ルイ・マルタン (Louis Martin, 1823 - 1894) と、ゼリー・マルタン (Zélie Martin, 1831 - 1877)




(上) ピエール・アヌール (Pierre-Léon-Adolphe Annould) による木炭画「ビュイソネでの夕べ」("Veillée aux Buissonnets",)。ルイ・マルタンは五歳位の末娘テレーズを膝に抱いています。左上方の壁には亡き妻ゼリーの肖像が見えます。


 ルイ・マルタン (Bx. Louis Martin, 1823 - 1894) と、ゼリー・マルタン (Bse. Zélie Martin, 1831 - 1877) は、リジューの聖テレーズ (Ste Thérèse de Lisieux, 1873 - 1897) の両親です。ふたりは2008年10月19日、リジューにおいて列福されました。祝日は10月19日です。


【ルイ・マルタンの前半生】

 ルイ・マルタン


 テレーズの父ルイ・マルタン (Louis Martin, 1823 - 1894) は、1823年8月22日、ピエール=フランソワ・マルタン (Pierre-François Martin, 1777 - 1865) と妻ファニー・ブロー (Fanie Boureau, 1780 - 1883) の間に、女三人、男二人の末子として生まれました。ルイが生まれた当時、父は陸軍大尉で、一家は父の赴任地である南西フランスのボルドー(Bordeaux アキテーヌ地域圏ジロンド県)に住んでいましたが、その後北フランスのアランソン(Alençon  バス=ノルマンディー地域圏オルヌ県)に移り、ルイはこの町で学校に通いました。

 学業を終えたルイはレンヌ(Rennes ブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県)とストラスブール(Strasbourg アルザス地域圏バ=ラン県)で.時計師として働きました。信仰深い青年であったルイは、22歳のころに修道生活を志し、犬を使った遭難者救助で有名なスイスの修道院、オスピス・デュ・グラン=サン=ベルナール (l'hospice du Grand-Saint-Bernard) に入ることを望みましたが、ラテン語が上達しなかったためにこの願いは叶わず、パリで三年間時計師として働いた後、26歳の頃にアランソンに戻りました。


(下) オスピス・デュ・グラン=サン=ベルナールの修道士と遭難者救助犬。1900年頃の絵葉書から。




 当時、ルイの両親はアランソンで時計宝飾品商を営んでおり、ルイは父の時計宝飾品店で八年間働きました。その頃のルイは、ヴィタル・ロメ(Vital Romet) の活動に熱心に取り組みました。ヴィタル・ロメとは1876年にアランソン、モンソール (Montsort) 小教区の若者13名が集まって結成したグループで、メンバーは聖ヴァンサン・ド・ポール協会(註1)アランソン支部(1847年設立)にも属していました。ルイはヴィタル・ロメの11人目のメンバーでした。


(下) ヴィタル・ロメを結成した13名の若者。最前列中央は、1827年から 1849年までモンソール小教区の主任司祭を務めたユレル師 (l'abbé Hurel, + 1872)。





【ゼリー・マルタンの前半生】

 ゼリー・マルタン、旧姓ゲラン


 テレーズの母ゼリー・ゲラン (Azélie-Marie Guérin, 1831 - 1877) は、1831年12月23日、アランソン近郊の村ガンドラン(Gandelain バス=ノルマンディー地域圏オルヌ県)に生まれました。ゼリーの父イシドール・ゲラン (sidore Guérin, 1777 - 1865) はナポレオン戦争に従軍した退役軍人で、近くの町サン=ドニ=シュル=サルトン (Saint-Denis-sur-Sarthon) の憲兵でした。母ルイーズ=ジャンヌ・マセ (Louise-Jeanne Macé, 1805 - 1859) は農家の娘でした。夫妻の間には長女、次女、長男の三人が生まれました。ゼリーは夫妻の間に生まれた次女でした。

 ゼリーにはマリ=ルイーズ (Marie-Louise Guérin, 1829 - 1877) という二歳年上の姉がおり、この人は後にル=マン(le Mans ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏サルト県)の聖母訪問会でスール・マリー=ドジテ (sœur Marie-Dosithée) となります。またゼリーの10年後には、父と同名の弟イシドール (Isidore, 1841 - 1909) が生まれました。ゼリーの母は末っ子のイシドールをかわいがる反面、ゼリーにはたいへん厳しく接しました。


 1844年、ゼリーの一家はアランソンに移り、ゼリーは姉とともにピクピュス会 (les pères et religieuses des Sacrés-Cœurs de Picpus) が運営するアドラシオン・ペルペチュエル修道院 (le couvent de l'Adoration Perpétuelle) の寄宿学校に入学しました。母との確執と寄宿学校での教育ゆえに内省的な性格を強めたゼリーは、アランソンのオテル=デュ(Hôtel-Dieu 老人、障害者、貧者のために修道会が運営する病院)で働く修道女になることを望みましたが、寄宿学校の長上からは許しが出ませんでした。やむなくダンテル・ダランソン(la dentelle d'Alençon アランソンのレース編み)の訓練を受けるようになったゼリーは才能を開花させ、1853年の末頃、弱冠22歳のときに姉マリー=ルイーズと共同でアランソンに店を構え、数名の職人のレース作品を取り扱うまでになりました。


(下) ダンテル・ダランソンとノルマンディーの衣装





【ルイ・マルタンとゼリー・ゲランの結婚生活】

 レース編みはヴェネツィアが発祥の地とされますが、アランソンではヴェネツィアと同時期の15世紀半ばにレース編みが始まりました。ダンテル・ダランソンは最も繊細で高価な「レースの女王」とされ、19世紀には最盛期を迎えていました。

 ルイの母もダンテル・ダランソンを制作していましたが、結婚相手を探す気配が無い息子を案じ、1858年4月に、レース編み仲間であるゼリー・ゲランを息子に紹介しました。ふたりは相性が良く、出会って三か月後の 1858年7月12日午後10時に婚姻届を提出し、2時間後の午前零時にアランソンのノートル=ダム教会で結婚式を挙げました。司式したのはヴィタル・ロメでルイと活動を共にしたユレル師です。師はこのときアランソンのサン・レオナール教会で教区司祭を務めていました。


 ルイとゼリーは深く愛し合い、1860年から 1873年までの間に九人の子供をもうけましたが、うち四人は乳幼児期に亡くなっています。

 ゼリーが22歳の時から経営するダンテル・ダランソンの店は繁盛しておよそ20名のレース編み職人を抱えるまでに成長し、マルタン家は裕福になってゆきました。1870年、ルイ・マルタンは時計店を甥に譲り、妻の事業への協力と資産の管理に専念することとなりました。片や妻ゼリーは事業に打ち込みつつも子供たちにはたいへん愛情深い母親でした。1873年、ゼリーは41歳のときに末子(七女)テレーズを生みました。テレーズが生まれたとき、上には四人の姉がいました。学齢に達した姉たちはル=マンの聖母訪問会寄宿学校に入り、キリスト教に基づく教育を受けました。

 マルタン夫妻は熱心なクリスチャンで、毎朝5時半のミサに参列し、家庭においても祈りと断食を行い、安息日を厳格に守っていました。また独居老人や病者、死の床にある人々を訪問して力づけ、無宿舎を食事に招き、アランソンのオテル=デュに入れるように世話しました。ゼリーは若くて経験の無い少女たちを女中や職人として積極的に雇いました。




(上) 左は、4歳ころのテレーズと母ゼリー。右は、15歳のテレーズと父ルイ。


 1876年、ゼリーの姉マリ=ドジテが結核に罹りました。ゼリー自身も以前から体調を崩していましたが、この年の12月にようやく医師の診察を受けました。診断結果は乳癌で、既に手術できない段階まで進行していました。翌 1877年2月24日、マリ=ドジテが亡くなると、姉を亡くして悲嘆に暮れるゼリー自身の病状も悪化します。同年6月、ゼリーはルルドを訪れましたが奇跡は起こらず、8月26日、夫と娘たちが立ち会う中で病者の塗油を授かり、二日後の8月28日午前0時半、夫と弟に看取られて亡くなりました。遺体は翌日アランソンの墓地に埋葬されました。このとき末娘のテレーズはまだ四歳七か月でした。



【ゼリー没後のルイ・マルタン】

 ゼリーの死後、子供たちの後見役に指名されたゼリーの弟イシドール・ゲランは、自分たちが住むリジュー(Lisieux バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)に越してくるようにとルイ・マルタンを強く説き伏せました。リジューはアランソンから北に約80キロメートル離れています。ルイ・マルタンは義弟の勧めに従い、同年11月、リジューに移り住みました。ルイ・マルタンと娘たちはレ・ビュイソネ(les Buissonnets 小藪荘) と呼ばれる邸宅に住むことになりました。

 ルイはアランソンの店を売却して地代収入で暮らす身となり、娘たちの養育に力を注ぎました。最も幼いテレーズにはとりわけ愛情を注ぎました。17歳の長女マリは家政婦と共に家事を取り仕切り、16歳の二女ポーリーヌは幼いセリーヌとテレーズの教育係となりました。レオニー、セリーヌ、テレーズはリジューのベネディクト会寄宿学校に入学しました。

 1882年10月15日、ポーリーヌは父ルイの同意を得てリジューのカルメル会に入りましたが、ポーリーヌを母代わりに慕っていた幼いテレーズは、あたかも母に棄てられたかのように悲しみました。1886年8月には長女マリもリジューのカルメル会に入り、姉を頼るテレーズは再び悲しみに沈み、精神的に不安定になりました。同年10月には三女レオニーもクララ会に入り、父の家に残るのは17歳のセリーヌと14歳のテレーズのみになりました。七週間後の12月、レオニーはクララ会を退会していったん家に戻りましたが、翌1887年春にはリジューから40キロメートルあまり西の都市カーン(Caen バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)の聖母訪問会に入会し、レ・ビュイソネは再び静かになりました。この年の5月、ルイは発作を起こして半身が一時的に麻痺しましたが、薬剤師であった義弟イシドールが適切な応急処置をしたおかげで、大事に至りませんでした。




(上) レ・ビュイソネの庭でカルメル会入会の許しを父に請う14歳のテレーズ。マリ=ベルナール修道士による彫刻を写した 1930年頃の絵葉書。当店の商品です。


 この頃、末娘テレーズも召命を感じ、リジューのカルメル会入会を願うようになっていました。1887年6月2日、テレーズは自宅の庭で修道女になる願いを父に打ち明けます。父はテレーズの気持ちを理解し、後見人である叔父イシドールも同意しましたが、リジューのカルメル会のジャン=バティスト・ドラトロエット神父 (P. Jean-Baptiste Delatroëtte) の許可が下りません。テレーズは父とともにバイユー・リジュー司教のフラヴィアン・ユゴナン師 (Mgr Flavien Hugonin, 1823 - 1898) と面会しましたが、司教からもすぐに許可を得ることはできませんでした。悲しむ娘の姿を見て、父ルイは教皇レオ13世 (Leo XIII、1810 - 1873 - 1903) に直接願い出ることを思い立ち、テレーズを連れてローマに向かいます。1887年11月20日、教皇の謁見を許されたテレーズはその足元に身を投げてカルメル会入会の許可を求めますが、教皇は長上の指導に従い神の御心に任せるようにと言いました。テレーズは失意のうちにリジューに戻りますが、15歳の誕生日を翌日に控えた 1888年1月1日、ユゴナン司教からカルメル会入会を許可する手紙が届きました。1888年4月9日、父ルイは涙を流しながら娘を祝福して見送りました。ルイはこれで五人の娘のうち四人を失ったことになります。

 テレーズを修道院に送り出した後、ルイは急速に老衰しました。この頃の類は動脈硬化と腎不全を患い、活力、知力の低下が起こりました。1888年6月23日には誰にも告げずに家を出て行方不明となり、やがて送金依頼の電報を寄越してきましたが、居所は書かれていませんでした。このときルイはル・アーヴルで無事発見されましたが、修道女となった娘たち、とりわけテレーズは家に残してきた父の様子を知らされて非常に心を痛めました。


(下) 19世紀の修道女は修道院外に出ることを厳しく禁じられていたため、外部から面会に訪れない限りは、家族と会うこともできませんでした。1880年代のエングレーヴィング。

 当店の商品


 ルイの症状は悪化と軽快を繰り返しました。1889年1月10日、着衣式を迎えたテレーズに同伴したルイは娘に腕を貸して堂々とした足取りで祭壇に向かって進みましたが、一か月後には発作時に正気を失い、戦場にいると思い込んで拳銃を手に取り、駆け付けた義弟に銃を取り上げられました。1889年2月12日、医師はルイをカーンのボン=ソヴール精神病院 (l'asile du Bon-Sauveur) へ入院させました。

 ほとんどのときに正気であったルイは、自身の屈辱的な立場を神から与えられた試練と考えて受け容れ、医師の指示に従いました。この年の6月、ルイの義弟イシドールは正気を失ったルイが財産を失うのを防ぐために、成年後見契約に署名させました。このときルイは正気を保っていましたが、「ああ、子供たちは私を棄ててしまった」と叫んだと伝えられます。1889年12月25日にはレ・ビュイソネの賃貸借契約が破棄され、家具の一部がカルメル会に譲渡されました。1890年12月24日、テレーズは終生誓願を立てましたが、その場に父の姿はありませんでした。


 1892年5月10日、ルイの義弟イシドールはルイをカーンの精神病院から連れ戻しました。ルイはカルメル会修道女となった三人の娘と四年ぶりに面会しました。ルイは正気でしたが、痩せ衰え、言葉は話しませんでした。娘たちとは四年ぶりの再会であり、最後の対面ともなりました。イシドールはルイを自宅に引き取り、セリーヌ、その頃家に戻っていたレオニー、男女二人の使用人がルイを介護しました。翌1893年の夏には、当時イシドールが所有していたサン=セバスチャン=ド=モルズ(Saint-Sébastien-de-Morsent ホート=ノルマンディー地域圏ユール県)の古城を訪れています。

 1894年5月27日、ルイは大きな発作を起こして左腕が麻痺し、6月5日には心筋梗塞が起こりました。ルイは7月初めにサン=セバスチャン=ド=モルズの古城に運ばれ、7月29日、セリーヌに看取られてそこで亡くなりました。遺体は8月2日にリジューに埋葬されました。9月14日、セリーヌもリジューのカルメル会に入りました。



【マルタン家から出た聖人と福者】

 ルイ・マルタンとゼリー・マルタンが設けた九人の子どものうち、四人は乳幼児期に亡くなりました。残りの五人は女の子で、全員が成人して修道女となりました。レオニーは途中で二度家に帰っていますが、結局はカーンの聖母訪問会修道女になっています。マルタン家の人々のうち、末娘のテレーズは 1925年に列聖され、ルイ・マルタンとゼリー・マルタンは2008年に列福されました。テレーズ以外の四名の娘も列福の審査が進められています。

 修道女になった五人の娘について、一覧表を示します。


俗名と生没年     修道名 所属した修道会と場所
       
長女マリー  sœur Marie du Sacré-Cœur リジューのカルメル会
Marie, 1860 - 1940  聖心のマリー  
.    
次女ポーリーヌ mère Agnès de Jésus リジューのカルメル会
  Pauline, 1861 - 1951  イエズスのアニェス  
.      
三女レオニー sœur Françoise-Thérèse カーンの聖母訪問会
  Léonie, 1863 - 1941  フランソワーズ=テレーズ  
.      
五女セリーヌ sœur Geneviève de la Sainte-Face リジューのカルメル会
  Céline, 1869 - 1959  聖顔のジュヌヴィエーヴ  
.      
七女テレーズ  sœur Thérèse de l'Enfant-Jésus et de la Sainte-Face リジューのカルメル会
Thérèse, 1873 - 1897  幼きイエズスと聖顔のテレーズ  



【ルイ・マルタンとゼリー・マルタンの列福】

 1941年にゼリーの書簡集が公刊され、1946年にはフランシスコ会のステファン=ジョゼフ・ピア神父 (le Père Stéphane Piat, O. F. M, 1899 - 1968) の著書「ある家族の物語」(Histoire d'une famille) が公刊されました。1931年から1954年までバイユー・リジュー司教を務めたフランソワ=マリ・ピコー師 (Mgr. François-Marie Picaud, 1878 - 1960) は、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ師 (Mgr. Angelo Giuseppe Roncalli, 1881 - 1963) に対して、ルイ・マルタンとゼリー・マルタン列福の希望を表明しています。ロンカッリ師は 1958年に教皇ヨハネス23世となる人物です。

 ルイ・マルタンの列福に向けて、1957年3月22日から 1960年6月8日までリジューで審理が行われ、1990年6月8日、聖座の列聖省は証言の有効性を認めました。ゼリー・マルタンの列福に向けては、1957年10月10日から 1959年1月7日までセ(Sées バス=ノルマンディー地域圏オルヌ県)で審理が行われ、1991年2月15日、聖座の列聖省は証言の有効性を認めました。

 ルイ・マルタンとゼリー・マルタンは 2008年10月19日、リジューにおいて列福されました。




註1 聖ヴァンサン・ド・ポール協会 (la Société de Saint-Vincent-de-Paul) は、ソルボンヌの外国文学教授であったフレデリック・オザナム (Antoine-Frédéric Ozanam, 1813 - 1853) を含む7名によって、1833年に設立された慈善団体で、貧しい人々を救済するために活動していました。この組織は国際的な慈善団体として発展し、現在は148ヶ国で活動しています。



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