真珠 その十一 北アメリカ産淡水真珠
les perles ― 11. Perles de l'eau douce de l'Amérique du Nord




(上) 十九世紀後半のアメリカで流行した淡水真珠探し。当時のエッチングより。


 現在我々が目にする淡水真珠はすべて養殖真珠です。しかしながら全ての貝は外套膜内に天然真珠を作る可能性があります。このうち美しい真珠層を持つものが真珠貝と呼ばれ、淡水ではイシガイ科及びカワシンジュガイ科の貝がこれに当たります。別稿で述べたように、これらの貝は新北区(北アメリカ)にも多数生息しています。ミシシッピ川流域は有史前の墳墓から天然淡水真珠が出土することがあり、マウンド・パールズ(英 mound pearls 墳墓真珠)と呼ばれます。古くからの天然淡水真珠産地としては、アイオワ州、アーカンソー州がよく知られています。

 本稿では十九世紀のアメリカ合衆国で起きたパール・フィーヴァーと、小規模ながら現在も行われているテネシー川の淡水真珠養殖について扱います。


【アメリカ合衆国で起きたパール・フィーヴァー】

 貝殻に宝石質の真珠層を形成する貝を真珠貝といいますが、真珠貝が実際に真珠を作ることは極めてまれであり、その割合は数万個体に一個ほどでしかありません。それゆえ北アメリカのイシガイ類、カワボタンガイ類が捕獲されるのは、貝殻から貝ボタンあるいは養殖真珠用の核を得るためであって、天然真珠を得るためではありません。しかしながら過去には天然真珠を得るために、人々が大挙して淡水二枚貝を乱獲したことがありました。この出来事をパール・フィーヴァー(英 the pearl fever)、またはゴールド・ラッシュになぞらえてパール・ラッシュ(英 the pearl rush)と呼んでいます。




(上) 淡水二枚貝から真珠を探す人たち。アーカンソーで二十世紀初頭に撮影された写真


 1857年、ニュージャージーの大工あるいは靴職人であったデイヴィッド・ハウアー David Hower 、またはダニエル・ハウエル Daniel Howell という男が、妻が作った貝料理を食べているときに、400グレイン(20グラム)近い重さの球形真珠を見つけました。この真珠はこれまでに見つかった天然淡水真珠のなかでも最大級のものであり、無瑕であれば 25000ドル以上、現在の貨幣価値に換算すれば数億円以上の値打ちがあったはずですが、ラードの中で加熱されたために真珠層が破壊されて輝きを失い、まったく無価値になっていました。しかしながらこの出来事によって淡水二枚貝から高価な真珠が見つかることが知れ渡り、ニュージャージーでは多数の人々が真珠探しに乗り出しました。

 料理の中から 400グレインの真珠が見つかって間もなく、ニュージャージー州北東部パタースン近郊のノッチ・ブルック(Notch Brook)という川で、当地の淡水二枚貝の中から、ジェイコブ・クアッケンブッシュ(Jacob Quackenbush)という名前の大工が重さ 93グレイン(4.65グラム、23.25カラット)の真珠を見つけました。クンツとスティーヴンスンの「ザ・ブック・オヴ・ザ・パール」("The Book of the Pearl", 1908)によると、真珠は完璧な球形で、色はピンクであり、素晴らしい照りを有していました。大工は真珠をニューヨークのティファニー宝石店に持ち込み、同店の創業者チャールズ・ルイス・ティファニー(Charles Lewis Tiffany, 1812 - 1902)はこれを 1500ドルで買い取りました。後にパタースン・パール(英 The Paterson Pearl)という名で知られることになる真珠はパリに送られ、すぐに 12,500フラン(約 2500ドル)で売れました。パタースン・パールはフランス人宝石商によってナポレオン三世の皇妃ウジェニー(Eugénie de Montijo, 1826 - 1920)に売却され、クイーン・パール(Queen Pearl)とも呼ばれるようになりました(註1)。




(上) クィーン・パール(パタースン・パール)と考えられるエヴァンズ・コレクションのピン © Royal Ontario Museum


 クィーン・パール(パタースン・パール)はウジェニーから友人のアメリカ人歯科医師トーマス・エヴァンズ博士(註2)に贈られましたが、以後は所在不明になっていました。エヴァンズ医師は数点の真珠をペンシルヴェニア大学歯学部に寄贈しています。1999年と 2000年に、このコレクションの中からクイーン・パールの探索が行われましたが、見つかりませんでした。エヴァンズ・コレクションの一部はスミソニアン博物館の一部門であるクーパー・ヒューイット美術館(the Cooper-Hewitt Museum, New York)に買い取られましたが、クイーン・パールはこの中からも見つかりませんでした。しかしながらクーパー・ヒューイット美術館のコレクションにはバロック真珠付きのピンが含まれており、この真珠がピンクの優れた照りを有するゆえに、これこそクイーン・パールなのではないかとする意見が浮上しました。エヴァンズ・コレクションの真珠は「ザ・ブック・オヴ・ザ・パール」が言うような球形ではありませんが、クンツとスティーヴンスンは真珠の実物を見ておらず、この部分を他の資料に基づいて記述しています。問題の真珠は宝石細工の蛇に取り囲まれていましたが、蛇から真珠を外して重量を量ったところ、まさに 93グレインでした。それゆえこの真珠こそ、ティファニーを経由して皇妃ウジェニーに売却されたパタースン・パール、別名クイーン・パールであると考えられています。

 1500ドルという買い取り価格は、当時の貨幣価値が現代の三十倍とすると五百万円以上、六十倍ならば一千万円以上になります。これは天然真珠の値段としては安すぎますが、それでも庶民にとって大金であることに変わりはありません。大工のクアッケンブッシュ氏が真珠で大金を手にしたのを見て、数百人の人々がノッチ・ブルックで貝を集め始めました。地元の新聞がパール・フィーヴァーと名付けたこの動きはノッチ・ブルックから近くの川へ、さらに遠い各地の川へと波及し、淡水二枚貝はほぼ採り尽くされてしまいました。


 ボタンの原料貝としてはシロチョウガイが有名ですが、1890年代になってオーストラリア産シロチョウガイに高率の関税が課せられ、輸入が難しくなりました。代替材料が探された結果、淡水産二枚貝の殻がシロチョウガイに勝るとも劣らず美しいボタンになることがわかりました。アイオワ州マスカティン(Muscatine, IA)はミシシッピ川を挟んでイリノイ州との州境にあります。1894年、ドイツ出身のベップル(John Frederick Boepple)という人物が、この町で淡水二枚貝を使った貝ボタン製造を始めました。マスカティンでは今日まで引き続いて貝ボタンが作られています。

 アメリカの淡水二枚貝はあこや真珠の核としても好適で、日本向けに大量に輸出されました。あこや真珠の核は日本国内で球形に整形されていますが、原料となっているのはミシシッピ産の淡水二枚貝です。これらの産業もミシシッピ産淡水二枚貝に打撃を与え、いくつかの種は絶滅の危機に瀕しています。


【アメリカの淡水養殖真珠】

 淡水真珠の養殖は日本で始まりましたが、わが国における淡水養殖真珠は現在ではほぼ壊滅し、現在では中国が商業規模で淡水真珠を生産する唯一の国となっています。日本を含めて考えても、淡水真珠の養殖はアジアでのみ行われています。しかし北アメリカではただ一か所、専ら観光客相手の小規模施設ながら、テネシー川(註3)で淡水真珠が養殖されています。

 ジョン・ロバート・ラタンドレス氏(John Robert Latendresse, 1925 – 2000) は 1954年に日本向け核用貝殻の輸出会社、1961年に日本製養殖真珠の輸入会社を設立した後、1963年にアメリカ初の淡水真珠養殖実験場を作りました。養殖はなかなかうまくゆきませんでしたが、1970年代後半に養殖技術が確立すると更に四か所の養殖場を開き、多様な形の養殖真珠を世に送り出しました。ラタンドレス氏の事業は家族に引き継がれ、1982年にケンタッキー湖(註4)のバードソング・クリークに開設された真珠養殖場は、現在もアメリカン・パール・カンパニー(the American Pearl Company)により存続しています。

 テネシー川の養殖真珠はほとんどのものが銀白色で、色が付いたものは全体の二パーセントほどしかありません。使用される真珠貝は主にメガロナイアス・ネルヴォーサ(Megalonaias nervosa)です。ヒラツバサカワボタン(学名 Potamilus alatus 英名 pink heelsplitter)は紫色の真珠層を有し、この貝にブリスター・パール(英 blister pearls 貝殻に付着した半円真珠)を作らせると、殻と同じく美しい紫色の真珠ができます。


註1 この時代の記録にありがちなことだが、400グレインの真珠と 93グレインの真珠のどちらが先に見つかったのか、それぞれの発見者は誰であるのか、93グレインの真珠は幾らで買い取られたのかといった事柄について情報は錯綜しており、いまとなっては事実を正確に確かめることが出来ない。ここに紹介した出来事の大筋は、「ザ・ブック・オヴ・ザ・パール」("The Book of the Pearl", 1908)の記述による。

註2 普仏戦争でナポレオン三世が捕虜になった際、皇妃ウジェニーは摂政として夫の代理を務めた。パリ・コミューンの混乱の中、息子を連れてチュイルリー宮を脱出したウジェニーは、家族ぐるみで親交のあったフィラデルフィア出身のトーマス・エヴァンズ歯科医師宅に避難した。翌日、皇妃ともうひとりの貴婦人(Mme Lebreton)はエヴァンズ夫人の服を借りて患者に変装し、息子を連れてパリを脱出することができた。

註3 ミシシッピ川には数多くの支流があり、テネシー川もそのひとつ。

註4 ケンタッキー湖はテネシー川がオハイオ川と合流する直前にあるダム湖で、1944年にケンタッキー・ダムができたことで形成された。



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