ウィリアム・ブグロー William Bouguereau, 1825 - 1905

 autoportrait 自画像 1879年


 ウィリアム・ブグローはアレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823 - 1889)と並んで、十九世紀フランスのアカデミズム絵画を代表する画家です。ブグローはその生涯に八百点以上の作品を描きました。作品が主題とする範囲は極めて広く、古典古代の神話や歴史、同時代の風俗、聖書とキリスト教に取材した作品、寓意画、肖像画と多岐に亙ります。ウィリアム・ブグローこそ「ジェニー」(仏 génie 天才)の名に最もふさわしい画家であり、美術の到達点といえます。


【ウィリアム・ブグローの生涯】



(上) "La Vierge au lys", 1899, Huile sur toile, 155 x 81 cm, Collection particulière


 ウィリアム・ブグロー(Adolphe William Bouguereau, 1825 - 1905 註1)は 1825年11月30日、大西洋に面した西フランスの町ラ・ロシェル(La Rochelle ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリティーム県)で、ワインとオリーヴ油を扱う仲買人の家庭に生まれました。幼少期からデッサンに優れた才能を発揮し、カトリック司祭であったおじウジェーヌ(Eugène Bouguereau)の勧めに従って、ラ・ロシャルの南東八十キロメートルにあるポン(Pons ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリティーム県)のコレージュ(仏 collège 中学校)に入学し、アングルの弟子ルイ・サージュ(Louis Sage, 1816 - 1888)から最初の正式な美術教育を受けました。

 1840年代初頭に中等教育を終えたウィリアムは、いったん家業を手伝うようになります。しかしながら美術への思いは立ちがたく、父は家業の手伝いを続けることを条件に、ウィリアムがボルドー高等美術学校(l'École supérieure des Beaux-arts de Bordeaux)に進学することを許します。1844年、美術学校内のコンクールにおいて、ウィリアムはモンペリエの聖ロックを描いた油彩で一等を獲得しました。




(上) ブグローのおじ、ウジェーヌ神父。ウィリアム青年が描いた肖像画 "Portrait d'Eugène Bouguereau", 1850, huile sur toile, 41,3 x 46,2 cm, collection particulière


 美術を極めるのであれば、ボルドーでの修業に満足せず、パリ高等美術学校で腕を磨く必要があります。しかしながらウィリアム青年の両親はパリ遊学に必要な費用を出してはくれませんでした。ウィリアムは司祭であったおじウジェーヌの提案で、おじが担当する教区の人々の肖像画を描き、その収入を遊学費用に充てることになりました。三十三枚の肖像画を描いて九百フランを得たウィリアム青年は、1846年、二十一歳のときにパリに出ました。





(上) "Amour Fraternel", 1854, Huile sur toile, 147 × 113,7 cm, The Museum of Fine Arts, Boston


 パリでのブグローは、ボルドー高等美術学校の校長であった画家ジャン=ポール・アロー(Jean-Paul Alaux, dit Gentil, 1788 - 1858)の紹介状によって、フランソワ=エドゥアール・ピコ(François-Édouard Picot, 1786 - 1868 註2)の門下生となりました。次いでパリ高等美術学校(l'École supérieure des Beaux-arts de Paris)に入学したウィリアム・ブグローは、1848年に「牢獄から解放され、マリアの許に集う信徒に会いに行く聖ペトロ」("Saint Pierre après sa délivrance de prison vient retrouver les fidèles chez Marie")によってローマ賞二等を獲得します。ブグローは1850年には「アラス河畔で羊飼いたちに見出されるゼノビア」("Zénobie retrouvée par les bergers sur les bords de l'Araxe")によってローマ賞一等を獲得し、ローマに留学してイタリアのルネサンス美術を研究することができました。




(上) "La Vierge, l'enfant Jésus et saint Jean-Baptiste", 1875, Huile sur toile, 200,5 x 122 cm, Collection particulière


 類い稀な才能によって描かれ、時代の好みにも合致するブグローの作品は、非常な人気を呼びました。ローマからパリに戻ったブグローには肖像画の注文が殺到し、教会(註3)、公共建造物(註4)、私邸の装飾も依頼されました(註5)。毎年のサロン展に出品する作品はいずれも高く評価されて、富裕な個人収集家のみならず、国家にも買い上げられました。




(上) "La Vierge Consolatrice", 1877, Huile sur toile, 204 x 148 cm, le musée des Beaux-Arts, Strasbourg


 1856年、ブグローはマリ=ネリー・モンシャブロン(Marie-Nelly Monchablon, 1836 - 1877)と結婚し、1868年にはモンパルナスのノートル=ダム・デ・シャン通七十五番地(75, rue Notre-Dame des Champs, Montparnasse)にアトリエ付きの家を構えました。ブグローと妻の間には三人の息子と二人の娘が生まれました。しかしながら 1872年に幼い娘ジャンヌ=レオンティーヌ(Jeanne-Léontine)が亡くなり、1875年には十六歳の息子ジョルジュ(Georges)が、1877年には妻マリ=ネリーが亡くなります。妻が没した直後には、幼い息子ウィリアム=モーリス(William-Maurice)も亡くなりました。家族の死を悼むウィリアム・ブグローは、1876年に「ピエタ」("Pietà", 1876)、1877年に「慰めの聖母」("la Vierge Consolatrice", 1877)を描いています。もうひとりの息子アドルフ=ポール(Adolphe-Paul)も 1900年に結核で夭逝しています。




(上) "Nymphes et Satyre", 1873, Huile sur toile, 220 x 180 cm, The Sterling and Francine Clark Institute, Williamstown, Massachusetts


 なお妻を亡くしたブグローは、弟子のひとりであるアメリカの女性エリザベス・ジェイン・ガードナー(Elisabeth Jane Gardner, 1837 - 1922 註6)と 1879年に婚約しました。しかしながらブグローの母と娘アンリエット(Henriette)が再婚に反対したため、ブグローとエリザベス・ジェインは結婚することができませんでした。1896年、母が九十一歳で亡くなると、ふたりはようやく再婚しました。このときブグローは七十一歳、エリザベス・ジェインは五十九歳でした。




(上) "La Charité", 1878, Huile sur toile, 196 x 117 cm, collection particulière


 ブグローの作品は有能な画商ポール・デュラン=リュエル(Paul Durand-Ruel, 1831 - 1922)によってイギリスとアメリカに紹介され、両国においても人気を集めました。当初ブグローは、肖像画を除けば、宗教と歴史を主題にした「大様式」の絵画を描いていましたが、やがて風俗画に接近して母子や農村の女を描いて主題に多様性が生まれ、美術愛好家の間で一層の好評を得ました。1866年、ポール・デュラン=リュエルとの契約期間が満了すると、同年十月ブグローは以前からの知己であったアドルフ・グピル(Adolphe Goupil, 1806 - 1893)に作品を版画化する独占権を与えました。美しいフォトグラヴュールとなったブグローの作品は一般の人々にも広く知られて、画家の評価を更に高めました。




(上) "La leçon difficile", 1884, Huile sur toile, 94 x 61 cm, collection particulière


 ウィリアム・ブグローは 1876年に美術アカデミー(l'Académie des Beaux-arts)会員となり、1881年にはサロン展(le Salon des artistes français)絵画部門の責任者、1885年にはテイラー財団(la Fondation Taylor 註7)の総裁に選出されました。アメリカではこの頃までにブグローの人気が高まっていて、ほとんどの作品はアメリカの顧客に売られて、フランス国内には残りませんでした。このため 1878年のパリ万博で開かれたブグロー展には、わずか十二点の作品しか展示されませんでした。ブグローは 1885年のサロン展では最高賞(Médaille d'honneur)を獲得し、1888年にはパリ高等美術学校及びジュリアン美術学校(l'Académie Julian 註8)の教授に指名されました。ブグローは 1858年にレジオン・ドヌール・シュヴァリエを受章していましたが、1885年にはレジオン・ドヌール・コマンドゥールを、1905年にはレジオン・ドヌール・グラン・ドフィシエ(Légion d'honneur Grand Officier)を受けました。




(上) "Alma Parens", 1883, Huile sur toile, 230 x 140 cm, collection particulière


 ブグローはパリに住みましたが、故郷ラ・ロシェルにアトリエを所有し、毎年夏になるとここで制作を行っていました。ブグローは晩年に患った心臓病が悪化し、七十九歳でった 1905年8月19日にラ・ロシェルで亡くなりました。ブグローがその生涯に描いた作品は、八百数十点に上ります。ブグローはモンパルナスの墓地に埋葬されています。



【ウィリアム・ブグローに対する評価】



(上) "La Naissance de Vénus", 1879, Huile sur toile, 300 x 215 cm, le musée d'Orsay, Paris


 ウィリアム・ブグローがフランス国内で数々の栄誉を得たことは上述の通りですが、諸外国の美術界もブグローを高く評価しました。1866年、ブグローはアムステルダム美術アカデミー(de Rijksakademie van beeldende kunsten in Amsterdam)から名誉会員の地位を与えられました。1879年にはミュヘンぼ美術選考会でフランスの画家が三枚の金メダルを得ましたが、うち一枚はブグローに贈られました。

 人間は先史時代以来数えきれない美術作品を遺してきました。ルネサンス期に成年に達した後も進歩を続けた美術は、十九世紀のアカデミー絵画において極点に達しました。このときに現れたウィリアム・ブグローこそ、先史時代から連綿と続く長い美術史において頂点に立つ人物です。ブグローはラファエロの再来であり、これから先の美術史においてブグローを超える芸術家が出現することはないであろうと筆者(広川)は考えています。



註1 ブグローのプレノム(仏 prénom 姓名の名)が仏名ギュイヨーム(仏 Guillaume)ではなく英名ウィリアムであるのは、イギリス人の血を引く家系に生まれたせいです。

註2 フランソワ=エドゥアール・ピコ(François-Édouard Picot, 1786 - 1868)は古典派の画家で、ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748 - 1825)の弟子です。

註3 聖堂装飾の制作年は 1859年から 1889年に亙ります。

 1859年に描いたパリ、サント・クロティルド教会礼拝堂の装飾画、1866年に描いたパリ、サン・オーギュスタン教会サン=ピエール・サン=ポール礼拝堂の装飾画、1875年から 1881年にラ・ロシェル司教座聖堂サン=ルイに描いた多数の装飾画、1885年から 1889年に描いたパリ、サン=ヴァンサン=ド=ポール教会聖母礼拝堂の装飾画。

註4 1869年にボルドーの大劇場(le Grand Théâtre de Bordeaux)に描いた天井装飾画。

註5 ラ・ロシェル近郊アングラン(Angoulins ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリティーム県)にあった銀行家ポール・モンラン(Paul Monlun)邸の庭に、夫人が読書室、音楽室として使う小塔がありました。ブグローはこの小塔のために、1854年から翌年にかけて九点の装飾画連作を描きました。この小塔はポール・モンラン邸の敷地が町役場の用地及び公園となった後、1950年代に取り壊されましたが、ブグローの絵は取り外され、現在は個人蔵となっています。

 パリ、ヴェルヌイユ通のアナトール・バルトローニ邸において、1855年から翌年にかけて描いた装飾画連作。及びパリ、ロシュフーコー通のジャン=フランソワ・バルトローニ邸において、1856年と 1858年に描いた天井装飾画連作。

 ジャン=フランソワ・バルトローニ(Jean-François Bartholoni, 1796 - 1881)は銀行家であり、リヨン=地中海鉄道の経営者でもあった人物です。社会貢献にも熱心で、ジュネーヴ音楽院(le conservatoire de musique de Genève, CMG)を設立しています。アナトール・バルトローニ(Anatole Bartholoni, 1822 - 1902)はジャン=フランソワ・バルトローニの息子で、銀行家、実業家、政治家として活躍しました。

 またパリ、アルフレッド・ド・ヴィニー通のオテル・ペレールで 1857年から翌年に掛けて描いた装飾画及び天井装飾画の連作。

 オテル・ペレール(l'hôtel Pereire)は、フランスで最初の鉄道事業者であり、銀行業、不動産業も営んだエミール・ペレール(Emile Pereire, 1800 - 1875)の豪邸です。エミール・ペレールは弟イサク・ペレール(Isaac Pereire, 1806 - 1880)とともに、第二帝政期の資本主義を代表する人物です。

註6 エリザベス・ジェイン・ガードナー(Elisabeth Jane Gardner, 1837 - 1922)は、イギリスに生まれ、初めにアメリカで美術教育を受けた女性画家です。1866年、アメリカの画家として初めてサロン展に出品しました。また 1872年にはサロン展で金メダルを獲得しましたが、これは女性初の快挙でした。




(上) Elisabeth Jane Gardner, "In the Wods", 1889, private collection


 エリザベス・ジェイン・ガードナーはパリにおいてアンジュ・ティシエ(Jean-Baptiste-Ange Tissier, 1814 - 1876)のアトリエに入り、次にジュール・ルフェーヴル(Jules Lefebvre, 1834 - 1912)に師事し、最後の師がブグローでした。エリザベス・ジェイン・ガードナーは師であり夫であるブグローに亡くなるまで忠実で、全ての作品をブグローの画風で描きました。

註7 テイラー財団(la Fondation Taylor)は 1844年12月に創立された造形芸術家の相互扶助のための財団で、画家、彫刻家、メダイユ彫刻家、建築家、版画家を会員とします。「テイラー」という財団名は、芸術の振興を望む社会活動家であり、自身も劇作家であったイシドール・テイラー(Isidore Justin Séverin Taylor, 1789 - 1879)を記念しています。イシドール・テイラーは 1844年から 1879年まで財団の初代総裁を、次いで建築家エドモン・デュ・ソムラール(Edmond du Sommerard, 1817 - 1885)が 1879年から 1885年まで二代目総裁を、次いでウィリアム・ブグローが 1885年から 1905年まで 三代目総裁を務めました。テイラー財団はパリのラ・ルリュイエール通一番地に本部を構え、数多くの賞を設けて活動を続けています。

註8 ジュリアン美術学校(l'Académie Julian)は 1866年、画家及び版画家であるロドルフ・ジュリアン(Pierre Louis Rodolphe Julian, 1839 - 1907)がパリに開いた絵画及び彫刻の美術学校です。ジュリアン美術学校は最盛期にはパリに六箇所の学校(アトリエ)を有し、最高の教授陣による質の高い美術教育で知られました。絵画はロドルフ・ジュリアン、ウィリアム・ブグローのほか、ジュール・ルフェーヴル(Jules Lefebvre, 1834 - 1912)、トニ・ロベール=フルリ(Tony Robert-Fleury, 1837 - 1911)、ジャン=ポール・ローラン(Jean-Paul Laurens, 1838 - 1921)等が、彫刻はアンリ・ブシャール(Henri Bouchard, 1875 - 1960)、ポール・ランドウスキ(Paul Landowski, 1875 - 1961)等が、この学校で教えました。



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 【英語】 Damien Bartoli with Frederick C. Ross, William Bouguereau - His life and works, Catalogue Raisonné of his painted work, Antique Collectors' Club, 2014




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