ギリシア哲学における球
la sphère dans la philosophie grecque



 古代ギリシアの哲学において、球の表象はパルメニデスとプラトンの思想に現れます。哲学の論議に出てくる球が、美術作品において象徴的役割を果たすことはほとんどありませんが、パルメニデスとプラトンはどちらも古代ギリシア哲学で非常に重要な位置を占める哲学者ですので、ここに取り上げて解説します。


序論 哲学とはどのような学問か

 大多数の人々は日常を無反省に生きていて、「身の周りの世界は、感じられる通りの在り方で存在している」と、何となく考えています。このような立場を「素朴実在論」といいます。

 しかしながら素朴実在論に基づく判断は、誤っている場合が多々あります。たとえば海で泳いでいる夢を見たとして、その夢を見ているあいだ、我々は自分が海水に浸かっていると信じているわけですが、実際のところそれは単なる夢であって、目が覚めればいつもの部屋でいつものベッドに寝ていたことに気が付きます。しかしながら目が覚めたと思っても、夢の中でそう思っているだけかもしれません。夢を見ている間、我々は大抵の場合、それが夢であることにまったく気付いていないからです。ですから自分が覚醒していると信じていても、その判断がどれほど正しいかは大いに疑問です。夢の例が論拠として弱いと感じられるならば、コウモリの感覚について考えるのが良いでしょう。コウモリがエコロケーションによって得る外界の観念は、視覚によって得られる外界の観念とは全く異なるはずです。コウモリを持ち出さずに、議論の範囲を人間に限定するとしても、インマヌエル・カントが気付いたように、人間の悟性は固有のシェーマ(独 Schema 図式)を通さずに外界の表象を得ることができません。換言すれば、あるがままの「ディンク・アン・ジッヒ」(独 Ding an sich 物自体)を人間の知性が直接的に捉えることは、原理的に不可能です(註1)。トマス・アクィナスは人間の知性が神の属性を全く捉えられないと書きましたが(S. Th. Ia q.12 "Quomodo Deus a nobis cognoscatur")、人間の知性は神を捉えられないどころか、身の周りにある可感的事物をあるがままに捉えることさえできないのです(註2)。

 そもそも判断が「正しい」とは、どういうことでしょうか。「正しい」とされる物事を、正しいものであらしめる「正しさ」の本質とは何でしょうか。また「正しく在る」という場合に、「在る」とはどういうことでしょうか。このように極めて根本的な事柄について究明しようとする学問分野を、「フィロソフィア」といいます。「フィロソフィア」(希 φιλοσοφία)はギリシア語で「知を愛する営み」「愛知」という意味ですが、わが国では西周(にし あまね 1829 - 1897)による「哲学」の訳語が定着しています。

 考察すべき事柄がこれほどまでに根本的な水準に到れば、行動を始める前にすべての考察を行おうとするのは現実的ではありません。それゆえ日常生活においても、哲学以外の学問分野においても、たとえば「『在る』とはどういうことか」「在る物を在らしめているのは何か」というような事柄については、そのような根本問題があることを全く無視し、何も考えずに無反省な態度で、いきなりこれ以降の段階の話をするのが良いとされています。しかしこれは、哲学者の眼から見れば、砂上に楼閣を築くことにほかなりません。


1. パルメニデスの哲学における球状の有

 紀元前八世紀頃から紀元前三世紀初頭にかけて、イタリア半島の最南部とシチリア島に多数のギリシア人が居住し、ギリシア語を話す文化圏が存在していました。当時、この地方はギリシア語で「メガレー・ヘッラス」(Μεγάλη Ἑλλάς)、ラテン語で「マグナ・グラエキア」(MAGNA GRÆCIA)と呼ばれていました。いずれも「大ギリシア」という意味です。「メガレー・ヘッラス」を構成するギリシア植民市のひとつにエレア(Ἐλέα)がありました。エレアはティレニア海に面した町で、アマルフィ海岸の少し南、現在の小村ヴェリア(Velia カンパニア州サレルノ県)に当たります。

 哲学者パルメニデス(Παρμενίδης ὁ Ἐλεάτης)は紀元前六世紀にエレアに生まれ、次の世紀にかけて活躍しました。パルメニデスと、二十五歳ほど年下の弟子であるエレアのゼノン(Ζήνων Έλεάτης)に、エレアから離れたサモス島出身のメリッソス(Μέλισσος ὁ Σάμιος)を加えて、エレア派と呼んでいます。パルメニデスはエレア派の始祖です。

 始祖パルメニデスをはじめ、エレア派全体に共通する特徴は、感覚によって観察される事柄を信用せず、あくまでも論理的思考のみによって真理を探究したことです。パルメニデスは「有(ゆう 在る物)は在り、無(在らざる物)は在らず」と主張しました。これは無意味な同語反復ではなく、デカルトの「コギトー・エルゴー・スム」にも似て、最も確実な事柄にのみ思考の基礎を置こうとする真摯な試みです。

 パルメニデスの著作は断片として残っており、ヘルマン・ディールスとヴァルター・クランツの「ソクラテス前哲学者断片集」(Diels-Kranz, „Die Fragmente der Vorsokratiker“)に収められています。同書 28 B 8は最もよく保存されたパルメニデスの断片で、この箇所によると、「有」の属性に関するパルメニデスの思想は次のように要約できます。

 パルメニデスによると、有(ゆう)だけが在ります。存在するのは有(ゆう)のみであって、無が存在しているという事態は起こり得ません。したがって生成消滅や運動は起こり得ません。なぜなら生成とは無から有が生じること、消滅とは有が無になることですが、有と無は厳然として異なるのであり、有が無になったり、無が有になったりすることは考えられないからです。運動に関しても同様に考えることができます。また「無は存在しない」ということから、有の多数性も否定されます。なぜならば、もしも多数の物が在ろうとすれば、物と物を分け隔てるケノン(希 κενόν 虚空、空虚)が在ることになります。しかしながらケノンは無ですから、存在することができません。したがって多数の物を互いに隔てるケノンは存在し得ず、有の多数性は否定されます。以上のような論理にしたがってパルメニデスが導き出した有は、全方向に向かって均質に充実した不変不動のただ一つの物であり、巨大な球体として表象されます。

 パルメニデス以前のギリシア思想は、物が見た目通りに存在することを疑いませんでした。しかるにパルメニデスは、おそらく人類史上で初めて、素朴実在論を拒否しました。それゆえパルメニデスは哲学が哲学であるための礎を築いた人であり、これ以降に興ったすべての哲学の父であるさえといえます。さらにゼノンに受け継がれたパルメニデスの思想は、ミレトス派からの反論という形で、アトム(原子)論を引き出しました。アトムの概念は、物理学、化学、生物学、天文学をはじめとする近代諸科学の基礎ですが、このアトム論自体、パルメニデスがいなければ生まれませんでした。(註3)

 エレア派の主張は、一見したところ荒唐無稽であり、無益な衒学に過ぎないようにも思えます。しかしながらパルメニデスをはじめとするエレア派は、理性にのみ従うことで確実な真理に到達しようと真摯に試みたのであって、その思想的営為はフィロソフィア(愛知)の鑑(かがみ)と呼ばれるに値します。エレア派の始祖パルメニデスの哲学が有するデュナミス(潜在的な力)は巨大であり、その業績はいくら高く評価しても評価しすぎることはありません。(註4)


2. プラトンにおける球形の宇宙(「ティマイオス」 34B)

 プラトンの「ティマイオス」("TIMAEUS")は宇宙論をその内容とします。「ティマイオス」において、プラトンは善良な造物主デーミウールゴス(希 δημιουργός)を措定し、デーミウールゴスは宇宙ができるだけ完全で良いものになるように創造したと考えました。魂を有する状態と有さない状態を比べると、前者の方が優れているという判断に基づき、プラトンは宇宙を魂を持つものと考えました。プラトンによると、デーミウールゴスは魂を持つもの(すなわち生き物)に似せてこの宇宙を創りました。

 「ティマイオス」 33 b.の記述によると、生き物として創られた宇宙は、そのうちにあらゆる形態の生き物を有します。それゆえ宇宙にふさわしい形はあらゆる形態を包含する形であり、これは球に他なりません。また相似性は非相似性とは比べ物にならないくらいに美しい性質です。しかるに球はもっとも完全な形であり、相似性においても卓越しています。これらの理由により、デーミウールゴスは宇宙を球形に創造したのでした。

 プラトンは「パイドン」("PHAEDO")において扱った問題、すなわち完全に近い宇宙の在り方とはどのような宇宙であるかという問題を、「ティマイオス」で詳しく論じています。「ティマイオス」の記述によると、デーミウールゴスが創造した宇宙は魂と知性を有し、永続する善き宇宙です。プラトンはこの少し後の箇所("TIMAEUS" 34 b.)で、デーミウールゴスは「宇宙を幸福な神として創った」(εὐδαίμονα θεὸν αὐτὸν ἐγεννήσατο)と書いています。

 プラトンの思想とそれを受け継ぐ新プラトン主義は、ルネサンス期以降、フィレンツェを中心として西ヨーロッパに復活し、多数の信奉者を集めました。宇宙が球形であるという「ティマイオス」の思想も、天界を球形のものと表象する「天球」のイメージを補強しました。


3. プラトンが記述する球形人間(「饗宴」 189 c. - 193 d.)

 プラトンの対話篇「シュンポシオン」("SYMPOSIUM" 饗宴)は、エロース(希 ἔρως 恋、性愛)を主要なテーマとします。プラトンはこの対話篇において、登場人物のひとりであるアリストパネスに、原初の人間は二人が腹側で癒着あるいは融合した球形人間であった、との説を語らせています。

 恋する者はその恋人と一体になってはじめて満たされた気持ち、すなわち欠けるところがなくなったという気持ちになります。「饗宴」におけるアリストパネスの説によると、恋人たちがこのように感じる根源的な理由は、原初の人間の姿にあります。すなわち原初の人間はふたりが抱き合うように癒着し、球形に近い姿をしていて、歩くのではなく、曲芸師のように転がって移動していました。頭部は後頭部で融合しており、ふたつの顔は互いに反対側(外側すなわち背中側)を向いていました。これら球形人間には、男女が癒着した人、男同士が癒着した人、女同士が癒着した人の三種類があり、男同士が合わさった人は太陽に、女同士が合わさった人は地球に、アンドロギュノス(希 ἀνδρόγυνος おとこおんな 男女同体の人)は月に由来(註5)していました。彼らの球状の体型は、これらの天体がいずれも球体であることによります。

 球形人間たちは非常に高い能力を有していたので、オリュンポスの神々に加わろうと試みました。彼らの望みは許されることではありませんでしたが、ゼウスは人間を滅ぼすことを望みませんでした。なぜならば、もしも人間が滅びれば、神々を礼拝する者もいなくなるからです。しかるに彼らをひとりずつに分割すれば、人間の力は弱まるし、礼拝者の数も倍増して好都合です。

 そこでゼウスは球形人間たちの体を縦に切断し、背中の皮を引っ張って腹の切断面を被い、頭部を腹側に向かせて、現在の人間の姿としました。それ以来、人間は恋人と一体にならなければ本来の満ち足りた状態に戻ることが出なくなりました。球形人間であった原初の時代に、男女が融合していた人の子孫は異性の恋人を求め、同性同士で融合していた人の子孫は同性の恋人を求めるのだと、プラトンはアリストパネスに語らせています。




註1 宇宙物理学の知見によると宇宙は十三次元ですが、人間が直観できるのは四次元までです。悟性はシェーマを通してしか働くことができませんが、悟性のシェーマは四次元までにしか対応していないからです。

 人間の知性が原理的に有する認識能力の限界は、生物が光を感じる感覚の能力に譬えて説明することができます。高等な動物のカメラ眼は、明暗のみならず、形と運動を捉えることができます。カメラ眼を並べれば遠近を捉えることもできますし、三原色に反応するフォトプシンがあれば「天然色」を捉えることができます。

 いっぽうユーグレナには明暗しかわかりません。人間がスライドグラスにユーグレナを載せて顕微鏡で覗くとします。この場合ユーグレナには、「人間が自分をスライドグラスに載せて顕微鏡で覗いている」ということは分かりません。顕微鏡の形も見えないし、人間が着ている服の色も見えません。ただ明暗が分かるだけです。

 人間の知性はユーグレナの眼点に譬えることができます。ヒトにとって、宇宙には明暗、形、運動、遠近、色があります。しかるにユーグレナの眼点は、ヒトと同じ宇宙にありながら、明暗しか認識できません。人間の知性についても、これとまったく同じことがいえます。宇宙には十三の次元があります。しかるに人間の知性は、十三次元の宇宙にありながら、三次元ないし四次元までしか認識できないのです。


註2 人間の知性は、可感的事物に関しても、個々の物をあるがままに捉えることができません。この事実について最も体系的、網羅的に論じたのはインマヌエル・カントですが、トマス・アクィナスもカントより先に、同じことに気付いていました。

 「神学大全」第一部八十六問一項「人間の知性は個物を認識するか」(S. Th. Ia q. 86 art. 1, "Utrum intellectus noster cognoscat singularia")において、トマスはアリストテレス「デ・アニマ」第三巻を典拠として引用し、「それゆえ[人間の知性は]普遍をば可知的形相を通して直接的に知解する。しかるにファンタスマの元となる諸々の個物については、[人間の知性は]これらを間接的に知解する」(Sic igitur ipsum universale per speciem intelligibilem directe intelligit; indirecte autem singularia, quorum sunt phantasmata. - Respondeo, ibid.)と書いています。つまり人間の知性は個物を直接捉えることができないのであって、これをカントの言葉に直すと、悟性は物自体を捉えることができない、ということです。トマスの「可知的形相」(spicies intelligibilis)は、カントの言葉で言えば、悟性の先験的形式である範疇によって捉えられるもののことです。


註3 パルメニデスの弟子ゼノンは、背理法を用いた次のような論拠に基づき、ケノンの存在と物の多数性を否定しました。

      もしもケノンが存在し、ケノンによって分け隔てられた複数の物体が存在すると仮定しよう。その場合、ひとつひとつの物体は、ケノンによって無限の回数分割することができよう。
      しかるに無限の回数分割された結果として得られた物が、或る大きさを持つとすれば、元の物体は無限大であったことになる。なぜならばいくら小さな物であっても、無限の個数を集めれば無限大となるからである。しかるに無限大の物体が複数個存在すると考えるのは背理である。
      一方、無限の回数分割された結果、物体が無になるとすれば、元の物体も無であったことになる。なぜならは無限の回数分割されて生じた無を無限の個数ぶん集めても、やはり無だからである。
      それゆえケノンは存在しない。またケノンによって分け隔てられた複数の物体も存在しない。

 エレア派のこのような主張を受け、反定立として考え出されたのが、レウキッポス(Λεύκιππος)とデモクリトス(Δημόκριτος)のアトム論です。アトム論は、ケノンは存在するという主張、また物体を無限の回数分割することはできず、最後は「それ以上分割できない物」(ἄτομος アトム)に到達するという主張を、その骨子としています。


註4 素朴実在論の立場からすれば、この世界では、固有の本性を有する様々な事物が、日々生成消滅しているように思えます。エレア派はこれに異を唱え、「無から有は生じない」という命題が常に真であると考えることで、事物の生成消滅を否定しました。すなわち事物が存在することを認め、且つ無から有は生じないとすれば、存在する事物(有)はその論理的帰結において、「全方向に向かって均質に充実した、不変不動にしてただ一つの巨大な球体」とならざるを得ません。

 しかるに「恒常不変の本性を有する物が、無から生じることはない」と考えつつも、事物の生成消滅を否定し難い事実として受け容れるならば、エレア派とは正反対の論理的結論が得られます。すなわちこの世界に存在する事物(有)は恒常不変の本性を持たず、偶有的条件に依拠して一時的に存在しているだけです。条件が変われば、事物(有)はいとも簡単に消滅します。事物の本性は「空」(くう)に他なりません。

 これは「すべての有は非存在である」、「恒常不変の本性(固有の本性)を持つ有は無い」という主張であり、さらには「互いに異なるように見える二つの有は、いずれも空であるから、二つの有の本性を区別することはできない」という主張に繋がります。これは「八千頌般若経」(はっせんじゅはんにゃきょう)に説かれている考え方です。悪人も含め、すべての有情(うじょう 動物)を輪廻の苦しみから解放する阿弥陀仏の救済は、この思想によって可能となります。


註5 月は豊穣と多産性の源ですから、男女の組み合わせの源として如何にもふさわしいといえます。



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