテ修道女による次のような回想が掲載されています。

     Quand papa m'écrivait une lettre depuis Auteuil, je la montrais à sœur Thérèse. Nous la lisions ensemble et ensemble nous priions pour les orphelins d'Auteuil.    父がオートゥイユから手紙を送ってきましたので、スール・テレーズに見せました。私たちは手紙を一緒に読み、オートゥイユの孤児たちのために一緒に祈りました。


 ブロティエ院長の先代に当たるミュファ院長は、1923年、オートゥイユ職業訓練孤児院を福者テレーズの庇護に委ねました。その直後に新院長に着任したブロティエ神父は、福者テレーズがオートゥイユ職業訓練孤児院の為に祈っていたことを、セネガルのサン=ルイ司教であったジャラベール師(Mgr. Hyacinthe-Joseph Jalabert, 1859 - 1920) から教えられ、テレーズに捧げた礼拝堂の建設を約束しました。

 1923年11月末、テレーズに捧げた礼拝堂建設への許可と協力を求めるために、、ブロティエ師はパリ大司教デュボワ師 (Mgr. Louis-Ernest Dubois, 1856 - 1929) との面会に出かけようとしていました。急ぎ足で車に向かうブロティエ師を、ひとりの女性が呼び止めました。とても急いでいたブロティエ師は、後にしてくれるように頼みましたが、女性は構わず、重病であった息子が福者テレーズの執り成しによって癒されたので、リジューのカルメル会とオートゥイユ職業訓練孤児院に感謝するために、贈り物を持ってきたのですと言いました。神父は女性に答えて、「テレーズに捧げた礼拝堂建設について、私は福者に祈り、返答を待っているのです。礼拝堂を建設すべきであるならば、印として、ある額のお金をお与えくださいと祈りました。福者にお願いした期限は四時間後で、まだ九千フラン足りません」と言いました。すると女性は持っていた封筒を神父に差し出し、「ご安心ください。一万フラン持ってまいりましたから」と答えたのでした。

 オートゥイユの聖テレーズ礼拝堂は 1930年10月5日、全仏から集まった十二名の司教、多数の司祭、数千人の信徒が見守るなか、パリ大司教デュボワ師により祝別されました。



註1  かつてポンルヴォワにはサン=モール会修道院 (l'abbaye de Pontlevoy) があり、コレージュはこの修道院の付属学校でした。サン=モール会はフランス革命時に解散させられましたが、コレージュは存続を許されました。



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 聖テレーズの聖遺物 エドモン・アンリ・ベッケルによる小メダイ付 オートゥイユ職業訓練孤児院の感謝記念品 1930年代頃

 Louis Legrand, La Notion philosophique de la Trinité chez Saint Augustin, Editions de l'Œuvre d'Auteuil, 1931




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