スヘルペンフーフェルの愛すべき聖母のバシリカ、モンテギュの聖母のバシリカ
De Basiliek van Onze-Lieve-Vrouw van Scherpenheuvel, La Basilique de Notre-Dame
de Montaigu
スヘルペンフーフェルの愛すべき聖母のバシリカ De Basiliek van Onze-Lieve-Vrouw van Scherpenheuvel(フランス語では、モンテギュの聖母のバシリカ
La Basilique Notre-Dame de Montaigu)は、ベルギー中北部、ジヘム (Zichem, Vlaams-Brabant)
近郊にある聖母マリアの巡礼地で、スヘルペンフーフェル Scherpenheuvel (フランス語では、モンテギュ Montaigu)と呼ばれる丘の頂上に建っています。ここではシェーヌ(ブナ)でできた高さ
30.5センンチメートルの聖母子像が崇敬されています。
【バシリカの歴史】
かつてスヘルペンフーフェルの丘の頂上に、十字架のような形をしたシェーヌが立っており、その幹の洞(うろ)に聖母子像が安置されていました。このシェーヌには1200年頃から巡礼が訪れていたらしく、最古の記録はジヘムの司祭ファン・フェルテム
(Lodewijk van Velthem) による 1304年の報告に遡ります。1306年にはシェーヌの下に小さなお堂が作られました。
伝承によると、1415年頃、ここを通りがかった羊飼いが、聖母子像が木から落ちているのを見て、洞に戻そうとしましたが、小さな像であるにもかかわらず非常に重かったので、雇い主を呼んで力を借り、ようやく像を樹上に戻すことができました。
1306年のお堂は、1568年、スペインとの戦争の際に破壊されました。聖母子像は1584年に盗まれましたが、その後ディースト (Diest スヘルペンフーフェルの丘をはさんで、ジヘムの反対側にある町)
で見つかりました。
1602年のレントに、ジヘムの主任司祭が木造の小さな礼拝堂を再建すると、これを嘉(よみ)し給うた聖母は血の涙を流すという奇蹟を起こし、多数の巡礼が集まりました。スペイン領ネーデルラントの君主である大公夫妻、すなわち総督アルブレヒト(アルベール、アルベルト)7世・フォン・エスターライヒ
(Albrecht VII. von Oesterreich, 1559 - 1621) と、その妃イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア
(Isabel Clara Eugenia de Austria, 1556 - 1633) によって、この礼拝堂は2年後の1604年に、より大きな煉瓦の聖堂に建て替えられました。
いっぽう聖母子像がもともと安置されていたシェーヌは、当時盛んであったサクラ・フルタ(SACRA FURTA 聖物盗掠)の行為によって枝が伐られていったので、アントヴェルペン司教の命によって1604年に伐採されました。シェーヌは三分されて、最も大きな部分はアルブレヒト大公夫妻に贈られ、残りの部分からは奇蹟の聖母子像のレプリカが数体製作されました。
(下) アルブレヒト7世と妃イサベル・クララ・エウヘニア
Frans Pourbus le Jeune (c. 1569 - 1622) , "Portraits de l'Archiduc d'Autriche Albert et de l'archiduchesse Isabella Clara Eugenia", huile sur toile, 60 x 42 cm, Groeningemuseum, Bruges
奇蹟の聖母子像への巡礼が盛んになったのは、アルブレヒト大公夫妻の功績でした。大公夫妻はシェーヌがあった場所からほど近いところに 1609年から大きな聖堂を建て始め、18年後の1627年に献堂式が行われました。献堂式の日、イサベル・クララ・エウヘニアは所有するジュエリーを祭壇前に投げ捨て、現世の栄華を棄てて信仰に生きる気持ちを表し、多数の人々がその範に倣ったと伝えられています。
話が前後しますが、大公アルブレヒト7世はオーストリア・ハプスブルク家の出身で、スペイン国王フェリペ2世 (Felipe II de Habsburgo,
1527 - 1598) の甥にあたります。宗教改革後に起きた数々の戦争により疲弊したフェリペ2世は、国家財政の破綻を防ぐためにネーデルラントをスペイン本国から分離することとし、1595年、アルブレヒト7世をネーデルラント(現在のベネルクス三国)総督に任命しました。
アルブレヒト7世はプロテスタントのオランダ共和国と戦いましたが、1604年、イギリスの国王がエリザベス1世からジェイムズ1世に代わって、イギリスとスペインの間に講和が成立した結果、オランダとスペインの間にも1609年から1621年まで休戦が成立すると、大公夫妻は南ネーデルラントにおける芸術の振興とカトリック信仰の強化に力を注ぎます。ピーテル・パウル・ルーベンス
(Peter Paul Rubens, 1577 - 1640) は大公夫妻の宮廷画家でした。
スヘルペンフーフェル(モンテギュ)の奇蹟の聖母への巡礼を盛んにすべく、大公夫妻が立派な聖堂を建てたのも、このような歴史的文脈に位置するできごとのひとつです。すなわち1602年に聖母像が血の涙を流すと、大公夫妻は翌年7月に煉瓦の礼拝堂建設のための献金をして定礎を行いました。ネーデルラントは当時プロテスタント勢力であるオランダ共和国と戦争中でした。大公夫妻は1603年11月と翌年9月にスヘルペンフーフェル(モンテギュ)の聖母を訪れて戦闘に勝利したことを感謝し、さらなる戦勝を祈願しています。そしてオランダとスペインの間に休戦が成立した日である1609年7月2日に、石造の聖堂の定礎が行われたのでした。
大公夫妻の依頼を受けてこの聖堂を設計したのは、建築家ヴェンツェル・コーベルヘル (Wenzel/Wenceslas Cobergher, 1557
- 1634) です。キリスト教の完全数7に基づき、聖堂は珍しい七角形の平面プランで建てられています。ドーム内部の穹窿には298個の星が散りばめられていますが、これもすべて七芒星です。
(下) 側面から見たバシリカ。珍しい七角形の平面プランを有することがよくわかります。
奇蹟の聖母子像はこの聖堂の主祭壇に安置されています。主祭壇基部には聖母のシェーヌが聖遺物として保管され、主祭壇上部には穹窿まで届く高さのシェーヌが作ってあります。
(下) 主祭壇に安置されたスヘルペンフーフェル(モンテギュ)の聖母
フランス革命時代の1797年、フランス軍がこの地域を占領すると、聖堂は略奪に遭い、巡礼者のための小礼拝堂は壊されました。スヘルペンフーフェル(モンテギュ)の聖母崇敬は、1872年に聖母子像が戴冠し、ようやく再興しました。聖堂は1922年、小バシリカとされ、ベルギー最大の聖母の巡礼地として今日に至っています。
スヘルペンフーフェル(モンテギュ)の聖母は、死者の日(11月2日)の次の日曜日に主祭壇から取り出され、聖堂の周囲と墓地を回ります。墓地ではろうそくが灯されます。スヘルペンフーフェル(モンテギュ)の聖母の祝日は1月3日です。