ポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカ
Santuario della Beata Vergine del Rosario di Pompei


 ロザリオの聖母のバシリカと鐘楼 ポンペイ

 イタリアは南北の経済格差が大きい国として知られていますが、かつて南イタリアは非常に貧しく、インフラストラクチャーの面でも文化の面でも北部に比べてたいへん遅れていました。

 古代遺跡で有名なポンペイは南イタリア、カンパニア州ナポリ県にあります。19世紀まではこのあたりは沼沢地でマラリアの発生も多く、1659年の流行では人口の過半数が失われました。


【福者バルトロ・ロンゴと至聖なるロザリオの聖母のバシリカ】

 Bartolo Longo

 バルトロ・ロンゴ (Blessed Bartolo Longo, 1841 - 1926) はブリンディージ近郊のラティアノで、裕福なカトリック家庭に生まれました。両親は宗教心に篤く、幼いバルトロが日々ロザリオを祈るように育てました

 しかしバルトロは1851年に母が死ぬと徐々に信仰から離れ、ナポリ大学の学生であった頃には悪魔崇拝のグループに加わって、やがてこのグループの司祭となりました。その後数年間、バルトロは過度の節食によって健康を害したり悪魔の幻覚を体験したりし、ついに友人の勧めによってドミニコ会の司祭アルベルト・ラデンテ (Alberto Radente) に告悔しました。バルトロはその後の一生に亙ってラデンテ神父の指導を受けることになります。

 バルトロは長い悔悟の期間を過ごした後、1871年10月7日に信徒会に入り、兄弟ロザリオと名乗ります。1872年、バルトロはポンペイに移って慈善のグループに加わり、伯爵の裕福な未亡人マリアナ・ディ・フスコ (Mariana di Fusco) を助けて当地での活動を始めました。当時のポンペイは沼地が広がる非常に貧しい地域で、バルトロは山賊から身を守るために、武装した二人の護衛に伴われてポンペイにやって来たと言われています。

 この頃のバルトロは以前の悪魔崇拝の罪によって地獄に落ちるのではないかという恐怖を抱いていましたが、聖ドミニコに出現した聖母が「私のロザリオを広める者は救いに与ります」と聖人に語ったことを思い出して心に平和を得、慈善とロザリオの祈りを広める宣教の活動に励んだのでした。

 バルトロは 1873年10月には荒廃した教会の修繕に取り掛かり、また自らが中心となってロザリオの聖母の祭礼を行いました。1875年にはロザリオの聖母の聖画をナポリの修道院から譲り受けて、この絵を教会に飾れるように修復するための費用を集めました。この絵のなかでは戴冠した幼子イエスが同じく戴冠した聖母の膝に乗っています。イエスと聖母はロザリオを差し出しています。聖母子の前に跪いてロザリオを受け取っているのは聖ドミニコシエナの聖カタリナです。(下図)



 この教会で起こった奇跡の噂が広まって多くの人々が訪ねるようになると、1876年、バルトロはノーラの属司教の勧めによってより大きな聖堂の建設に取り掛かりました。この聖堂は1891年5月に献堂され、1939年にはさらに増築されて、現在ある「ポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカ」になりました。

 1885年4月、バルトロは教皇レオ13世の勧めによりマリアナ・ディ・フスコと結婚し、その後の生涯にわたって多くの慈善を為しました。特に囚人の子供たちの世話をしたことは、当時としては先駆的な業績として知られています。ロンゴ夫妻は 1906年にポンペイの聖堂を教皇に献じ、「ポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカ」は教皇直属のバシリカとなりました。

 バルトロ・ロンゴは1980年10月26日、教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福され、「ロザリオの使徒」の称号を受けました。


(下) 1979年10月21日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカを訪れたときの様子





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