ノートル=ダム・デュ・プラタン 別名ノートル=ダム・デ・アヴィアトゥール
La chapelle Notre-Dame-du-Platin / Notre-Dame-des-Aviateurs, Saint-Palais-sur-Mer,
Charente-Maritime
(上) ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂 別名ノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール礼拝堂 アラン・ジョゼフ氏撮影 photo par M.
Alain Joseph
六角形のフランス本土は、西側の辺がガスコーニュ湾(仏 le golfe de Gascogne 英語ではビスケー湾)に面しており、辺の中ほどには内陸に入り込む入江があります。この入江はラ・ジロンド(仏 la Gironde ジロンド川)またはエスチュエール・ド・ラ・ジロンド(仏 l'estuaire de la Gironde ジロンド三角江、ジロンド河口湾)と呼ばれ、ガロンヌ川とドルドーニュ川の合流点からガスコーニュ湾に至る長さ七十五キロメートル、最大幅十二キロメートルの水域となっています(註1)。
ジロンド川の河口北岸はガスコーニュ湾に向けて少し突き出していて、アルヴェール半島(仏 la presqu'île d'Arvert)と呼ばれます。この半島の南岸に、サン=パレ=シュル=メール(Saint-Palais-sur-Mer ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリチーム県)という小さな町があります。サン=パレ=シュル=メールは大西洋を望む風光明媚な保養地コート・ダルジャン(仏
la Côte d'Argent 銀の海岸)の一角を占め、海水浴場としても知られています。ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂(仏 la chapelle
Notre-Dame-du-Platin 海辺の聖母礼拝堂 註2)はこの町の海辺に建つ小さくとも美しい聖堂で、1909年以降はノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール礼拝堂(仏
la chapelle Notre-Dame-des-Aviateurs 飛行士の聖母礼拝堂)とも呼ばれています。
【礼拝堂の創立者ジョゼフ・オドラン】
ジョゼフ・オドラン 1906年の写真
ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂は実業家ジョゼフ・オドランが私財を投じ、自身の所有地に建てた聖堂です。
アレクサンドル=カジミール・オドラン(Alexandre-Casimir Odelin, 1805 - 1878)はパリの実業家で、大型の金物や鋳鉄製ストーブをはじめとする鉄製品を販売していました。ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂を建てたジョゼフ・オドラン(Joseph
Odelin, 1852 - 1921)はこの実業家を父とし、男ばかり四子のうちの第三子として生まれました(註3)。1878年に父アレクサンドル=カジミールが亡くなると、当時二十代半ばの若者であったジョゼフは、母、弟とともに父の会社(Vinet,
Odelin et Cie)を受け継ぎ、1880年代にはオドラン兄弟社(Odelin frères)と改称しました(註4)。
フランス第三共和政では二度に亙って修道会の国外追放が行なわれました。その一度目は第一次ド・フレシネ内閣(1879年12月28日から 1880年9月23日
註5)が 1880年3月29日に施行した二つの法令によるもので、フランスからイエズス会を追放するとともに、他のあらゆる修道会は直ちに国家による認可手続きを求めるべきことが規定されました。同年6月30日、バリのセーヴル通ではイエズス会の追放に反対する示威行動が行なわれましたが、熱心なカトリックで王党派でもあったジョゼフ・オドランもこれに参加しています。これ以降、ジョゼフ・オドランは選挙のたびにカトリック王党派候補を支持し、これらの候補への投票を呼び掛けています。
(上) ロワヤンのカジノとロワヤン鉄道
十九世紀後半のフランスでは鉄道網が飛躍的に発展するとともに、汽車に乗って観光地を訪れる旅客が急増しました。風光明媚なアルヴェール半島にもロワヤン鉄道(仏
le tramway de Royan 註6)が敷設され、半島の南隣の村サン=ジョルジュ=ド=ディドン(Saint-Georges-de-Didonne)から、半島南端にある経済活動の中心都市ロワヤンを経てサン=パレ=シュル=メールまで、全長十六キロメートルを結びました。1896年、ジョゼフ・オドランはロワヤン鉄道を運営するロワヤン・グランド・コート鉄道会社(仏
la Société des tramways de la Grande Côte de Royan)の取締役に就任しています。
ジョゼフ・オドランはロワヤン鉄道の北端サン=パレ=シュル=メールに地所を購入しました。ここには後にノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂(ノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール礼拝堂)が建つことになります。
(上) 現在のリセ・サント=ジュヌヴィエーヴ。同校のウェブサイトから
フランスで最も優秀な進学校として知られるリセ・サント=ジュヌヴィエーヴ(仏 le lycée Sainte-Geneviève)は、イエズス会が運営するリセ(高校)です(註7)。ジョゼフ・オドランはこの学校の理事として功績があったゆえ、1889年に教皇レオ十三世から聖大グレゴリウス勲章シュヴァリエ(騎士章)を、1904年に教皇ピウス十世から聖大グレゴリウス勲章コマンドゥール(司令官章)を授与されました。同じ
1904年には私財を投じてジロンド河畔サン=パレ=シュル=メールにノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂(仏 la chapelle Notre-Dame-du-Platin 海辺の聖母礼拝堂)を建設しました。
かつてのフランスではカトリック教会の力が強く、宗教が政治経済と分かちがたく結びついていました。フランス革命以降、共和政体のフランスでは政教分離を推し進め、政治経済を教会から切り離すためにさまざまな荒療治が行なわれました。1880年、第三共和政フランスがイエズス会をはじめとする諸修道会を国内から追放したことは既に述べました。さらに第三共和政フランスは
1905年に政教分離法(仏 la loi concernant la séparation des Églises et de l'État)を制定し、カトリック教会が有する財産を没収すべく目録作成に取り掛かりました。共和国のこのような動きは篤信のカトリック信徒の間に憤激を呼び起こし、各地で騒擾を惹き起こします。ジョゼフ・オドランも
1906年2月2日にパリで聖職者の示威行動に参加し、逮捕されています(註8)。
(上) サンピュイ孤児院で職業訓練を受ける子供たち フランスの古い絵葉書
1880年代から90年代のパリ市議会議員選挙で、ジョゼフ・オドランは保守系候補として数度に亙って立候補し、1890年から 1893年まで議員を務めました。ラ・リーブル・パロル(仏
La Libre Parole, 1892 - 1924 自由の言葉)は保守主義の論客エドゥアール・ドリュモン(Édouard Drumont, 1844 - 1917)が
1892年4月20日にパリで創刊した新聞で、反ユダヤ的主張で知られます。ジョゼフ・オドランはエドゥアール・ドリュモンと親しく、ラ・リーブル・パロル紙にもたびたび寄稿しました。特に自由主義の教育家ポール・ロバン(Paul
Robin, 1837 - 1912)がパリのサンピュイ孤児院(仏 l'orphelinat de Cempuis 註9)院長となり、フランス初の男女混合教育を始めた際は、これを猛然と攻撃しました。保守派による激しい攻撃の結果、ポール・ロバンは
1894年にサンピュイ孤児院院長の地位を退きました。
ジョゼフ・オドランは 1921年4月21日、ニースで亡くなりました。遺体はパリ二十区のペール=ラシェーズ墓地第57区画に埋葬されました。サン=パレ=シュル=メールのノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂に近い街路名(仏
l'avenue Joseph Odelin)は、ジョゼフ・オドランに因みます。
【ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂の歴史】
(上) 建設当初のノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂 1904年の写真
ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂は、ジョゼフ・オドランが妻の求めに応じて、1904年、サン=パレ=シュル=メールの所有地に建てた教会堂です。最初はごく小さな建物でしたが、やがて地域住民のための宗教施設として機能し始めたので、オドランは鐘楼以外の部分を全面的に建て替えることにしました。1908年、フランス領コンゴのプロスペル・オグアール司教(Mgr
Prosper Philippe Augouard, 1852 - 1921 註10)がサン=パレ=シュル=メールを訪れ、増築が完了した礼拝堂を祝別しました。
(上) ブレリオ 11型機
初期の飛行機製作者ルイ・ブレリオ(Louis Blériot, 1872 - 1936)は数々の試作機で失敗を繰り返し、離陸に成功した場合でも、飛距離は数百メートルにとどまっていました。1909年にブレリオ11型機が完成したとき、ルイ・ブレリオはほとんど破産状態でした。それにもかかわらず11型機の性能に自信を持ったルイ・ブレリオは、1909年7月25日、自らこの機を操縦して、英仏海峡横断に成功しました(註11)。ルイ・ブレリオの偉業に感動した事業家ジョゼフ・オドランは、ノートル=ダム・デュ・プラタン(海辺の聖母)にノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール(仏
Notre-Dame-des-Aviateurs)すなわち飛行士の聖母という別称を加えました。
翌 1910年、一機の飛行機から礼拝堂に向かって花環が投下され、飛行機はロワヤンの浜辺に着陸しました。これは空から行なわれたノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール巡礼の第一回となりました。1911年、ラ・ロシェル(la Rochelle ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリチーム県 註12)の司教は、ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂(ノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール礼拝堂)でのミサを許可しました。その後まもなく海辺の聖母信心会(la Confrérie de Notre-Dame-du-Platin)が結成され、第二次世界大戦中を除く 1916年から 1982年まで聖母への巡礼が行なわれました。最初の巡礼祭は1916年9月8日すなわち聖母マリアの誕生日にロワヤンの教会の主任司祭が司式し、軍民合わせておよそ四千名が参加して行なわれました。
(上・参考画像) ミハイル・ヤンポルスキー 「竜を倒す聖ゲオルギウス」 Michel Jampolsky, "St Georges terrassant le dragon"
ジョゼフ・オドラン没後の 1927年に、礼拝堂は教区に寄贈されました。1945年、礼拝堂は連合国側の爆撃によって損壊し、1947年に再建されました。1994年には大規模な修復が行われています。1999年末のヨーロッパは強力な低気圧に伴う猛烈な嵐に襲われ、ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂も甚大な被害を受けましたが、2005年までに再び修復されました。
ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂の現状は、翼廊が無く身廊のみで、ベイ四つの奥行があります。正面はゴシック式で、その上に乗る尖塔は創建当初のものです。
(上) ノートル=ダム・デュ・プラタン ミハイル・ヤンポルスキーが 1919年頃に制作した大型プラケット 突出部分を含むサイズ 縦 94 x
横 75 mm 当店の商品
礼拝堂には 1919年以来、浮き彫り像ノートル=ダム・デ・ザヴィアトゥール(仏 la chapelle Notre-Dame-des-Aviateurs 飛行士の聖母)が安置されていました。この浮き彫り像はキーウ出身のメダイユ彫刻家、ミハイル・ヤンポルスキー(Michael
Jampolsky 註13)の作品でしたが、1945年の爆撃によって失われ、石膏のレプリカが置かれました。しかしこのレプリカも 2003年に悪質ないたずらで破壊され、2008年に新しい聖母像が安置されて現在に至ります。
1945年1月、サン=パレ=シュル=メール付近で爆撃機の墜落事故が起き、乗員が死亡しました。ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂ではこの墜落事故の追悼ミサを行っています。また聖母マリアの誕生が祝われるのも珍しい点です。ノートル=ダム・デュ・プラタン礼拝堂は、現在は夏季のみ参拝者を受け容れています。