アッシジの聖キアラ、アシジの聖クララ
SANTA CLARA ASSISIENSIS, Santa Chiara d'Assisi




【上】 Simone Martini, Santa Chiara, 1312 - 20, fresco, Basilica di San Francesco, Assisi

 アッシジの聖キアラ (Santa Chiara d'Assisi, 1194 - 1253) はアッシジの聖フランチェスコに従った弟子のひとりであり、フランシスコ会の第二会(女子修道会であるクララ会、貧しきクララ女子修道会)の創設者です。修道会を創設した女性はキアラ以前にもありましたが、修道会則を自ら起草した女性はキアラが最初とされ、中世初期において最も影響力のあった聖女のひとりと考えられています。


【聖女の名前について】

 聖女の名前「キアラ」(chiara)はイタリア語で「明るい」という意味です。この語はラテン語「クラーラ」(CLARA)に由来しますが、「クラーラ」はゲルマン語「クリア」(英 clear)と同系で、輝くように澄んだ明るさを意味します。各国語による「聖クララ」の言い方は、ラテン語で「サンクタ・クラーラ」(SANCTA CLARA)、イタリア語で「サンタ・キアラ」(Santa Chiara)、フランス語で「サント・クレール」(Sainte Claire)、スペイン語で「サンタ・クララ」(Santa Clara)、英語で「セイント・クレア」(Saint Clare)、ドイツ語で「ザンクト・クララ」(Sankt Klara)です。


【聖キアラの生涯】

 聖キアラは俗名をキアラ・オッフレドゥッチオ・ディ・ファヴァロンネ (Chiara Offreduccio di Favaronne) といい、カロリング家の血統につながるとも言われるサッソ=ロッソ伯家に生まれて、スバシオ山の麓にある城とアッシジの別荘で育ちました。母オルトラナ (Ortolana) はたいへん信心深い女性で、ローマ、サンティアゴ・デ・ラ・コンポステラ、エルサレムに巡礼した経験があり、後にクララ会の修道女になります。キアラも母の影響を受け、信仰深い娘でした。

 18歳の頃、キアラは「アッシジの貧者」(il poverello di Assisi) 聖フランチェスコの説教を聞いて深く心を動かされました。(註1)両親が勧める結婚を拒んでいたキアラは、フランチェスコの「小さき兄弟会」に入ることを望んで、1212年の棕櫚の主日に家を抜け出し、ポルチウンクラにおいてフランチェスコの前で修道誓願を立てました。

 フランチェスコはしばらくの間キアラを近くにあるベネディクト会女子修道院サン・パオロ・デッレ・アバデッセ (San Paolo delle Abadesse) へ送りました。キアラの父はこのころすでに亡くなっていましたが、キアラの居場所を知った親類たちが無理やり連れ戻しに来たとき、キアラは祭壇にしがみついて、イエズス以外の人の許に嫁ぐつもりはありませんと宣言しました。

 しばらく後、キアラは女性痛悔者たちが共同生活を送っていたスバシオ山のサン・タンジェロ・イン・パンツァ (Sant'Angelo in Panza) に移りました。キアラがサン・タンジェロ・イン・パンツァにいたときに、妹アグネスも家を出てこれに加わりました。

 時を措かずしてフランチェスコはサン・ダミアノ聖堂に接する小さな建物をキアラたちにあてがい、キアラはここで「クララ会」の前身となる会を始めました。(註2)サン・ダミアノで始まったキアラの会は裕福な家庭出身の女性が多いのが特徴で、初期の会員にはフィレンツェの名家ウバルディーニ (Ubaldini) 家の令嬢たちも含まれていました。

 1215年、フランチェスコはキアラを修道院長に任命しました。修道院長となったキアラは、1253年に亡くなるまで、一度も修道院から外に出なかったと言われています。妹ベアロリーチェ、母オルトラナ、おばビアンカもキアラの会に入会しました。キアラの会の修道女たちは常に裸足で、一切肉食をせず、小枝と麻の寝床で眠り、不必要な会話を避けました。

 キアラの女子修道会は修道院のなかで生活するという点で、旅をしながら福音を述べ伝えるフランチェスコの「小さき兄弟たち」と異なっていました。しかしキアラは「小さき兄弟たち」と同様に喜捨に頼る清貧の生活を目指しました。(註3) 後の教皇クレゴリウス9世となるウゴリーノ枢機卿は、1219年、キアラの会にベネディクト会のものと同様の会則を与えましたが、そこでは修道院財産の所有が許されていました。キアラはこれを嫌ってローマに請願を繰り返し、ついに 1228年9月17日、教皇クレゴリウス9世はキアラの会に「プリーヴィレーギウム・パウペリターティス」(PRIVILEGIUM PAUPERITATIS ラテン語で「清貧の特権」の意)を与えて、喜捨によって生きることを許可しました。教皇庁がこのような「特権」を与えるのは初めてのことでした。

 キアラたちに与えられた「プリーヴィレーギウム・パウペリターティス」のラテン語原本は、アッシジの聖キアラ修道院に残っています。以下に内容を示します。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通じやすくするために補った訳語は、ブラケット [ ] で囲みました。


     Gregorius Episcopus, servus servorum Dei. Dilectis in Christo filiabus Clarae ac aliis ancillis Christi in ecclesia Sancti Damiani Episcopatus Assisii congregatis, salutem et apostolicam benedictionem.    司教グレゴリウス、神のしもべたちのしもべが、キリストにあって愛する娘たち、すなわちアッシジ司教区聖ダミアーノ教会において共に住まうクララ以下キリストの婢(はしため)たちに、挨拶と使徒継承の祝福を[送る]。
         
     Sicut manifestum est, cupientes soli Domino dedicari, abdicastis rerum temporalium appetitum; propter quod, venditis omnibus et pauperibus erogatis, nullas omnino possessiones habere proponitis, illius vestigiis per omnia inhaerentes, qui pro nobis factus est pauper, via, veritas, atque vita.    すでに明らかなる如く、主にのみ身を捧ぐるを欲する汝らは、移ろい行く物事への欲を拒み、それゆえにすべての物を売り払い、[あるいはそれらを]貧者たちに与えて、全く何らの所有物をも持たざるを決意し、我らのために貧しくなり給い、道とも真理とも命ともなり給うた御方の足跡に、あらゆることを通して従う者たちである。
     Nec ab huiusmodi proposito vos rerum terret inopia; nam laeva Sponsi caelestis est sub capite vestro ad sustentandum infirma corporis vestri, quae legi mentis ordinata caritate stravistis.    汝等は物に乏しく貧しけれども、決意を枉(ま)げることがない(註4)。なぜなら[神にある]夫[キリスト]の左手が、汝らの身体の弱き諸部分を支えるべく、汝らの頭(こうべ)の下にあるからである。弱きそれらの部分を、愛に支配された精神の範によって、汝らは覆ったのである。
     Denique qui pascit aves caeli et lilia vestit agri vobis non deerit ad victum pariter et vestitum, donec seipsum vobis transiens in aeternitate ministret, cum scilicet eius dextera vos felicius amplexabitur in suae plenitudine visionis.    そして、空の鳥を養い、野の百合を着飾らせ給う御方は、ご自身が汝等のもとに来給いて永遠に司牧し給うまで、すなわちその右手で豊かなる至福直観のうちに汝らを抱き、より大いなる幸福に至らせ給う(註5)まで、食べ物に関しても、また同様に着る物に関しても、汝らの世話を放棄し給うことはない(註6)。
         
     Sicut igitur supplicastis, altissimae paupertatis propositum vestrum favore apostolico roboramus, auctoritate vobis praesentium indulgentes, ut recipere possessiones a nullo compelli possitis.    それゆえ汝等が請願したる如くに、より一層の貧しさを求める汝らの決意を、われらは使徒座に発する賛意を以て認め、汝らが何びとによりても所有物を受けるように強いられ得ざることを、ここなる勅許状の権威によりて承認する。
         
     Nulli ergo omnino hominum liceat hanc paginam Nostrae concessionis infringere vel ei ausu temerario contraire. Si quis autem hoc attentare praesumpserit, indignationem omnipotentis Dei, et beatorum Petri et Pauli Apostolorum eius, se noverit incursurum.    それゆえ、われらが与うる勅許に抵触し(註7)、あるいは無分別な大胆さを以てこの勅許に反対することは、何びとに対しても決して許されるべきでない。しかしながらかかる試みを敢えて為す者は、全能の神と、神の至福なる使徒ペトロ、パウロの怒りがその者に到ることを知るべきである(註8)。
         
     Datum Perusii, decimoquinto kalendas Octobris, Pontificatus nostri anno secundo.    ペルージアにて、わが教皇在位第二年の九月十七日に布告

フランスの古い小聖画。当店の商品です。

 1234年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の軍に属する兵士たちがキアラの女子修道院に侵入しようとしました。このとき病床にあった聖女がキボリウム(聖体容器)を手に窓辺に立つと、修道院内に侵入しようとしていた兵士たちは梯子から落ち、逃げ出したと伝えられています。

 キアラは1253年8月11日に亡くなりました。亡くなる少し前には教皇インノケンティウス4世がキアラを見舞っています。臨終の際、聖女は次のように語ったと伝えられます。「心安らかに行きましょう。善き道を進んできたのですから。恐れずに行きましょう。あなたをお造りになった方があなたを聖なる者とし、あなたを常に守り給い、母のように愛し給うのですから。神よ、わたしを造ってくださったことを感謝いたします。」


【サン・ダミアノのクララ会と、聖キアラの聖遺物】

 中世のアッシジは、他の町と同様に、城壁に囲まれていました。サン・ダミアノ教会(聖ダミアノ聖堂)はアッシジの城壁外、旧市街の南にあり、十三世紀初頭には荒廃していました。アッシジのフランチェスコは、1205年、ここで祈っているときに、クルシフィクスに描かれたキリストから、「わたしの教会を建て直しなさい」との召命を受けました。フランチェスコは友人たちの協力を得てサン・ダミアノ教会を再建し、聖堂に隣接する建物に、フランチェスコに従うキアラが女子修道会を創設しました。

 聖キアラは 1253年8月11日の払暁に、サン・ダミアノのクララ会で亡くなりました。クララ会の修道女たちはキアラの遺体が修道院に安置されるように望みましたが、アッシジの行政長官はこれを許さず、キアラの遺体は城壁内のサン・ジョルジョ教会(聖ジョルジョ聖堂)に移されました。サン・ジョルジョ教会はクララがフランチェスコの説教を聴いて回心した場所です。1255年9月26日、キアラは教皇アレクサンデル四世によって列聖され、間もなくサンタ・キアラ教会(聖キアラ聖堂)の建設が始まりました。聖キアラの遺体は、1260年10月3日、サン・ジョルジョからサンタ・キアラに移葬され、主祭壇の地下深くに埋葬されました。

 フランス革命をはじめとする反教会的革命・改革や近代主義思想の普及により、十九世紀のヨーロッパでは聖地への巡礼や聖人に対する崇敬が下火になっていました。この風潮に対抗し、衰退しつつある聖地への関心を再び強めるために、カトリック教会は聖遺物(聖人の遺体)の修復を進めました。アッシジにおいても当時の司教により、聖キアラの棺を発掘する決定が為され、サンタ・キアラで発掘作業が行われました。こうして1850年9月23日、聖女の棺は590年ぶりに姿を現し、石棺の蓋が開かれました。地中で棺が安置されていた空洞内は湿度が高かったので、白骨化した聖女の遺体も湿り、小さな骨は脆くなっていましたが、全身の骨が残っていました。1864年、聖女の遺骨は保存処理を施したうえで、綿花と蝋で肉付けされ、生前の姿が再現されました。1872年9月29日、綿花と蝋で肉付けされた聖キアラの遺骨は、後に教皇レオ十三世となるペッチ枢機卿により、サンタ・キアラのクリプトに移葬されました。その後、像に使用された綿花が湿気を含むせいで遺骨の劣化が進行したので、1986年から87年にかけて再び保存修復作業が行われましたが、遺骨はそのままクリプトに安置されて現在に至ります。


【聖キアラの図像学】

 図像における聖キアラは、フランシスコ会第二会(クララ会)の修道服姿で描かれます。持ち物としては、純潔の象徴である百合とともに描かれます。シモーネ・マルティーニによる下のフレスコ画において、向かって左に描かれているのが聖キアラです。

【下】 Simone Martini, Santa Chiara e Santa Elisabetta d'Ungheria, c. 1321, fresco, Basilica di San Francesco, Assisi




 また聖キアラは本、すなわちフランシスコ会第二会の修道会則を手にしている場合もあります。ピエロ・デッラ・フランチェスカによる下の作品は、聖アントニオの多翼祭壇画(ペルージアの多翼祭壇画)に描かれた聖キアラです。

【下】 Piero della Francesca, Santa Chiara, Polittico di Sant'Antonio, 1460 - 70, oil and tempera on panel, Galleria Nazionale dell'Umbria, Perugia




 1234年の奇蹟に因んで、下図のように聖体顕示台またはキボリウム(聖体容器)を持っていることもあります。また聖キアラの名前は「明るい」という意味ですので、これに因んでランプを持つ姿で表される場合もあります。




【その他】

 キアラは 1255年に教皇アレクサンデル4世によって列聖されました。キアラの遺体はアッシジの聖キアラのバシリカ (Basilica di Santa Chiara) に安置されています。

 聖キアラは眼病を患う人、金細工師、刺繍をする人、洗濯屋、電話とテレビに関わる人の守護聖人です。祝日はもともと8月12日でしたが、1970年以降は8月11日に改められています。




註1 当時フランチェスコは仲間たちと「小さき兄弟会」を作って、アッシジ近郊リヴォ・トルトの救癩(らい)院で質素な共同生活を始め、ウンブリア地方を巡回説教して悔い改めを熱心に勧めていました。またローマで教皇インノケンティウス3世に謁見し、新しい修道会を設立する仮の認可を得ました。

註2 サン・ダミアノにおいてキアラが独自の修道会を創めたというのが従来の通説でした。しかしながら近年では、ウゴリーノ・ディ・コンティ(Ugolino di Conti 後の教皇クレゴリウス9世 在位 1227 - 41)が各地の女子修道院を組織化したネットワークがこのときまでに存在しており、キアラの会はそこに属する修道会として発足したという説が有力になっています。

註3 この時代の修道院は、所有する広い農地、修道院内で運営する学校、修道院内で制作される手工業品で収入を得るのが普通でした。フランチェスコは修道士が農作業や教職、物作りに携わることで、神に仕えるという第一の目的から注意が逸れてしまうと考えて、「小さき兄弟たち」の生活は喜捨によってのみ営まれるように定めました。

註4 直訳 物の不足が、この決意から汝等を[ひるませて]追いやることはない。

註5 直訳 神の右手が、至福直観の豊かさのうちに、いっそう幸福に汝らを抱く

註6 直訳 汝らを離れ給うことはなかろう。(未来形)

註7 直訳 われらの勅許のこの紙葉を破り

註8 すなわち、indignationem... se incursurum [esse] noverit  indignationem は incursurum esse の対格主語。se は quis (かかる試みを敢えて為す者)。



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