教皇ベネディクトゥス14世
PAPA BENEDICTUS XIV



(上) Pierre Hubert Subleyras (1699 - 1749), "Benoit XIV", the Metropolitan Museum of Art, New York


 ベネディクトゥス14世(俗名プロスペロ・ランベルティーニ Prospero Lambertini, 1675 - 1758)はボローニャの人です。法学と神学を学んだ後、1712年から1728年までローマ教皇庁礼部聖省(Sacra Rituum Congregatio 現在の典礼秘跡省 Congregatio de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum)の証聖官 (promoteur de la Foi)、1728年から1731年までアンコナ司教、1728年から1740年までサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂 (Santa Croce in Gerusalemme, Roma) の司祭枢機卿、1731年から1740年までボローニャ大司教を務め、同年8月17日、半年近くに及ぶコンクラーヴェの後、教皇に選出されました。

 18世紀の半ばに18年間に亙って教皇を務めたベネディクトゥス14世は、啓蒙思想に対しても好意的で、「最小作用の原理」を導いた数学者モーペルテュイ (Pierre-Louis Moreau de Maupertuis, 1698 - 1759) の仲立ちによって、フリードリヒ2世 (Friedrich II auch Friedrich der Grosse, 1712 - 1786) とも交流がありました。ヴォルテール (Francois Marie Arouet, dit Voltaire, 1694 - 1778) はベネディクトゥス14世を尊敬して戯曲「ムハンマド」("Mahomet, ou le Fanatisme", 1741) を献呈し、感謝状を贈られています。

 ベネディクトゥス14世は数学、物理学、化学をはじめとする自然科学にも深い関心を寄せ、1741年に最初のガリレオ全集刊行を許可し、1757年には検邪聖省(Congregatio Romanae et universalis Inquisitionis 現在の教理省 Congregatio pro Doctrina Fidei)の宣言により、地動説に立つ書物を禁書目録から外しました。

 啓蒙思想は近代思想の萌芽としての側面を持つ一方で、当時の西ヨーロッパ人こそが十全の人間として扱われるべき優れた人種であり、他の人種、たとえばアメリカ大陸の原住民は、ヨーロッパ人並みの扱いに値しないとする考え方が優勢でした。啓蒙思想家たちによるこのような主張と、それに裏付けられたアメリカ原住民虐待に対し、ベネディクトゥス14世は1741年に使徒的書簡「インメンサ・パストールム」("IMMENSA PASTORUM") を出して批判しました。


 教会関係の業績としては、東方教会をローマに帰一させるべく心を砕き、またジャンセニストに対するローマの態度を和らげました。さらに他宗教との対話を試み、カプチン会士デッラ・ペンナ師 (P. Francesco Orazio Olivieri della Penna, 1680 - 1745) に書簡を託して、ダライラマ7世 (1707 - 1757) に届けさせました。また教会法に関する多数の著作を著し、カトリック信徒とプロテスタント信徒の結婚を有効と認めたことをはじめ、数々の改革を実行に移しました。

 神学に関しては、イエズス会のフランシスコ・スアレス (Francisco Suarez S.I., Doctor Eximius, 1548 - 1617) を高く評価して、トマス・アクィナスの思想に立ちかえることを目指しました。

 ベネディクトゥス14世の保守的な側面としては、外国宣教におけるイエズス会の勢力を殺(そ)ぐべく、現在のパラグアイにあたる地域に設けられたレドゥクシオネス(reducciones イエズス会伝道所)を批判した点が挙げられます。レドゥクシオネスにおいて、イエズス会は先住民にヨーロッパ文明への同化を強制せずにキリスト教への改宗を促す活動をしていました。レドゥクシオネスの先住民は虐待から守られていましたが、18世紀後半になるとイエズス会は南アメリカ各地から追放され、先住民はスペイン、ポルトガル系の支配層による過酷な扱いに曝されることとなります。

 またインドや清朝中国で宣教を行うイエズス会士たちは、祖先祭祀に代表される現地の伝統文化(典礼)を全面的に否定せず、現地に融け込んで活動していましたが、教皇クレメンス11世 (CLEMENS XI, 1649 - 1700 - 1721) はイエズス会のやり方を認めず、教皇の立場からいわゆる「典礼論争」に終止符を打ちました。ベネディクトゥス14世もまた回勅「エクス・クオー・シングラーリー」("EX QUO SINGLARI", 1742) 及び「オムニウム・ソリキトゥーディヌム」("OMNIUM SOLICITUDINUM", 1744) においてこの方針を確認しました。教皇によるこの裁定により、インド及び中国におけるキリスト教宣教は大きな打撃を被りました。


 ベネディクトゥス14世は、カミロ会 Camilliani(看護律修聖職者会 Ordo Clericorum Regularium Ministrantium Infirmis)の創始者であるカミロ・デ・レリス (St. Camillo de Lellis, 1550 - 1614) を 1742年に列福、1746年に列聖しました。聖カミロ・デ・レリスの祝日は7月18日です。

 またベネディクトゥス14世はアンデレル・オクスナー・フォン・リン (Anderl Oxner von Rinn, c. 1459 - 1462 註) を 1753年に列福、1755年に列聖しています。アンデレルはユダヤ人の儀礼殺人の犠牲者とされた3歳の男の子ですが、ユダヤ人に対するこのような糾弾は典型的なブラッド・ライブル(blood libel 血の中傷)であり、事実無根であると考えられます。1994年、アンデレルに対する崇敬は正式に禁じられました。


(下) ベネディクトゥス14世の紋章






註 アンデレルはオーストリア、北チロルのリン (Rinn) に住んでいた3歳の男の子で、1462年に亡くなりました。後の時代の「血の中傷」によると、アンデレルは 1462年7月12日にユダヤ人たちにさらわれ、儀礼殺人の犠牲になったとされました。

 記録によると、アンデレルはトレントのシモンの事件が起きた直後にリンの教会に移葬されていますが、儀礼殺人の犠牲者とされるようになったのは、17世紀のことにすぎません。

 1642年、リンにほど近い町ハル (Hall) に住むイッポリト・グアリノーニ (Hyppolyte Guarinoni) という医師が、「無垢の幼き殉教聖人に捧げる勝利の墓碑銘」("Triumph Cron Marter Vnd Grabschrift of Heilig Unschuldigen Kindts") という冊子を著し、これがアンデレルの事件の公式記録とも言うべきものと看做されるようになりました。アンデレルは「ユーデンシュタイン・バイ・リン」(Judenstein bei Rinn 「リンにある『ユダヤ人の石』」)と呼ばれる岩の上で殺されたとされ、この岩を囲むように建てられた聖堂は、チロルにおける反ユダヤ主義の聖地となっています。




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