サー・トーマス・ローレンス Sir Thomas Lawrence, 1769 - 1830



(上) 自画像 "Self-Portrait", 1790's. Charcoal on paper, 20 x 16 cm, The Ashmolean Museum, Oxford


 サー・トーマス・ローレンス (Sir Thomas Lawrence, 1769 - 1830) は同時代のヨーロッパにおいて最も高名な画家のひとりであり、並ぶ者なき最高の肖像画家として、ヨーロッパ中の宮廷で活躍しました。


【サー・トーマス・ローレンスの生涯】

 トーマス・ローレンスは 1769年4月13日、サウス・ウェスト・イングランドの港町ブリストル (Bristol) に、16人きょうだいの一人として生まれました。父親はトーマスが生まれてすぐにイン(宿屋)とコーヒーハウスの経営を始めましたが、事業はうまくゆきませんでした。1773年、一家はブリストルよりも少し内陸の街道沿いの町ディヴァイジズ (Devizes) に移り、父はここで再びインの経営を始めました。トーマス少年はわずか二年しか学校に行きませんでしたが、ディヴァイジズのインでは宿泊客の注文に応じて見事な似顔絵を描いたり詩を暗唱したりし、その才能は人々の注目を集めました。一方インの経営はうまくゆかず、1779年、父は破産を宣告されて、一家はブリストル近郊の温泉地バース (Bath) に移ります。

 トーマス少年は有料で肖像画を描くプロの画家として活動を始め、一家にとって貴重な稼ぎ手となりました。バースにおいて、トーマス少年は上流階級に属する多くの顧客の肖像画を制作し、なかにはイタリア留学の費用負担を申し出る人もありました。(註1) またラファエロの模写を評価されて、ロンドンの王立芸術協会(the Royal Society of Arts 註2) から賞を受けています。

 トーマス少年は 1787年、17歳のときにロンドンに出、18世紀ヨーロッパにおける最高の肖像画家のひとり、サー・ジョシュア・レイノルズ (Sir Joshua Reynolds, RA, FRS, FRSA, 1723 - 1792) の知己を得ます。翌 1788年、王立美術アカデミー(The Royal Academy of Arts 註3)の展覧会に肖像画六点、1789年の展覧会に肖像画十三点を出品し、高い評価を得ます。この年、トーマスは弱冠二十歳にして王室からの注文を獲得し、王妃シャーロット(註4)とその末子アミリア王女の肖像を描きます。


(下) "The Princess Amelia" Sir T. Lawrence PRA pinxit, R. Graves ARA sculpsit 1860年代のスティール・エングレーヴィング 当店の商品です。




 1791年、22歳のトーマスは王立アカデミーの準会員に選ばれ、翌 1792年にはこの年死去したサー・ジョシュア・レイノルズの跡を襲って国王の御用画家に任命されました。1794年には王立アカデミーの正会員となっています。

 1797年に両親が亡くなると、トーマスはロンドンで両親を住まわせていた家を仕事場に改装し、ウィリアム・エティ (William Etty, 1787 - 1849) をはじめとする弟子たちに作品の模写を制作させて、複製の注文に応じました。トーマスに肖像画を注文する人は引きも切らず、貴族や貴婦人が自身の肖像を注文しただけでなく、国王自身も王太子妃キャロライン (Caroline of Brunswick-Wolfenbüttel, 1768 - 1821) とその娘であるシャーロット王女 (Princess Charlotte of Wales, 1796 - 1821) の肖像画を発注しています。


(下) 「エリザベス・ファレンの肖像」 "Elisabeth Farren, Later Countess of Derby", Oil on canvas. 238.8 x 146.1 cm, Bequest of Edward S. Harkness, 1940, Metropolitan Museum of Art, New York




 1810年代の半ば、トーマスは摂政王太子ジョージ(後の国王ジョージ四世)の知遇を得ます。王太子は自身の肖像画制作を発注するだけでなく、幾人もの注文主を紹介し、トーマスの最大の庇護者となります。王太子はトーマスを海外の宮廷にも紹介し、アーヘン及びウィーン会議開催中のウィーンを訪れて、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公、ロシア皇帝アレクサンデル一世、オーストリア皇帝フランツ一世、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム三世等の肖像を描きました。このときの作品群はウィンザー城の「ウォータールー・チェインバー」(The Waterloo Chamber ワーテルローの間)に飾られています。ウィーン会議の君主と指導者たちを描き終えたトーマスは、次にローマに赴き、教皇ピウス七世とコンサルヴィ枢機卿を描きました。

 1820年3月、王立アカデミー会長の画家ベンジャミン・ウェスト (Benjamin West, RA, 1738 - 1820) が亡くなった直後に帰国したトーマス・ローレンスは、新会長に選出されました。また1822年2月には王立協会のフェロー (Fellow of the Royal Society, FRS) に選ばれています。

 トーマス・ローレンスがロンドンにやってきたときの国王ジョージ三世は 1820年1月に薨去しており、同月、トーマスのパトロンである王太子ジョージが新国王ジョージ四世として戴冠しました。ジョージ四世は 1830年6月に薨去しますが、在位中には妹ソフィア王女、サー・ウォルター・スコット、ジェイン・オースティン、フランス国王シャルル十世の肖像画をトーマス・ローレンスに発注しています。

 トーマス・ローレンスは、晩年に当たる1820年代に、子供を描いた重要な作品を二点制作しています。ひとつはデヴォン地方長官チャールズ・.カルマディの幼い令嬢たち、エミリーとローラ・アンを描いた「カルマディの子どもたち」("The Camaldy Children", 1823) で、トーマス・ローレンスはこの作品を自身の最高傑作と考え、この作品によって後世に記憶されたい、との言葉を残しています。


(下) 「カルマディの子どもたち」 "The Calmady Children", 1823. Oil on canvas. 78.4 x 76.5 cm. Bequest of Collis P. Huntington, 1900, Metropolitan Museum of Art, New York




 子供を描いたこの時期のもう一点は、初代ダラム伯の令息チャールズ・ウィリアム・ラムトンを描いた「赤の少年」("The Red Boy", 1825) です。この作品は 1827年にパリで展示されて好評を博しました。


(下) 「赤の少年」 "The Red Boy", 1825, private collection




 1830年1月7日、数日前から胸の痛みを感じつつも仕事を続けていたトーマス・ローレンスは、訪問してきた友人たちの目の前で突然倒れ、手当の甲斐もなく亡くなりました。葬儀には J. M. W. ターナーらが参列し、トーマスの遺体はセイント・ポール主教座聖堂のクリプトに埋葬されました。


【作品を収蔵する美術館など】

 トーマス・ローレンスの作品を最も多く収蔵するのは、イギリス王室のコレクション、及びロンドンのナショナル・ポートレイト・ギャラリー(ナショナル・ギャラリーの別館)です。




(上) 「レイディ・マリア・カニンガムの肖像」 "the portrait of Lady Harriet Maria Conyngham", c. 1824 - 25, Oil on canvas, 92.1 x 71.8 cm, Gift of Jessie Woolworth Donahue, 1955, Metropolitan Museum of Art, New York


 トーマス・ローレンスは故国イギリスよりもアメリカ合衆国やフランスでいっそう高く評価された時期があり、このため、「エリザベス・ファレンの肖像」("the portrait of Elizabeth Farren", c. 1790)、「カルマディの子どもたち」("The Calmady Children", 1823)、「レイディ・マリア・コニンガムの肖像」("the portrait of Lady Harriet Maria Conyngham", c. 1824 - 25) はいずれもニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されています。また「ピンキー」("Pinkie", c. 1794) はカリフォルニア州サン・マリノのハンチントン・ライブラリーに収蔵されています。パリのルーヴル美術館にもいくつかの作品があります。

 「赤の少年」("The Red Boy", 1825) は個人蔵で、現在の所在は不明です。


(下) 「ピンキー」(セアラ・モウルトンの肖像) "Pinkie, or the portrait of Sarah Goodin Barrett Moulton", c. 1794, Oil on canvas, 146 x 100 cm, Huntington Library, San Marino, California






註1 この時のイタリア留学は、まだ幼いトーマスをイタリアに送ることを父が心配したため、実現しませんでした。

註2 王立芸術協会 (the Royal Society of Arts, RSA) は 1754年に設立され、1847年に勅許を得ました。設立当初は美術工芸の振興を目的としていましたが、現在では自然科学分野の研究者を含む学際的な組織となっています。スティーヴン・ホーキング教授は RSAの会員です。

註3 王立美術アカデミー (The Royal Academy of Arts, RA) は、いずれも王立芸術協会の初期会員であるサー・ジョシュア・レノルズとサー・トーマス・ゲインズバラ (Sir Thomas Gainsborough, FRSA, 1727 - 1788) によって、1768年に設立されました。

註4 イギリス国王ジョージ三世の王妃シャーロット (Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz, 1744 - 1818) は、プロシアのルイーゼ王妃 (Luise von Mecklenburg-Strelitz, 1776 - 1810) のおばに当たります。




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