リチャード・ダッド
Richard Dadd, 1817 - 1886




(上) Richard Dadd, "Puck and the fairies" (details), an intaglio by W. M. Lizars, diameter 210 mm, 1864 当店の商品です。


 リチャード・ダッド(Richard Dadd, 1817 - 1886)は十九世紀イギリスの才能豊かな画家で、歴史画、オリエンタリズム絵画の他、妖精をはじめとする超自然的存在を描いた作品で知られています。


《リチャード・ダッドの生涯》

 リチャード・ダッドは 1817年8月1日、イングランド南東部、ケント州のチャタム(Chatham)に、七人きょうだいの第四子として生まれました。リチャードが十八歳であった 1834年、一家はロンドンのペルメルに引っ越し、父はブロンズ像の工房で彫刻師として働き始めました。このせいで一家は芸術家たち、顧客たちと日常的に接することになります。

 1837年12月、リチャードは二十歳で王立アカデミー美術学校に入学しました。美術学校時代のリチャード・ダッドは、ジョン・フィリップ(John Phillip, 1817 - 1867)、ウィリアム・パウエル・フリス(William Powell Frith, 1819 - 1909)、オーガスタス・エッグ(Augustus Leopold Egg RA, 1816 - 1863)、ヘンリー・ネルソン・オニール(Henry Nelson O'Neil ARA, 1817 - 1880)、アルフレッド・エルモア(Alfred Elmore RA, 1815 - 1881)、エドワード・マシュー・ウォード(Edward Matthew Ward RA, 1816 - 1879)、トーマス・ジョイ(Thomas Musgrave Joy, 1812 - 1866)、ウィリアム・ベル・スコット(William Bell Scott, 1811 - 1890)と親交を深めました。彼らはいずれも風俗画や歴史画の分野で知られるようになる画家たちで、「ザ・クリーク」(英 TheClique 「徒党」というほどの意味)と名乗るグループを作り、リチャード・ダッドの部屋にたびたび集まりました。

 リチャード・ダッドは王立アカデミー美術学校在学中に三度、素描を評価されて銀メダルを獲得しています。リチャード・ダッドは妖精画及びシェイクスピアに基づく作品が最もよく知られていますが、シェイクスピアに真剣に取り組み始めたのは、王立アカデミー美術学校在学中の 1840年ないし 1841年です。リチャード・ダッドによる初期の名画として高く評価されている作品に、シェイクスピアの「ザ・テンペスト」(The Tempest 「嵐」)に取材した「この黄色い砂浜に来て」(Come Unto These Yellow Sands)がありますが、リチャード・ダッドは 1842年の王立アカデミー夏期展覧会で、この作品の最初のヴァージョンを発表しています。




(上) Richard Dadd, "Come Unto These Yellow Sands"


 「ジ・アート・ジャーナル」(The Art Journalの編集者サミュエル・カーター・ホール(Samuel Carter Hall, 1800 - 1889)は、「ザ・クリーク」の活動を支持し、彼らの作品を同誌で紹介するとともに、好意的批評を掲載しました。サミュエル・カーター・ホールは自著「英国バラード集」(Book of British Ballads, London: Jeremiah How/Vizetelly Brothers and Co., 1842)の挿絵をリチャード・ダッドに依頼し、ダッドはこのために数点の木版画を制作しています。また同じ頃、自由主義貴族の政治家トーマス・フォリー(Thomas Henry Foley, 4th Baron Foley of Kidderminster DL, 1808 - 1869)から、グロヴナー・スクエア二十六番地に有していた邸宅の装飾を依頼され、タッソーとバイロンを描いた作品を制作しています。

 ウェールズ南東部の町ニューポート(Newport)の市長サー・トーマス・フィリップス(Sir Thomas Phillips, 1801 - 1867)は、1842年、ヨーロッパからギリシア、イスタンブール、キプロス、エルサレム、アレクサンドリア、テーベ、マルタを巡るグランド・ツアーを行いました。サー・フィリップスはデッサンと絵画で旅の記録を残したいと考え、ロバート・ダッド(リチャードの父)と親しかったデイヴィッド・ロバーツ(David Roberts RA, 1796 - 1864)の推薦により、当時二十四歳であったリチャード・ダッドを雇いました。




(上) Richard Dadd, "Portrait studies of figures in Eastern Costume", 1842, Pen, brown ink, watercolour and gum Arabic, Winchester College


 しかしながらグランド・ツアーも後半となったエジプトで、リチャード・ダッドは頭痛と眩暈を訴え始めました。マルタからイタリア西岸を北上する頃になると、ダッドは誰かに追いかけられるという妄想を抱くとともにサー・フィリップスに対しても攻撃的になり、ローマでは一般謁見中の教皇グレゴリウス十六世を襲撃したいという強い衝動に襲われました。1843年四月ないし五月に、ふたりはパリに着きましたが、ダッドはそのころまでに双極性障害の明白な症状を示しており、五月下旬にサー・フィリップスをパリに残して一人で帰国しました。

 リチャード・ダッドはナイル川を旅行した時にオシリス神の像を見ており、これが狂気の引き金になったと考えられています。ダッドは自分をオシリスの子孫、あるいは悪と戦うためにオシリスに選ばれた戦士と見做し、戦う相手である悪魔はどのような姿にも変じてダッドの身辺に現れると考えていました。ロンドンに戻ったダッドは相変わらず同じ家に住み、固ゆでの卵とエールだけを食べていました。リチャードの精神状態を心配した父ロバート・ダッドは、息子をロンドンの聖ルカ精神病院(St Luke's Hospital for Lunatics, 1751 - 2011)で受診させましたが、結果は「ノーン・コンポス・メンティス」(羅 non compos mentis 心神喪失)というものでした。

 リチャードの父ロバート・ダッドは、1843年8月28日、リチャードを小旅行に連れ出し、ケント州北西部の風光明媚な田舎町コバム(Cobham)を訪れました。父子はインで食事をした後、散歩をしましたが、夜十一時頃、リチャードはナイフと剃刀で父に襲い掛かって殺害し、遺体を穴に投げ捨てました。殺害直後にリチャードはコバムを出て、ドーヴァーからカレー行きの船に乗でフランスに逃亡しました。父の遺体は後日発見され、当初警察は父子が誰かに襲撃されたものと考えましたが、現場に呼び出されたリチャードの兄弟はすぐにリチャードの犯行と確信し、リチャードの手配書が作られました。警察がロンドンのリチャード宅を捜索すると、友人知人を描いたスケッチが何枚も見つかりましたが、それらは喉を切られていました。

 一方リチャードはカレーからパリ方面に逃げ延びましたが、モントロー(Montereau-sur-le-Jard パリのすぐ東にある町)で旅行者の喉を切ろうとして警察に拘束され、コバムでの父親殺害を自供しました。リチャードの持ち物からは殺害予定者のリストが見つかり、リチャードはモントローからフォンテーヌブローのクレルモン精神病院に移送されて、1844年7月まで同所に留まりました。その後イギリスに送還されたリチャードは、ロチェスター裁判所から終生強制入院を命じられ、ベドラム(Bedlam)の別名で知られるロンドンのベスレム王立病院(Bethlem Royal Hospital)の触法精神病者棟に収容されました。

 後に名作として知られるようになるリチャード・ダッドの作品群は、そのほとんどがベドラムで描かれています。下の写真はシェイクスピアの「ア・ミッドサマー・ナイツ・ドリーム」("A Midsummer Night's Dream" 「夏至の夜の夢」)に基づく作品で、妖精の王オーベロンと妃タイタニアが言い争っている場面です。


(下) Richard Dadd, "Contradiction: Oberon and Titania", 1854 - 1858, Oil on canvas, 61 x 76 cm, private collection





 下の写真は妖精の樵(きこり)が固い胡桃を一撃で割ろうとしている場面を描いた作品で、「ザ・フェアリー・フェラーズ・マスター・ストロウク」(英 The Fairy Feller's Master-Stroke 「妖精の樵(きこり)による素晴らしき一撃」)と名付けられています。リチャード・ダッドはこの作品を 1855年から 1864年まで描き続け、驚くべき細密描写を実現しています。画面の左下部分は未完成で、下描きの状態です。「ザ・フェアリー・フェラーズ・マスター・ストロウク」は、現在、テイトに収蔵されています。


(下) Richard Dadd, "The Fairy Feller's Master-Stroke", 1855 - 1864, Oil on canvas, , 54 x 39.5 cm, Tate, London




 1860年代に入るとベドラムの収容患者数が限界を超えたため、ロンドン中心部から西南西に五十キロメートル離れたバークシャーの町、クロウソーン(Crowthorne)に、ブロードムア精神病院(Broadmoor Hospital)が新しく建設され、1863年5月から患者の受け入れが始まりました。リチャード・ダッドは 1844年7月から約二十年に亙ってベドラムに収容されていましたが、1864年7月、ブロードムア病院に移送されました。リチャード・ダッドはたびたび面会を受け、1886年1月7日に肺の疾患で亡くなるまで、およそ二十一年半を同病院で過ごしました。


《リチャード・ダッドを創作に駆り立てたもの》



(上) Richard Dadd, "Bacchanalian Scene", 1862, Oil on wood, 30.4 x 24.1 cm, private collection


 リチャード・ダッドは王立アカデミー美術学校に在学していたときから優れた才能を示し、サミュエル・カーター・ホールの「英国バラード集」に挿絵を描いた他、政治家トーマス・フォリーからも注文を受けました。またサー・トーマス・フィリップスのグランド・ツアーに同行したのも、旅行を記録する画家として雇われてのことでした。

 顧客からの注文は、画家の生活を安定させるために欠かせません。生活が或る程度安定しなければ、芸術活動に集中して質の良い作品を生み出すことは不可能です。したがって顧客からの注文を受けること、また絵を買ってくれる顧客を見つけることは、芸術を職業として生きるために欠かせません。しかしながら顧客を喜ばせるために描く以上、自分が描きたい画題を、自分が描きたい描き方で、全く自由に描くことはできません。或る顧客から繰り返して注文を受け、また別の顧客を紹介してもらうためには、顧客の希望に耳を傾ける必要があります。既に描いた作品の買い手を探す場合でも、一般の買い手がお金を払っても欲しいと思うような作品でなければなりません。顧客に不満を抱かせたり、買い手が無いような作品を描けば、美術家の仕事を続けるどころか、衣食住を確保することさえできなくなってしまいます。

 しかしながらリチャード・ダッドの場合、父を殺害するという不幸な事件を起こしましたが、それが狂気のせいと認められ、精神病院での創作活動が可能であったために、生活の心配を一切することなく、好きな絵を好きな方法で描くことができました。リチャード・ダッドは優れた才能があったので、精神病院で描いた絵は親しみやすく優れた作品となりましたが、画家本人としては他人からの評価を意識して描いたわけではなかったのです。

 成人期のほとんどを精神病院で過ごしたリチャード・ダッドの身辺には、注文主も、師も、弟子も、画家仲間もいませんでした。仲間の入院患者は読み書きさえできない者が大部分でした。そのような状況下でも作品を描き続けた事実からは、リチャード・ダッドの絵画が創作の衝動のみによって生まれた純粋な芸術であったことがわかります。



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