ボワ=セニュール=イザーク修道院
L'abbaye de Bois-Seigneur-Isaac




 ボワ=セニュール=イザーク修道院は、ベルギー、ワロン地域のブラバン・ワロン州オファン=ボワ=セニュール=イザーク (Ophain-Bois-Seigneur-Isaac) にある修道院で、元々プレモントレ会に属していましたが、2010年からはレバノン・マロン派修道会(l'Ordre libanais maronite, Ordo Libanensis Maronitarum, O.L.M)の修道院となっています。オファン=ボワ=セニュール=イザークは、現在、人口約 37,000人の小都市ブレーヌ・ラルー(Braine-l'Alleud)の一部となっています。


【修道院の歴史】

 ボワ=セニュール=イザーク修道院 (L'abbaye de Bois-Seigneur-Isaac, ABBATIA SILVAE DOMINI-ISAAC) とは「領主イザーク殿の森の修道院」という意味です。イザークはベルギー南部の町イトル(Ittre ワロン地域ブラバン・ワロン州)の領主の子孫で、フランス北東端に近いヴァランシエンヌ(Valenciennes オー=ド=フランス地域圏ノール県)の領主であるエノー伯(comtes de Hainaut)に仕える騎士でした。

 伝承によると、イザーク・ド・ヴァランシエンヌ (Isaac de Valenciennes) は領地にある菩提樹の木の下に聖母像を安置していましたが、ゴドフロワ・ド・ブイヨン (Godefroid de Bouillon, c. 1060 - 1100) とともに第一回十字軍(1095 - 1099年)に参加することとなり、東方に旅立ちました。ところがイザークは聖地でイスラム軍の捕虜となってしまいました。イザークが聖母に祈って助けを求めたところ、「あなたはわたしの像を野ざらしにしておきながら助けを求めるのか」というお告げがありました。礼拝堂の建立を聖母に約束したところ、イザークは翌日息子アルテュール(Arthur)とともに解放されました。領地に戻ったイザークは、聖母に捧げた木造の礼拝堂を領地の森(オファン=ボワ=セニュール=イザーク)に建てました。この礼拝堂堂がボワ=セニュール=イザーク修道院の起源となりました。

 領主イザークが聖堂に安置したのは、10世紀初め頃から地元において崇敬を集めていた聖母像でした。この聖母像は、1336年、当時猛威をふるっていた黒死病を鎮めるために、オファン=ボワ=セニュール=イザーク西南西約2キロメートルにある集落イトル (Ittre) に貸し出され、イトルでは聖母の行列が行われたのですが、その効果が覿面(てきめん)であったために、イトルの村人たちは聖母像を返すことを拒みました。そこでカンブレ司教ギュイヨーム (Guillaume de Cambrais) の仲裁により、イトルの村人はボワ=セニュール=イザークの聖堂に新しい聖母像を寄贈する代わりに、古い聖母像を手許にとどめてもよいことになりました。(註1)


 1405年、下で詳述する聖体の奇蹟がイザークの聖堂において起こったことをきっかけにして、1416年、イザークの聖堂はアウグスチノ会の修道院となりました。

 ユグノー戦争の際、修道院はプロテスタント国家ネーデルラントの事実上の初代君主であるオラニエ公ヴィレム (Willem van Oranje, 1533 - 1584) の軍によって 1580年に略奪され、参事会員(修道士)たちはいったん避難を余儀なくされました。状況が好転すると修道院は再建され、フランス革命の頃まで巡礼地としての機能を果たしました。

 フランス革命に際して修道院はふたたび破壊され、敷地の一部は農地に転用されましたが、「尊き御血の礼拝堂」は破壊を免れました。修道院を追放されたアウグスチノ会の参事会員たちに代わり、ひとりの司祭が礼拝堂を守る状況が19世紀末まで続きました。


 当時のフランスは第三共和制でしたが、1877年の「5月16日のクーデター」以来、政府は反教会色を強めます。1881年から翌82年にかけてジュール・フェリー法が成立して、教育界から修道士たちが追放され始め、やがてその動きは教育界以外にも広がりました。

 バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県ジュエ=モンデ (Juaye-Mondaye) にあるプレモントレ会の修道院サン・マルタン・ド・モンデ (Saint-Martin de Mondaye) においても、 院長であるジョゼフ・ウィルキンズ師 (Joseph Willekens 在職 1873 - 1908) が外国人であるという理由で追放されて、修道院が解散しました。修道士たちは 1894年に戻ってきましたが、1902年に再び追放されました。


 1902年にサン・マルタン・ド・モンデを離れた修道士たちは、フランス国外のボワ=セニュール=イザークを買い取ってここに移り、修道院を再建して「尊き御血」への信心を再興しました。1921年、サン・マルタン・ド・モンデに戻ることを許された修道士たちは、プレモントレ会の修道院となったボワ=セニュール=イザークを、同じプレモントレ会のアーヴェルボーデ修道院 (Abdij van Averbode) の修道士たちに引き継ぎました。

 その後ボワ=セニュール=イザーク修道院は、1925年にいったん独立の修道院となったあと、1957年にふたたびアーヴェルボーデ修道院の分院となりました。2010年からはレバノン・マロン派修道会(l'Ordre libanais maronite, Ordo Libanensis Maronitarum, O.L.M)の修道院となって今日に至っています。


【エウカリスチア(聖体)の奇蹟】



(上) イザークの聖堂で血を流した聖体と、その血で汚れた聖体布。向かって右側のモノクロ写真は古い絵葉書のものです。


 ボワ=セニュール=イザークの聖堂では、1405年6月5日、エウカリスチア(聖体)の奇蹟が起こりました。

 この年のペンテコステの前の火曜日の夜、傷だらけのイエズスがジャン・ド・ユルダンベール(Jean de Huldenberg/Huldenberghe, ou Jean du Bois)に現れ、この傷を癒す医者を見つけなさいと命じられましたが、ジャンは意味がわからず、「その傷を癒せる医者を私は知りません」と答えました。翌水曜日の夜にも同様の出現があり、イエズスはジャンに同じことを命じられました。翌木曜日の夜、ジャンは兄弟ひとりとともに部屋にこもり鍵をかけていましたが、やはりイエズスが現れました。ジャンが「どの患者の許に医者を遣ればよいかわかりません」と答えると、イエズスは「イザークの聖堂に行きなさい。わたしはそこにいる」とジャンに言われました。ジャンが聖堂に行くと、キリスト磔刑像から祭壇に血が滴り落ちていました。

 その日、オー=ティトル (Haut-Ittre) の教区司祭ピエール・オスト(Pierre Ost)は、「イザークの聖堂に行って、ジャン・ド・ユルダンベールとともにミサを挙げよ」との声のお告げを受けました。翌金曜日の日、神父がジャンを従えてミサを挙げている最中、聖体布(聖皿と聖杯の下に敷く布)を広げると、前の火曜日に祝別された聖体がその上にありました。神父が聖体を手に取ろうとしたところ、それは布から離れず、聖体から血が滲み始めました。神父は青ざめましたが、ジャンは神父に自分の幻視について話し、そのままミサを続けるように頼みました。ミサが終わるころには血の量が一層多くなり、最終的には聖体が血溜まりに浮かぶ状態となりました。血はペンテコステの次の火曜日まで九日間に亙って流れ続けたあと、ようやく止まって乾きました。聖体布の血痕は指の幅三本分になっていました。


 聖体の血がしみ込んだ布はカンブレ司教ピエール・デリィ(Pierre d'Ailly / Petrus Aliacensis, 1351 - 1420)の許に運ばれ、司教は二年間に亙って厳しい検査と調査を行いました。司教はさまざまな方法で聖体布を洗いましたが、血痕を取り除くことはまったく不可能で、その間に様々な奇跡が起こりました。

 カンブレ司教ピエール・デリィは 1411年に枢機卿となりましたが、イザークの礼拝堂での出来事が奇蹟であることの承認をジャン・ド・ユルダンベールに求められ、1413年9月23日に公式調査の開始を命じ、同年10月18日、本件が真正の奇蹟であると承認して、礼拝堂が巡礼者を受け入れることを認めました。イザークの礼拝堂は 1411年に献堂され、1413年には聖母誕生の祝日の次の日曜日に、行列を行うことが認められました。同年、ジャン・ド・ユルダンベールとナミュール伯夫妻の意向に従い、イザークの礼拝堂はアウグスチノ会の聖堂参事会員が管理することとなり、巡礼者に対応するために修道院を建てることが決まりました。修道院は 1416年に完成しました。


【尊き御血の礼拝堂】



(上) ボワ=セニュール=イザーク修道院付属聖堂(尊き御血の礼拝堂) 貴き御血の礼拝堂は長方形プランに基づく単身廊式で、身廊の長さは四十五メートル、幅は十メートルです。


 1411年に建てられた礼拝堂は、1442年、ジル・ド・ブレーダイク(Gilles de Breedijk)修道院長の下で大規模に建て増しされ、新聖堂の内陣となりました。ニコラ・ド・ラ・クロワ(Nicolas de la Croix)修道院長の時代には内陣両側の聖歌隊席及び内陣仕切りが加わっています。建て増しの翌 1443年、新聖堂は教皇マルティヌス五世に認可され、ブラバン公ジャン四世、ブルゴーニュ公フィリップ三世ル・ボン、フランス王ルイ十一世をはじめとする要人の訪問、ならびに寄進が大幅に増えました。1530年には老朽化した内陣が改築されました。

 ボワ=セニュール=イザーク修道院と聖堂は、1572年にオラニエ公ウィレム一世の軍によって略奪され、1580年には修道院が大火で全焼しましたが、第十八代修道院長ジャン・ダルトワ(Jean d'Artois 在位 1580 - 1585年)の下、1585年に再建が始まり、1615年に作業が完了しました。1645年には鐘楼が落雷で破壊されましたが、1658年に再建されました。

 第二十六代修道院長クワンタン・ド・ブルック(Quentin de Breucques)の時代であった 1703年に、礼拝堂穹窿(丸天井)の最も古い部分がルイ十四世様式の漆喰天井に替わりました。その後内陣仕切りが入り口にずらされ、バロック様式の手すりで飾られました。1765年から 1784年にかけては、ルイ十五世様式の告解席が設けられた他、聖体拝領台、及び上部に十個のメダイヨンを彫刻した聖歌隊席が加えられました。


、「尊き御血の礼拝堂」は修道院付属聖堂として現在も使用されています。また 1900年に結成された「尊き御血の兄弟団」(Fraternité du Saint-Sang)会員を始めめとする巡礼者もこの礼拝堂を訪れます。奇蹟が起こった日であるペンテコステ前の金曜日、尊き御血の祝日(七月一日)、聖母生誕祭(十二月八日)は礼拝堂でのミサと宗教行列によって盛大に祝われます。


【ボワ=セニュール=イザーク修道院付属聖堂の聖遺物】




 1405年6月5日に奇跡を起こした聖体とその血に染まった聖体布は、元々簡易なブロンズ製ルリケール(仏 reliuaire 聖遺物函)に納められていましたが、1546年、ルーヴェンの銀細工師によってゴシック様式の顕示台型ルリケールが制作されました。新しいルリケールはヴェルメイユ製で、オラニエ公の軍による略奪から守られ、現在も聖遺物を納めて展示されています。


 尊き御血の礼拝堂には、真の十字架の破片から作った小十字架も安置されています。聖遺物「真の十字架の破片」はもともとビザンティン皇帝の所有物でしたが、帝室の聖遺物コレクションは第四回十字軍(1204年)の結果ラテン皇帝ボードワン(Baudouin, 1171 - c. 1205 註2)の手に渡りました。ボードワンはこの破片を自身の弟であるナミュール侯フィリップ一世(Philippe Ier de Namur, 1174 - 1212)に譲り、フィリップ一世はそれを自領のプレモントレ会フロレフ修道院(l'Abbaye de Floreffe 註3)に寄進しました。フランス革命がナミュールに及んでフロレフ修道院が廃院となるに伴い、同修道院の参事会員たちは、当時プレモントレ会に属していたボワ=セニュール=イザーク修道院に、聖遺物「真の十字架」を移しました。

 上の写真は十九世紀の絵葉書で、尊き御血の聖体と聖体布を顕示するルリケールの右(向かって左)に、十三世紀のゴシック式聖遺物容器に納められて、聖遺物「真の十字架」が写っています。下の写真は十九世紀末に新調された大きな聖遺物函で、「真の十字架」は現在この中に安置されています。絵葉書の写真に写っている小さな聖遺物容器は、ルーヴルに収蔵されています。





 イエス・キリストは受難の際に茨の冠を被り給いましたが、この冠から採った棘は聖遺物として各地で崇敬されています。尊き御血の礼拝堂にも、一本の「サンテピーヌ」(仏 une Sainte Épine 聖なる棘)が安置されています。

 フランス王ルイ九世は信心深い母ブランシュ・ド・カスティーユの影響で宗教に深く帰依しました。「フランスはカトリック教会の長姉である」(La France est la fille aînée de l'Eglise.) という言葉がありますが、この言葉を初めて使ったのはルイ九世であると言われています。ルイ九世はフランスを教会の長姉とし、パリを信仰の一大中心地とすることを目指しました。ルイ九世は聖遺物の収集に熱心で、サンテピーヌやマンディリオン(le Mandylion, ou l'Image d'Edesse キリストの顔が奇蹟的に転写された布)、聖十字架の破片など、コンスタンティノープルからもたらされたキリストの聖遺物を納めるため、1243年から1248年にかけて王宮の礼拝堂ラ・サント=シャペル (la Sainte-Chapelle) をシテ島に建設しました。またパリの西20キロメートル足らず、サン=ジェルマン=アン=レイにある王宮 (Le chateau de Saint-Germain-en-Laye, ou Chateau-Vieux) にも、礼拝堂ラ・サント=シャペル (la Sainte Chapelle) を造らせています。





 ルイ九世は入手したサンテピーヌのうちの数本を各地の修道院に奉納しました。尊き御血の礼拝堂に安置されているサンテピーヌは、元々ヴォーティエ=ブレンヌ(Wauthier-Braine ワロン地域ブラバン・ワロン州)のシトー会女子修道院に安置されていました。この修道院は 1224年に創建され、1796年まで存続しましたが、フランス革命期に廃院となりました。ヴォーティエ=ブレンヌ修道院にあったサンテピーヌは、1825年、ボワ=セニュール=イザーク修道院に移されました。




註1 ボワ=セニュール=イザーク修道院から借りたままの聖母像の領主ートル=ダム・ディトル(Notre-Dame d'Ittre イトルの聖母)は現在でもイトルで崇敬を集め、1384年から今日に至るまで、毎年八月十五日に聖母の行列が行われている。

註2 フランドル伯(1194 - 1205年)としては、ボードワン九世(Baudouin IX de Flandre)、エノー伯(1195 - 1205年)としては、ボードワン六世(Baudouin VI de Hainaut)、ラテン皇帝(1204 - 1205年)としては、ボードワン一世(Baudouin Ier)。

註3 フロレフ修道院はフランス革命に際して廃院となり、現在はビールとチーズの工場として使用されている。



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