極希少品 フィリップ・シャンボー作大型メダイユ 《ゲツセマネの祈り 44.0 x 33.7 mm》 混沌の中で導きとなる信仰 両面鋳造による美術品 ソミュール、メダイユ工房ジ・バルム 1960年代


突出部分を含むサイズ 縦 44.0 x 横 33.7 mm  最大の厚さ 5.5 mm  重量 25.5 g



 宗教美術分野の高名な彫刻家フィリップ・シャンボーによる芸術メダイユ。およそ六十年前のフランスで作られ、未販売のまま残っていたヴィンテージ品です。未使用の新品ゆえに摩滅は全く見られず、細部まで制作当時のままの状態を保っています。





 イスカリオテのユダに裏切られて捕縛される直前、イエスは弟子たちと共にゲツセマネの園に行き、父なる神に捧げ給いました。「ヨハネによる福音書」は第十七章の全体に亙ってこの祈りを記録しています。本品の表裏にはゲツセマネの祈りの一部をフランス語で引用しています。内容は次の通りです。

  Père qu'ils soient un comme nous sommes un, afin que le monde croie.  父よ。我々が一つであるように、彼らもひとつになれますように。世の人々が信じるために。


 上の句の典拠は「ヨハネによる福音書」十七章二十一節で、メダイユの両面に収まるように要約されています。「ヨハネによる福音書」十七章二十一節のテキストを、ドイツ聖書協会のネストレ=アーラント二十六版及び新共同訳で示します。

     ἵνα πάντες ἓν ὦσιν, καθὼς σύ, πάτερ, ἐν ἐμοὶ κἀγὼ ἐν σοί, ἵνα καὶ αὐτοὶ ἐν ἡμῖν ὦσιν, ἵνα ὁ κόσμος πιστεύῃ ὅτι σύ με ἀπέστειλας.    父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。






 本品メダイユは十字架を模ります。イエスはペリゾーニウム(羅 PERIZONIUM 腰布)のみを身に着け、脚を揃えて両腕を真横に伸ばしておられます。両手首と両足に釘を打たれておられます。すなわち本品メダイユはクルシフィクスと同じ意味を有します。

 近現代に製作されたクルシフィクスは、ほとんどの作例において、十字架上で苦しみ、あるいは死に至ってぐったりと頭を垂れるイエスを表現します。しかしながらこのような表現が行われるようになったのは、ルネサンス以降のことです。我々が普段目にするクルシフィクスは大抵が近代以降に作られているゆえに、死刑の様子が写実的に表されているわけですが、本品はロマネスク風のクリストゥス・トリウンファーンス(羅 CHRISTUS TRIUMPHANS 勝利のキリスト)であり、あらゆる陰惨と対極にあります。





 我々近現代人は自然主義的描写を良しとする傾向があるゆえに、勝利のキリスト像を古拙な描写として退け、苦しむキリスト像、死せるキリスト像を十字架に取り付けるのを常とします。しかるに本品のイエスはその対極にあって、顔を上げ、まっすぐに前を見ておられます。

 キリストが受難されて終わったのでは、キリスト教は意味を喪います。キリストが死に勝利して復活し給うたからこそ、キリスト教が意味を持つのです。そのことを思い起こすとき、1960年代の作品でありながら勝利のキリストを表現した本品は、あるべき姿のクルシフィクスであることに思い至ります。





 キリストの足の左側(向かって右側)にあるペ・セ(PC)のモノグラムは、フランスの彫刻家フィリップ・シャンボー(Philippe Chambault, 1930 - )のサインです。キリストの足の右側(向かって左側)にあるジ・ベ(JB)のモノグラムは、ソミュールのメダイユ工房ジ・パルム(la société J. Balme)のマークです。

 フィリップ・シャンボーはジョルジュ・セラ(Georges Serraz, 1883 - 1964)のアトリエに入り、セラの仕事を手伝いながら研鑽を積みました。シャンボーの作品は具象彫刻に属しながらもミニマリスムの強い影響を受けて、宗教彫刻分野に独自の作風を確立しました。真の芸術家であったフィリップ・シャンボーにとって、まっすぐに前を向く磔刑のキリストは、単なる懐古趣味のロマネスク風作品ではなく、ロマネスクの復元でもありません。この作品は二十世紀に生み出された血統の芸術であり、いわば新しく生み出されたロマネスクといえましょう。





 メダイユのもう一方の面には十字架を立てて水に浮かぶ舟を浮き彫りにしています。背景に刻まれた言葉は、世の人々が信じるために、との意味です。

 諸民族の神話や説話において、水は混沌を象徴します。「創世記」第一章は天地創造を記述しますが、原初の世界はカオス(希 Χάος 混沌)であって、ただ水だけがありました。神は一日目に光を造り、二日目に空を造り、三日目に水と陸を分けることにより、原初のカオスを秩序付けました。

 神が秩序を与える以前、原初のカオス的世界が水に覆われていたとする考え方は、旧約聖書のみならず、日本神話を含む世界各地の神話に共通しています。人間の堕落によって穢れた世界が神によって再び水で覆われ、原初の状態に立ち戻ったとする洪水伝説も、世界のあらゆる民族に共通しています。死者が美しい彼岸に達する前に川を渡るとする信仰も、我が国を含め世界各地に分布します。死者が渡る川はカオス的混濁、迷蒙を表すと考えられます。





 共観福音書においても、イエスがガリラヤ湖上の舟から嵐を鎮め給うた出来事が記録されています(マタイ 8:23 - 27、マルコ 4: 35 - 41、ルカ 8:22 - 25)。またマタイ 14:22 - 33、マルコ 6:45 - 52、ヨハネ 6:15 - 21では、イエスがガリラヤ湖の水面を歩いておられます。水上歩行の際にはペトロも短いあいだ水面を歩きましたが、途中で怖くなって沈みかけ、イエスから「信仰の薄い者よ」と叱責されました。

 これらの故事は、死に勝利し給うクリストゥス・トリウンファーンスであるイエスが、神の治め給うコスモス(希 κόσμος 秩序ある世界)の王であることを表します。すなわち舟が浮かぶ湖水はカオスの象徴です。水も神の創造物ですから、実は驚くべき秩序、コスモス性を内に秘めています。具体例を挙げれば水分子の結合角は 104.5度であり、この分子が水素結合によって構成する液体の水は、正四面体が集合した構造を有します。しかしながらこのように微細な構造は見ることができません。液体の水を見る我々の目は、美しく見事な秩序がそこにあることを見抜けないのです。





 鎌倉時代の説話集「十訓抄」(じっきんしょう)に、「実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども、随縁真如の波立たぬ時なし」という有名な一節があります。実相は万物の真の姿のこと、無漏とは煩悩(漏)が無いということで、この句ではそれぞれに真の姿を持つ万物がこの世界を構成するさまを大海(おおうみ)に喩えています。

 この大海はあらゆる事物の実相が無漏であることの喩えであり、そこに五塵六欲の風は吹きませんから、一見したところカオスとは無関係に思えます。しかしながら事物の実相は、時雨西行の逸話にあるように、遊女の舞を見るというような出来事がきっかけとなって、この海に波が立った時にのみ垣間見えます。それゆえ実相無漏の大海とは、事物の実相が常人の目から隠されている普段の世の喩えであって、筆者がすぐ上に述べた化学的事実と同様の事柄を、古典文学のコンテクストで表現したものといえます。




 トマス・アクィナスは「スンマ・テオロギアエ」第一部第一問第五項「聖なる教えは他の諸学問よりも権威があるか」(羅 UTRUM SACRA DOCTRINA SIT DIGNIOR ALIIS SCIENTIIS)において、第一の異論に次のように回答しています。第一の異論とトマスの回答を示します。ラテン語テクストはレオニナ版、日本語訳は筆者(広川)によります。筆者の訳は正確ですが、トマスの文意を分かりやすく伝えるとともに、こなれた日本語となるように心掛けたため、逐語訳ではありません。文意を通りやすくするために補った語は、ブラケット [ ] で囲みました。
         
     第一の異論    
      Certitudo enim pertinet ad dignitatem scientiae. Sed aliae scientiae, de quarum principiis dubitari non potest, videntur esse certiores sacra doctrina, cujus principia, scilicet articuli fidei, dubitationem recipiunt. Aliae igitur scientiae videntur ista digniores.     諸学問の権威は確実性によって決まる。しかるに聖なる教え以外の諸学問の基礎が疑いを容れない[ほど確実]ならば、それら諸学問は聖なる教えよりも確実性があると思われる。聖なる教えの基礎、すなわち信仰の諸箇条は、疑う余地があるからである。それゆえ他の諸学問は聖なる教えよりも権威があると考えられる。
         
     トマスの回答    
      Ad primim ergo dicendum quod nihil prohibet ad quod est certius secundum naturam, esse quoad nos minus certum, propter debilitatem intellectus nostri, qui se habet ad manifestissima naturae sicut oculus noctuae ad lumen solis, sicut dicitur in II Metaphysicorum. Unde dubitatio quae accidit in aliquibus circa articulos fidei, non est propter incertitudinem rei, sed propter debilitatem intellectus humani. Et tamen minimum quod potest haberi de cognitione rerum altissimarum, desiderabilius est quam certissima cognitio quae habetur de minimis rebus, ut dicitur in XI de Animalibus.     第一の異論に対しては、次のように言われるべきである。本性においていっそう確実な[はずの]物事が、我々にとってはそれほど確実ではないというのはあり得ることである。それは我々の知性の弱さのためであって、フクロウの眼が太陽光に対して[見る力を持たない]のと同じように(「形而上学」二巻)、我々の知性も、本性的には最も明らかな事どもに対して、[それらを認識する力を持たないのである]。それゆえ諸々の信仰箇条をめぐる事柄について疑念が生じるとしても、それは信仰箇条の内容が不確実だからではなくて、人間の知性が弱いゆえである。しかしながら至高なる事どもに関し、極めて僅かな認識であっても得ることができるのであれば、そのような認識の方が、諸々の些末な事柄について得られる確実な認識よりも望ましいのである(「動物部分論」十一章)。


 トマスによると、人間の知性は神が如何なる方であるかを全く知ることはできません。しかしながらトマスによると、絶望的なまでに欠如した人間知性の認識能力は、信仰の光に助けを求めることができます。アウグスティヌスが「知解するために、私は信じる」(羅 credo ut intelligam.)と言ったのも、トマスと同じ態度です。

 本品において水の上に立つ十字架は、混沌を照らす信仰、上智の光を象徴します。イエスが真の王であられるとの事実は、信仰無き者には隠されています。しかしながら漁師ペトロのような常人、天才ではない普通の人であっても、信仰の光に照らされるならば、混沌に沈むことなく歩めるということを、本品メダイユの浮き彫りは示しています。





 本品メダイに刻まれたテキストの版について述べておきます。本品に刻まれた「ヨハネによる福音書」のフランス語テキストは、ラ・ビブル・マルタン(仏 la Bible Martin マルタン訳聖書)によります。ラ・ビブル・マルタンはフランス南西部ルヴェル(Revel)出身のプロテスタント神学者ダヴィッド・マルタン(David Martin, 1639 - 1721)の名を冠しています。

 フランスのユマニストであるオリヴェタン(Pierre Robert Olivétan, 1506 - 1538)は、1535年、ラ・ビブル・デ・マルチュル(仏 la Bible des Martyrs 殉教者聖書)を出版しました。これは原語から直接フランス語に訳された最初のプロテスタント聖書です。オリヴェタンと親類関係にあったジャン・カルヴァンはこの「殉教者聖書」を改訂し、1562年にラ・ビブル・ド・ジュネーヴ(仏 La Bible de Genève ジュネーヴ聖書)を出版しました。

 ダヴィッド・マルタンはワロン地域のプロテスタント教会会議の求めに応じてジュネーヴ聖書を改訂し、1707年にマルタン聖書が出版されました。マルタン聖書は 1712年に改訂された後、ダヴィッド・マルタン没後の 1736年から 1744年にかけて、バーゼルの牧師ピエール・ロック(Pierre Roques, 1685 - 1748)により再改訂されています。殉教者聖書、ジュネーヴ聖書、マルタン聖書と続くプロテスタントのフランス語訳聖書は、ヌーシャテルの牧師ジャン=フレデリック・オステルヴァルト(Jean-Frédéric Ostervald, 1663 - 1747)が 1744年に出版したラ・ビブル・ドステルヴァルト(仏 la Bible d'Ostervald オステルヴァルト聖書)によって完成します。オステルヴァルト聖書は何度も改訂されており、最新版は 2018年に出ています。


 近代語プロテスタント(仏 protestante)はラテン語の形式所相動詞プローテーストル(羅 PROTESTOR)の現在分詞に由来します。プローテーストルはテーストル(羅 TESTOR)に接頭辞プロー(羅 PRO-)を付した語ですが、テーストルは名詞テースティス(羅 TESTIS 証人)から派生した動詞で、証言する、誓言するという意味です。つまりプロテスタントは自分の信仰を堂々と誓言する人という意味です。

 聖書の文言はカトリックもプロテスタントも同じです。本品がプロテスタントのマルタン聖書を引用する理由は、表現が最も簡潔でメダイユの小さなスペーズに収まりやすいためと思われます。しかしながらプローテーストルの語源とともに、フランスのユグノーたちが宗教戦争時代に置かれた状況を思い起こすならば、カトリックであるとプロテスタントであるとを問わず、精神の自由と信仰のために生命をも賭した人々の長い歴史が、このメダイユに形象化されていることに気づきます。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもさらにひと回り大きなサイズに感じられます。

 メダイユの制作方法には鋳造と打刻の二種類があります。信心具のメダイユ、いわゆるメダイは打刻して作られる場合が多いですが、美術品としてのメダイユは常に鋳造されます。本品は打刻ではなく鋳造で制作されており、十分に美術品と呼べる水準の作品に仕上がっています。







 筆者(広川)はフランス製メダイユを愛好して、様々なメダユール(仏 médailleurs メダイユ彫刻家)の作品を長年に亙って取り扱ってきました。フランスはメダイユ彫刻がもっとも発達した国で、その頂点は十九世紀末から二十世紀初頭にあると筆者は考えます。しかしながらメダイユ制作のフランス的伝統は、これ以降の時代のメダユールにも確実に受け継がれています。二十世紀のフランスに出たメダユールのうち、フィリップ・シャンボーは最も優れた才能を持つ一人です。それゆえ筆者はこの芸術家に注目し、作品についてもある程度の知識がありますが、クルシフィクスを模るこの作品は本品によって初めて知りました。本品の在庫は一点のみで、再入荷はありません。

 本品はおよそ六十年以上前のフランスで制作された真正のヴィンテージ品ですが、珍しいことに未販売のまま新品の状態で残っていました。保存状態は極めて良好で、特筆すべき問題は何もありません。保存状態の良し悪しに関わらず、この作品が再入荷することは無いと思われ、お買い上げいただいた方には必ずご満足いただけます。

 下記は本体価格です。当店の商品は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払いでもご購入いただけます。ご遠慮なくご相談くださいませ。





本体価格 45,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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