聖イザック・ジョーグ
St. Isaac Jogues


 カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)のひとりである聖イザック・ジョーグ (St. Isaac Jogues, 1607 - 1646) は 9人きょうだいの 5番目としてオルレアンに生まれました。イエズス会が運営する学校に 10歳のときから在学し、1624年、17歳のときにイエズス会に入会して、ルイ・ラルマン師 (Louis Lalemant, 1588 - 1635) の指導を受けます。イザック・ジョーグ青年はラルマン師からイエズス会に入りたい理由を訊かれて「エチオピア宣教に携わって殉教したいのです」と答えると、師は「君はヌーヴェル・フランスで死ぬことになるのだよ」と答えたといわれています。このルイ・ラルマン師は17世紀フランスにおける優れたキリスト教思想家として有名なイエズス会士であるとともに、殉教者聖ガブリエル・ラルマンのおじにあたります。

 2年間の修練期を終えた後、聖人はラ・フレシュ (La Fleche, Pay-de-la-Loire) で勉学を続けます。1629年から 4年間はルーアンで教職に就き、1633年から 1636年までパリのコレージュ・ド・クレルモン(College de Clermont 現在のリセ・ルイ=ル=グラン Lycee Louis-le-Grand )で神学を学んだ後、この学校の礼拝堂で 1636年に叙階されました。

 司祭になった聖イザック・ジョーグは宣教師としての適性が認められ、ヌーヴェル・フランス行きを希望して、1636年 4月 8日、ディエップから船に乗りました。船は 8週間後にヌーヴェル=フランスに到達し、聖人は 7月 2日にケベックに到着しています。そして 8月 24日には交易を終えて帰るヒューロン族 5名とともにカヌーに乗り込み、9月 11日にイホナティリア (Ihonatiria) に着きました。

 聖人はヒューロン族の地で非常に重い病気にかかりましたが、快復してからはヒューロン語の勉強に打ち込むかたわら、聖ジャン・ド・ブレブフ (St. Jean de Brebeuf, 1593 - 1649) やルメルシエ神父 (Francois-Joseph Le Mercier, 1604 - 1690) を助けて働きました。

 1639年には聖シャルル・ガルニエ (St. Charles Garnier, 1606 - 1649) とともに、ヒューロン族の南に住みタバコ・ネイション (the Tobacco Nation) とも呼ばれるペタン族 (Les Petuns / Khionontateronons) に布教しましたが、そのころはやっていた病気は宣教師たちがもたらしたものだと考えた住民たちはたいへん敵対的で、まったく成果が得られませんでした。

 ペタン族のもとから戻った聖人は、ジェローム・ラルマン師 (Jerome Lalement, 1593 - 1673) が中心となって建設し、1639年に完成した宣教拠点「ヒューロン族の国における聖母マリア」(サント=マリ Sainte-Marie-au-pays-des-Hurons)の拡張にも尽力し、ここを足がかりに周辺地域のヒューロン族に宣教しました。

 1641年 9月から 10月にかけて、聖イザック・ジョーグは上長ジェローム・ラルマン師の要請でシャルル・ランボー師 (Charles Raymbaut, 1602 - 43) に同行し、現在のスー・サント・マリ (Sault Ste. Marie, Ontario) を訪問しています。

 1642年 6月半ば、重い病気になったシャルル・ランボー師をヴィル・ド・ケベックに送り、また必要な物資の補給を受けるために、聖イザック・ジョーグはケベックに出発しました。 このころ、イロクォワ族がセント=ローレンス川を封鎖したせいでヒューロン族はケベックと交易をすることができず、またケベックから宣教拠点サント=マリに物資を運ぶこともできなくなっていました。この状況のなかで聖イザック・ジョーグの一行はサント=マリから 35日間カヌーをこぎ続けて封鎖を突破し、ついにケベックに到達しました。

 聖イザック・ジョーグはケベックで物資を調達し、8月 1日、ギュイヨーム・クチュール師 (Guillaume Couture, 1617/8 - 1701) と聖ルネ・グピル (St Rene Goupil, 1608 - 1642) を含む一行 40名が再びサント=マリに向かって出発しました。ところが翌日、彼らはイロクォワ族を構成する一部族であるモホーク族の待ち伏せに遭い、フランス人3名と主だったヒューロン族数名が捕らえられてしまいました。
 モホーク族はその場で捕虜の爪を剥がす、指を噛み砕く、棍棒で殴打するなどの虐待を加えた後、セント・ローレンス川の南にある自分たちの村に連行しました。村に向かう途中でも 200人のモホーク族と会い、彼らによってさらなる虐待が加えられました。

 捕虜たちは 18日後にモホーク族の村に着き、ふたたび虐待を受けました。しかしこの場所は一箇所目の村に過ぎませんでした。彼らはあとふたつの村をめぐり、そのたびに同様の虐待を与えられたのです。捕虜たちは棍棒や鉄棒で殴打され、村の中心に設置された枷に繋がれました。モホーク族はリーダー格と目された聖イザック・ジョーグの左親指を切断し、紐に繋いだ鉄の塊で殴打しました。また聖ルネ・グピルの右手の親指も切断しました。夜になると若者たちと子供たちが赤熱した石炭や砂を投げつけてきました。捕虜たちは枷に繋がれた状態のまま6日間放置され、村人たちから虐待され続けました。

 捕虜たちは拷問ののち火あぶりにされる予定でしたが、結局主だったヒューロン族 3名以外は火刑を免れて、そのまま抑留されることになりました。

 9月 7日、フランス人 3名の解放を交渉するために、オランダの植民地の代表者が村を訪れ、多額の身代金を提示しましたが、モホーク族は拒否しました。聖イザック・ジョーグと聖ルネ・グピルはクチュール師と引き離され、聖ルネ・グピルは 9月 29日に殺害されました。

 聖イザック・ジョーグは奴隷の扱いを受けて冬を過ごしましたが、そのような状況にあっても布教を試み、村人の敵意が少し和らぐと、病者を訪れ、捕虜を慰め、死にゆく村人数人に洗礼を施すことができました。

 1643年の夏になると聖人は魚を獲るモホーク族に同行して村を出ることが多くなりました。8月には聖人を連れたモホーク族が交易のためニュー・ネーデルラントのオランダ人入植地 (Rensselaerswyck) に滞在する機会がありましたが、そこの責任者アーレント・ファン・キュルラー (Arent van Curler / van Corlaer, 1619 - 1667) は聖人に逃亡を勧め、聖人は一晩考えた末に、ハドソン川に係留したオランダのボートに隠れました。モホーク族は聖人がいなくなったことに激怒し、聖人はオランダ人に危害が及ぶようであればいつでも出てゆく覚悟でボートの隠れ場所から騒ぎを見守りましたが、オランダ人たちはモホーク族に多くの贈り物をして、彼らをなんとか宥めました。
 モホーク族が去って行くと、オランダ人たちは聖イザック・ジョーグをニュー・アムステルダム(現在のニュー・ヨーク)に送って行き、聖人はラ・ロシェル(La Rochelle 現在のポワトゥー=シャラント地域圏シャラント=マリティーム県の県庁所在地)行きのオランダ船で帰国しました。

 船は 1643年 12月 25日にラ・ロシェルに到着し、聖イザック・ジョーグは 1644年 1月 5日の早朝に、レンヌ (Rennes 現在のブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県の県庁所在地)のイエズス会施設を訪れました。聖人のみすぼらしい身なりを見て、門番は最初のうち相手にせず、聖人が自分はヌーヴェル・フランスからの訪問者であると言うと、ようやく司祭に取り次ぎました。司祭は聖人を招き入れ、ヌーヴェル・フランスの状況と宣教師たちの消息をこの遠来の「貧者」に尋ねたあと、イザック・ジョーグ神父がモホーク族に拉致されたそうだがどうなったのだろうか、と言うと、聖人は「イザック・ジョーグは解放されました。神父様、私がイザック・ジョーグです」と答えました。

 知らせはフランス中にたちまち広がり、王妃をはじめあらゆる人たちが聖人に会いたがりました。聖イザック・ジョーグは司祭でありながら、モホーク族に指を切断されたために親指と人差し指で聖体をつまむことができませんでしたが、教皇ウルバヌス8世は「生ける殉教者」聖イザック・ジョーグがミサを挙げられるように特別な許可を与えました。
 しかし聖人が求めたのはヒューロン族のヌーヴェル・フランスに戻ることだけでした。上長者たちは聖イザック・ジョーグの願いを知ってヌーヴェル・フランスに戻ることを許可し、1644年の春、聖イザック・ジョーグはフランスに数週間滞在しただけで、ふたたびヌーヴェル=フランス行きの船に乗り込みました。

 ヌーヴェル・フランスのフランス人たちは、1644年 6月に聖イザック・ジョーグが戻ってきて初めて、その生存を知りました。聖人はモントリオールに配属され、その頃緊張関係が小康状態にあったイロクォワ族とのさまざまな交渉に携わることなりました。1646年 5月、聖人は和平交渉使節としてモホーク族を訪れ、7月はじめ、ケベックに無事帰還しました。9月になって、停戦状態を継続させて宣教拠点を築くためにモホーク族にふたたび使節を送ることになり、聖人は殉教の予感を強く感じながらも、ドネ(donne 17世紀ヌーヴェル=フランスにおいて、俗人でありながらイエズス会の命じる仕事に身をささげて生涯を送る誓いを立て、イエズス会の宣教活動を支援した人)である聖ジャン・ド・ラ・ランド (St. Jean de la Lande, +1646) を伴い、数名のヒューロン族を連れて、9月 27日にトロワ=リヴィエールを出発しました。出発後すぐに出会ったイロクォワ族からの情報で和平は崩れつつあると知って、同行のヒューロン族は一人を残してみな逃げ出しましたが、聖人たちの一行は覚悟を決めて前進しました。

 はたしてモホーク族は途中で聖イザック・ジョーグと聖ジャン・ド・ラ・ランドを捕らえ、衣服を剥ぎ、持ち物を奪い、殴打した上で村に連行しました。村では宣教師たちの処置が議論され、穏健派の主張が通ってふたりはいったん解放されましたが、強硬派は宣教師たちをその年の不作と病気の流行をもたらした魔法使いと考えて納得せず、10月 18日に聖ジャン・ド・ラ・ランドを、同日または翌日に聖イザック・ジョーグを、トマホークで殺害し、頭部を切断して村の囲い柵に飾り、首から下は川に投げ捨てました。

 ふたりに同行していたインディアンは、翌 1647年 6月 4日にトロワ=リヴィエールに戻って、聖人たちの殉教を報告しました。ニュー・ネーデルラント総督ウィレム・キーフト (Willem Kieft, 1597 - 1647) の手紙にも、殉教者たちへの言及が見られます。

 ふたりが殉教したモホーク族の村は現在のアメリカ合衆国ニューヨーク州オーリズヴィル (Auriesville, N. Y.) にあたり、北アメリカ殉教者聖堂 (The National Shrine of the North American Martyrs) が殉教の地点付近に建っています。



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