中世ヨーロッパの人々にとって、霊験あらたかな聖母子像や聖遺物に詣でることこそが「信仰」でした。中世フランスにおける聖母マリアの巡礼地は、英仏海峡に面するブーローニュ=シュル=メール、黒い聖母があるル・ピュイ=アン=ヴレ、受胎告知の際にマリアが身に着けていたヴェール「サント・チュニク」を安置するシャルトル司教座聖堂ノートル=ダム、フランス南西部のピレネー山中にある聖地ロカマドゥールが特に有名でした。
ロカマドゥールに詣でる巡礼者たちは、衣服や帽子に「スポルテル」(sportelle) と呼ばれる紡錘形の徽章を縫い付けました。本品はおよそ百年前にフランスで制作された巡礼兄弟団(信心会)のアルミニウム製スポルテルで、中世のロカマドゥール巡礼者たちが身に着けたスポルテルと同様のサイズに作られています。
表(おもて)面には左膝に幼子イエスを乗せたロカマドゥールの聖母が刻まれています。「ロカマドゥールの聖母」はクルミ材に彫られた高さ76センチメートルの「黒い聖母」で、それほど大きなサイズではありませんが、見る者に畏怖の念を起こさせます。しかしながら本品の浮き彫りにおいて、聖母の表情は優しく、母に甘える幼子イエスは可愛く、アルミニウム製メダイの軟らかな手触りとも相俟って、あたかも慈母のような温かみと親しみを感じさせる作品に仕上がっています。
実物の黒い聖母は右手に何も持っていませんが、本品に浮き彫りにされた聖母は、先端にフルール・ド・リス(百合の花)が付いた笏を持っています。ビスケットを持った幼児のようにも見えるイエスは、右手を挙げて祝福の仕草をしています。スポルテルの周囲にはラテン語で「ロカマドゥールの至福なるマリアの印」(SIGILLUM
BEATAE MARIAE DE ROCAMADOUR) と彫られています。
フルール・ド・リスは聖母の象徴であるとともにフランスの象徴でもあります。本品の聖母が手に持つフルール・ド・リスの笏は、フランスへの祝福を表しています。中世のスポルテルにおいても、聖母はフルール・ド・リスの笏を持っています。したがって本品に彫られた笏はこの浮き彫りを制作したメダイユ彫刻家の独創ではありませんが、19世紀末から20世紀初頭という本品の制作年代を考えるならば、当時のヨーロッパの不安な情勢の中で、フランスへの祝福を聖母に求める気持ちを読み取ることができます。
メダイの裏面は中央をミル打ち状の円形枠で囲み、フランス語で「コンフレリ・デ・ペルラン・ド・ノートル=ダム・ド・ロカマドゥール」(Confrérie
des Pèlerins de Notre-Dame de Roc-amadour ノートル=ダム・ド・ロカマドゥール巡礼者兄弟団)と刻まれています。「コンフレリ」(confrérie 兄弟団)とは信心会のことです。
中世の民衆にとって、信仰とは聖地への巡礼に他なりませんでした。旅行に大きな危険と困難が伴った時代、巡礼者たちに食事、宿泊場所、医療等を提供し、行き倒れた巡礼者を埋葬したのは、各地の兄弟団でした。サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路上に位置し、それ自体が重要な聖地であったロカマドゥールには、全ヨーロッパから数えきれない数の巡礼者が訪れました。「コンフレリ・デ・ペルラン・ド・ノートル=ダム・ド・ロカマドゥール」は、ロカマドゥールを訪れる巡礼者への奉仕のためにかつて存在した兄弟団のひとつでした。
中世に発祥した各地の巡礼者兄弟団は、フランス革命期にすべて解散させられましたが、革命が過ぎ去ると息を吹き返しました。しかしながら交通手段が発達して簡単に旅行できるようになった現在では、多くの巡礼者兄弟団がその役割を終えて消滅しました。
本品が制作された19世紀末から20世紀初頭には、自家用車を使う旅行者がいなかったのはもちろんのこと、ピレネーを越える公共交通機関も発達していませんでしたので、「コンフレリ・デ・ペルラン・ド・ノートル=ダム・ド・ロカマドゥール」が活動していました。この兄弟団もいまでは活動を終え、もはや存在しません。ロカマドゥールはいまでも大勢の人々が訪れる聖地ですが、かつてロカマドゥールで巡礼者を支えた兄弟団のスポルテルは、はるかに過ぎ去って二度と戻らない時代の証言となっています。