アヴランシュの聖オベール
St. Aubert d'Avranches, c. 660/670 - c. 725





(上) シェフ・ド・サントベールとモン=サン=ミシェル修道院のメダイ 直径 20.5ミリメートル 当店の商品です。


 サンマロ湾東岸から北に突き出るコタンタン半島の付け根あたり、サン=マロ湾を見晴らす丘に、古い町アヴランシュ(Avranche ノルマンディー地域圏マンシュ県)があります(註1)。聖オベール(St. Aubert d'Avranches, c. 660/670 - c. 725)は 704年頃から亡くなるまでこの町の司教であった人で、モン=サン=ミシェル修道院の開祖として知られています。

 聖オベールの祝日は、九月十日です。


【聖オベールとモン=サン=ミシェル建設の伝承】




 聖オベールは 760年代後半頃、アヴランシュの西郊にあるジュネ(Genêts)の領主家に生まれました。オベールが若者であったときに家族は皆亡くなってしまい、後に遺されたオベールは遺産を貧者たちに施して、司祭になりました。やがて 704年にアヴランシュ司教が亡くなると、人望のあったオベール司祭が新司教に選ばれました。

 「モン・トンブなる大天使聖ミカエル教会の啓示」(羅 Revelatio ecclesiae sancti Michaelis Archangeli in monte Tumba)は九世紀初めの聖人伝で、モン=サン=ミシェル修道院またはアヴランシュ司教座聖堂の司祭によると考えられます。この聖人伝によると、司教オベールの時代にドラゴンが民を悩ませていました。司教オベールが十字を切り、海に還って二度と姿を現わさないようにドラゴンに命じると、ドラゴンは司教に従いました。さらに同じ聖人伝によると、司教オベールは大天使聖ミカエルとドラゴンの戦いがモン=ドル(le mont-Dol 註2)に始まり、モン=トンブ(le mont Tombe 墓の山 モン=サン=ミシェルの古称)で決着が付く様子を幻視しました。708年、司教オベールは或る夜に三度にわたって夢を見、クェノン川(註3)の河口の沖に浮かぶ岩山、すなわちミカエルが悪魔を倒した場所であるモン・トンブにモンテ・ガルガノに倣う聖所を造り、祈りと瞑想の場とするよう大天使から命じられました。しかしモン=トンブは陸から離れた島であり、茨などの藪に覆われ、数人の隠修士と野生動物しかいない場所であったので、オベールは大天使の命令を実行不可能と判断して、この啓示を悪魔による惑わしと考えました。オーベールのためらいに終止符を打つため、大天使は聖人の額を指で強く押して印を付けました(註4)。夢から目を覚ましたオベールは自分の額が凹んでいるのを見て、天使の啓示をようやく信じました。

 聖所が建設される際には様々な奇跡が起こりました。九月の朝に円く霜が降り、礼拝堂の平面プランが示されました。繋がれた状態の牡牛が見つかって、これにより礼拝堂を建てるべき場所が示されました。不思議なことに硬い岩から真水が湧き出しているのが見つかりました(註5)。礼拝堂用地には異教の巨石が建っており、近在の農夫とその十二人の息子が力を合わせても倒すことができませんでしたが、司教オベールが農夫の末子である新生児を抱いて巨石に触れさせると、巨石はたちどころに倒れました。

 司教オベールは新しく得た夢告に従って二人の修道士をモンテ・ガルガノに遣わし、大天使ミカエルの聖遺物を求めさせました。オベールは 709年10月16日に礼拝堂を献堂し、十二名の参事会員を置きました。岩山の名はモン=トンブ(仏 le Mont-Tombe 墓の山)からモン=サン=ミシェル=オ=ペリル=ド=ラ=メール(仏 Mont-Saint-Michel-au-péril-de-la-Mer 海難からの守護者聖ミカエルの山)に変えられ、ここにモン=サン=ミシェル修道院が生まれました。


【聖オベールの聖遺物】



(上) 聖遺物容器に納められたシェフ・ド・サントベール(仏 Chef de saint Aubert) フランスの古い小聖画


 オベールの没後、遺体は石棺に納められ、モン=サン=ミシェル礼拝堂の内陣地下に安置されました。聖人の頭部と右腕は聖遺物として遺体から切断され、別に保管されました。「イントロドゥクティオー・モナコールム」(羅 Introductio monachorum 修道士たちの受け入れ)によると、966年にベネディクト会がモン=サン=ミシェル礼拝堂を管理することになって参事会員たちが退去する際、おそらくヴァイキングによる破壊から守るために、ベルニエ(Bernier)という名の司祭がオベールの聖遺物(遺体)を自室の屋根裏に隠匿しました。

 「デー・トランスラーティオーネ・エト・ミーラクリース・ベアーティー・アウトベルティー」(羅 De translatione et miraculis beati Autberti 聖オベールの移葬と数々の奇跡について)によると、モン=サン=ミシェル修道院第三代院長ヒルデベルト一世(Hildebert Ier, ? - 1017)の時代に、隠修士の部屋から白骨化した遺体が見つかりました。遺体の頭骨は頭頂部に穴が開いており、大天使の指によって陥入したものと考えられました。この遺体は三位一体に捧げた祭壇に置かれ、ベネディクト会士たちから崇敬を受けました。三位一体の祭壇はノートル=ダム=ス=テール(Notre-Dame-sous-Terre 地下の聖母)教会の身廊、あるいはベネディクト会修道院付属聖堂に置かれていたと考えられています。

 フランス革命が起こると、フランス国内の歴史的遺産は次々に破壊されてゆきました。1792年には聖オベールの聖遺物とされる白骨遺体も破壊の対象となりかけましたが、ルイ=ジュリアン・ゲラン(Louis-Julien Guérin)という名の医師が、研究材料にするとの口実を設けて頭骨を破壊から救いました。革命の混乱が収まると頭骨はアヴランシュの教会に返還されましたが、右腕は行方が分からなくなりました。

 聖オベールのものとされる頭骨は、シェフ・ド・サントベール(仏 Chef de saint Aubert)と呼ばれています。現代フランス語のシェフは指導者を指しますが、この語はラテン語カプト(羅 CAPUT)に由来し、頭、頭部が原意ですので、シェフ・ド・サントベールは「聖オベールの頭」という意味です。シェフ・ド・サントベールは 1856年にアヴランシュのサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ聖堂(le basilique Saint-Gervais-et-Saint-Protais)に移葬され、今日に至るまで同聖堂の宝物庫に安置されています。




(上) シェフ・ド・サントベール(聖オベールの頭) Chef de saint Aubert


 シェフ・ド・サントベールは全体的に黄色味がかった古色を呈し、頭頂骨の右後ろ寄りにほぼ円形の孔があります。孔は短径 17ミリメートル、長径 21ミリメートルで、周囲に新生骨ができかかっています。炭素14によって年代を測定したところ、シェフ・ド・サントベールは 662年から 770年を示しました。聖オベールが生きていたのは 660/670年頃から 725年頃ですから、両者の年代は一致します。シェフ・ド・サントベールは六十歳以上の人の骨で、上顎の歯は生前に全て脱落し、歯周病が進行して骨が溶けています。この頭骨は土中に埋まっていた形跡がなく、表面の状態から判断して、石棺から取り出されたと考えられます。



註1 アヴランシュはアルモリカ山塊の一部である花崗岩の丘に建設されている。地名アヴランシュ(Avranche)の由来はガリア人の部族名アブリンカトゥイー(Abrincatui)である。

 大プリニウスは「博物誌」四巻四十三章でガリア・ルグドゥネンシス属州の地理を概説し、アブリンカトゥイーにも言及している。以下にプリニウスの原文を示す。日本語訳は筆者(広川)による。


      Lugdunensis Gallia habet Lexovios, Veliocasses, Caletos, Venetos, Abrincatuos, Ossismos, flumen clarum Ligerem, sed paeninsulam spectatiorem excurrentem in oceanum a fine Ossismorum circuitu DCXXV, cervice in latitudinem CXXV.     ガリア・ルグドゥネンシスにはレクソウィイー族、ウェリオカッセース族、カレーティー族、ウェネティー族、アブリンカトゥイー族、オッシスミー族、よく知られるリゲル河がある(*1)。また大洋に突き出る実に大きな半島があって、先端にオッシスミー族が居住する。半島は周囲が六十二万五千パッシー、付け根の幅が十二万五千パッシーである(*2)。
      ultra eum Namnetes, intus autem Aedui foederati, Carnuteni foederati, Boi, Senones, Aulerci qui cognominantur Eburovices et qui Cenomani, Meldi liberi, Parisi, Tricasses, Andecavi, Viducasses, Bodiocasses, Venelli, Coriosvelites, Diablinti, Riedones, Turones, Atesui, Segusiavi liberi, in quorum agro colonia Lugudunum.     かの河を越えるとナムネテース族が、内陸にはローマと同盟を結ぶアエドゥイー族と、同じくカルヌテニー族がいる。他の諸部族はボイー族、セノーネース族、エブロウィケースとして知られるアウレルキー族、ケノマニー族として知られるアウレルキー族、自由民であるメルディー族、パリシー族、トリカッセース族、アンデカーウィー族、ウィドゥカッセース族、ボディオカッセース族、ウェネッリー族、コリオスウェリテース族、ディアブリンティー族、リエドネース族、トゥーロネース族、アテスイー族、自由民であるセグシアーウィー族がいる。植民地ルグドゥヌムはセグシアーウィーの土地にある(*3)。
     NATURALIS HISTORIA, LIBER IV, CAPUT XLIII    「博物誌」四巻四十三章
         
         
     *1 レクソウィイーはリジュー(Lisieux)周辺に住んでいた部族で、地名リジューはこの部族名に由来する。ウェリオカッセース(希 Οὐέλιοκάσιοι)はベルガエまたはケルタエに属するテーヌ期及びローマ時代の部族で、現セーヌ=マリティーム県南部からウール県北部に居住していた。カレーティー(カレーテース)はテーヌ期及びローマ時代の部族で、ペイ・ド・コー(le Pays de Caux ルーアン、ディエップ、ル・アーブルを結ぶ地域)に居住していた。ウェネティー(希 Οὐένετοι)はテーヌ期及びローマ時代の部族で、ブルターニュ半島南東部に居住していた。地名ヴァンヌ(Vannes)はこの部族名に由来する。

 アブリンカトゥイー(希 'Aβρινκάτουοι)はローマ時代の部族で、コタンタン半島(シェルブール半島)南部に居住していた。アヴランシュ(Avranche)はキウィタース・アブリンカートゥム(CIVITAS ABRINCATUM)に由来する。"ABRINCATUM" は複数属格で、"ABRINCATUORUM" に同じである。オッシスミーはテーヌ期及びローマ時代の部族で、ブルターニュ半島先端部に居住していた。リゲル(希 Λείγηρ)はロワールのラテン語名。
     
     *2 "DCXXV", "CXXV" はそれぞれ M(羅 MILLE 千)を補って解した。単位はパッスス(羅 PASSUS, PASSI)である。ローマの 1パッススはおよそ 148センチメートルであるから、625,000パッシーは 925キロメートル、125,000パッシーは 185キロメートルに換算される。小縮尺の地図でブルターニュ半島を見ると、周囲の長さは 625,000パッシー(925キロメートル)よりも小さい。しかしながら曲がりくねった海岸沿いを実際に歩けば、それぐらいの距離になるであろう。
     
     *3 ナムネテースはテーヌ期及びローマ時代の部族で、ナント周辺に居住していた。カルネテニーはテーヌ期及びローマ時代のケルト人で、ロワールの両岸に居住し、中心地はシャルトルであった。ボイイー族はボヘミアを本拠とし、西はヘルヴェティアに至る広い範囲に居住した。ボヘミア(羅 BOIHAEMIA)はボイイーの語根(BOI-)とゲルマン語ハイム(独 Heim, Heimat 故地)の語根(heim-/HAEM-)を繋ぎ、地名の語尾(-IA)と付した語である。

 セノーネースはテーヌ期及びローマ時代の部族の部族で、サンスを中心とするセーヌ盆地に居住した。アウレルキーはセーヌとロワールに挟まれたノルマンディーに居住した部族で、四つの支族に分かれる。エブロウィーケースとケノマニーはそのうちの二つである。メルディーはパリ盆地の自由都市で、現在のモー(Meaux)に当たる。パリシイーはルテティア(Lutetia 現在のパリ)に居住し、セーヌの要衝を占める有力な部族であった。トリカッセースはセーヌの上流に居住したケルト人で、地名トロワ(Troyes)は彼らに由来する。アンデカーウィーはブルターニュ半島付け根の内陸部、ナントとトゥーロンの中間あたりに居住した。ウィドゥカッセースはコタンタン半島付け根の内陸部に居住し、中心地は現在のヴィユ(Vieux カルヴァドス県)である。ボディオカッセースはウィドゥカッセース居住地の北東にいたケルト人で、地名バイユー(Bayeux カルヴァドス県)は彼らに由来する。ウェネッリーはコタンタン半島に居住する部族である。

 コリオスウェリテースはブルターニュ半島のケルト人で、サン=ブリユー(Saint-Brieuc コート=ダルモル県)、サン=マロ(Saint-Malo イール=エ=ヴィレーヌ県)、クロ・プーレ(Clos Poulet ブルターニュ北東部)からモルビアン県に居住した。中心地はファーヌム・マルティス(羅 FANUM MARTIS マルスの宮)で、現在のコルセル(Corseul コート=ダルモル県)に当たる。ディアブリンティーは現在のバ=メーヌ(le Bas-Maine)に居住したケルト人で、中心地ノヴィオドゥーヌム(Noviodunum)は現在のジュブラン(Jublains マイエンヌ県)に当たる。なおノヴィオドゥーヌム(Noviodunum)という地名は新しき砦の意味で、同じ地名はヨーロッパ全域に散在する。リエドネースはディアブリンティー居住地のすぐ西側にいたケルト人である。地名レンヌ(Rennes)は彼らに由来する。トゥーロネースは現在のアンドル=エ=ロワール県を本拠とする部族で、地名トゥール(Tours)は彼らに由来する。

 アテスイーはセグシアーウィーの支族で、現在のロワール=シュル=ローヌ(Loire-sur-Rhône リヨン近郊のコミューン)付近のロワール渓谷に居住していた。セグシアーウィー(希 Σεγοσιανοι/Σεγουσιαυοι )は現在のル・フォレ(le Forez)地域に居住し、中心地フォルム・セグシアウォールム(羅 FORUM SEGUSIAVORUM セグシアーウィーのフォルム)は、現在のフール(Feurs オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ロワール県)にあった。「ガリア戦記」によると、セグシアーウィーはロワールを遡るローマ軍が最初に邂逅したケルト人である。ローマは彼らと対等の立場で交渉し、経済的援助と引き換えに植民市ルグドゥヌム建設への同意を得た。


註2 モン=ドル(le mont-Dol)はモン=サン=ミシェルの西南西二十キロメートルにある小高い山で、高さ六十五メートルはモン=サン=ミシェル(七十八・六メートル)にほぼ匹敵する。現在は同名の村モン=ドル(Mont-Dol ブルターニュ地域圏イール=エ=ヴィレーヌ県)の中央に聳えるが、この村はもともと海辺の沼沢地であった。古代のモン=ドルにはキュベレーの聖所があった。伝承によると、六世紀の聖人ドルのサムソン(St. Samson de Dol, c. 495 - 565)は、キュベレーの聖所跡にミカエルに捧げた礼拝堂を建てた。モン=ドルではキュベレーの祭壇跡と思われる巨石が発掘されている。聖サムソンが建てた聖ミカエル礼拝堂は現存しない。


註3 クェノン(le Couesnon/Kouenon)はイール=エ=ヴィレーヌ(l'Ille-et-Vilaine ブルターニュ地域圏)、マンシュ(la Manche ノルマンディー地域圏)、マイエンヌ(la Mayenne ペイ=ド=ラ=ロワール地域圏)の三県を流れてモン=サン=ミシェル湾(la baie du Mont-Saint-Michel)に注ぐ全長 97.4キロメートルの川。モン=サン=ミシェル修道院はクェノンの河口沖に位置する。


註4 大天使が司教の頭を槍で突いた、あるいは司教の頭に稲妻を落としたとする伝承もある。


註5 この湧き水はラ・フォンテーヌ・サン=トベール(仏 la fontaine Saint-Aubert)、すなわち聖オベールの泉と呼ばれている。




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