ジャン=バティスト・グルーズ Jean-Baptiste Greuze, 1725 - 1805

 帽子を被った自画像 un autoportrait par Jean-Baptiste Greuze


 絵画は主題によって「宗教画」「歴史画」「肖像画」「寓意画」「風景画」「静物画」等、様々なジャンル(仏 genre 類、部門)に分類できます。「宗教画」「歴史画」「寓意画」は劇的、非日常的な状況のもとで人物を描きます。しかるに人物を劇的状況の中に置かず、日常的な光景を描く絵画も存在します。上記の分類に含まれないこのような絵画を、「その他のジャンルの絵」という意味で、「ジャンル・ピクチャーズ」(英 genre pictures)と呼びます。「ジャンル・ピクチャーズ」は日本語で「風俗画」といいます。

 ジャン=バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze, 1725 - 1805)は、美術史を通しておそらく最も人気がある風俗画家のひとりです。ロココ様式に象徴される享楽的な十八世紀にあって、グルーズは裸の神々の世界を描かず、純粋な子供たち、善良で美しい女性たちの姿を、地に足を着けた風俗画のうちに描きました。

 女性や子供の目に見える愛らしさだけでなく、誠実に生きる人々のまっすぐな心をも清潔な画風のうちに写し取ったグルーズの作品は、革命以前のフランスにおいて、宮廷の貴族たちからブルジョワジーまであらゆる階層に愛されました。


《ジャン=バティスト・グルーズの生涯》

 ジャン=バティスト・グルーズは 1725年8月21日、フランス東部の町トゥルニュ(Tournus ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)に生まれました。屋根職人である父は、自分の仕事を息子に継がせるつもりでしたが、ジャン=バティスト少年の才能があることに気付いたリヨンの肖像画家シャルル・グランドン(Charles Grandon, 1691 - 1762) に説得されて、息子がグランドンの弟子となることを許しました。ジャン=バティスト少年はグランドンの下で古い絵の模写に励み、腕を磨きました。

 青年となったグルーズは、1750年にパリに出て、フランス美術アカデミーの前身である王立絵画彫刻アカデミー(仏 l'Académie Royale de peinture et de sculpture)に入学し、王家御用達のロココ画家シャルル=ジョゼフ・ナトワール(Charles-Joseph Natoire, 1700 - 1777)に師事しました。1775年には、リヨン時代に制作を始めた作品「子供たちに聖書を説明する父」(Le Père de famille expliquant la Bible à ses enfants)が、裕福な銀行家であり美術品収集家でもあったアンジュ=ロラン・ラリヴ・ド・ジュリ(Ange-Laurent Lalive de Jully, 1725 - 1779)に買い上げられました。ド・ジュリは自らが経営するホテルにこの絵を飾りましたので、グルーズの名声が広まることになり、とりわけロココ時代の軽薄な風潮に流されない道徳的な画題が、ディドロ(Denis Diderot, 1713 - 1784)をはじめとする哲学者、思想家の間で高く評価されました。

 ルイ・グジュノ(L'abbé Louis Gougenot, 1719 - 1767)は修道院長でもあり、グラン・コンセイユ(仏 le Grand Conseil 大評議会 国王の諮問機関)の評議員でもあった高位の人物ですが、芸術を愛好してグルーズの絵を次々に買い上げ、この画家の庇護者となりました。1755年、ルイ・グジュノは外交上の用務でナポリとローマに赴きましたが、グルーズをこの旅に同行させました。グルーズはおよそ一年の間ローマに留まり、このとき目にしたイタリア各地の風景は、後に制作するいくつかの作品に活かされました。


 「眠る編み子」(La Tricoteuse endormie, 1759)

 「小鳥の死を悲しむ女の子」(Jeune Fille pleurant la mort de son oiseau, 1759)


 グルーズは 1757年のサロン・ド・パリにイタリアで制作した六点の絵を、1759年のサロンには「眠る編み子」(La Tricoteuse endormie)と「小鳥の死を悲しむ女の子」(Jeune Fille pleurant la mort de son oiseau)を含む数点の風俗画を、それぞれ出品しました。


 「村娘の婚約」(L'Accordée de village, 1764)


 1764年のサロンに出品した「村娘の婚約」(婚約した村娘 L'Accordée de village)は、極めて高い評価を得ました。この作品の成功について、十九世紀の批評家ゴンクール兄弟は次のように書いています(註1)。

     Le succès de L'Accordée de village affermissait Greuze dans sa voie, dans sa vocation, la représentation des mœurs bourgeoises et populaires à laquelle prenaient goût la curiosité et l’intérêt du grand monde, lassé de galanteries mythologiques, de nudités friponnes et de tableautins galants. Le peintre se mettait en quête de matériaux, d’idées, de modèles, d'inspirations dans le Paris où Mercier glanait ses observations, cherchant, comme ce peintre à la plume, ses notes et ses croquis dans la rue et dans les faubourgs, dans les marchés, sur les quais, en plein peuple, en pleine foule.    「村娘の婚約」(L'Accordée de village)の成功を以て、画壇におけるグルーズの地位は確かなものとなった。有産階級、一般市民階級の風俗を描いたこの作品は、上流社会の嗜好に合致し、彼らの関心を引いたのだ。上流階級の人々は、神話の英雄的場面、享楽的な裸像、恋愛を主題にした雅(みやび)な小品に飽き飽きしていた。しかるにグルーズは、パリのような都会において、この世界、理想、模範、芸術的霊感を追究した。メルシエ(註2)はパリの街路や郊外、市場、河岸を巡り、普通の人々、大勢の人々に立ち混じって、さまざまな覚書や著述の素材を集めた。グルーズは絵筆を使って、メルシエと同じことをしたのである。


 「息子カラカラを叱責する皇帝セプティミウス・セウェルス」(L'empereur Septime Sévère reproche à Caracalla, son fils, d'avoir voulu l'assassiner, 1769)


 画壇での地位を確立したといっても、グルーズの画風は当時の主流から外れていました。グルーズは 1769年に王立アカデミー会員となりましたが、本人がこのとき入会審査のために提出した歴史画「息子カラカラを叱責する皇帝セプティミウス・セウェルス」(L'empereur Septime Sévère reproche à Caracalla, son fils, d'avoir voulu l'assassiner)は酷評され、ただ優れた風俗画を描いた過去の功績により、風俗画家として受け容れられたのでした。美術界における風俗画の地位は歴史画よりもずっと低かったゆえに、この出来事はグルーズを深く傷つけました。この年以降、最晩年まで、グルーズはアカデミーに作品を展示することがありませんでした。

 アカデミーを巡る出来事とは関係なく、世間の人々はグルーズが描く美しい作品を愛してやみませんでした。グルーズは自分のアトリエに作品を展示し、王族から市民に至る大勢の人々が画家のアトリエを足しげく訪問しました。またジャン=ジャック・フリパール(Jean-Jacques Flipart, 1719 - 1782)をはじめとする版画家がグルーズの絵を複製し、そのために評価はいっそう高まりました。


 フランス革命後に起こった新古典主義の流行は、グルーズにとって大きな打撃となりました。1805年、グルーズは極貧のうちに亡くなりました。


《十八世紀の思想的雰囲気とジャン=バティスト・グルーズ》



(上) Jean-Baptiste Greuze, "Simplicity", engraved by Jean Ferdinand Joubert de la Ferté, 180 x 215 mm, a plate from "The Art Journal", 1860 当店の商品です。


 軽佻浮薄なロココの時代に、グルーズは清廉な画風で人々の心をつかみました。グルーズの作品に見られる「道徳性」についてはよく語られるところですが、グルーズの作品が描き出す「徳」とは、理性主義に根差した戦闘的モラリズムでは決してなくて、むしろその対極にある「あるがままの自然」のモラリズムです。これはジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778)が考えたような徳、すなわち人間がその自然本性によって生得的に備える徳であり、グルーズは人間のうちにある不可視のルソー的自然本性を、絵筆の力により、誰の目にもわかりやすく親しみやすい絵画作品として可視化したのです。

 フランスの十八世紀は、貴族が力を失い、ブルジョワジー(市民階級)が興隆した時代でした。ロココ絵画が貴族的享楽の現れであるのに対し、グルーズの絵画はブルジョワジーの徳の現れです。1725年に生まれて 1805年に没したジャン=バティスト・グルーズの生涯は大部分が十八世紀に重なりますが、これは単に年代が重なるというだけではありません。グルーズの描く風俗画は啓蒙時代の精神の結晶です。グルーズは歴史画家として評価されることを望みましたが、画家自身の希望と食い違ってはいても、グルーズの本領はやはり風俗画にありました。十八世紀のフランスでは数多くの優れた画家が活躍しましたが、そのなかでもグルーズこそは、啓蒙時代の精神を最もよく体現した芸術家であったと、筆者(広川)は考えます。


《付記 十八世紀のフランス上流社会とジャン=バティスト・グルーズ作品のモラリズム》



(上) Jean-Baptiste Greuze, "L'Oiseau mort", 1782, Huile sur toile, 54 x 61 cm


 ジャン=バティスト・グルーズの作品には、胸を露出した少女がしばしば描かれています。入浴等、裸になる特段の必要も無いのに、少女たちが半裸になっている作品が多いことから、「グルーズの絵が道徳的と評される理由が理解できない」という声を時おり耳にします。半裸の少女を好んで描いたグルーズの作品がどのような意味で「道徳的」であるのかを理解するには、グルーズが活動した十八世紀におけるフランス貴族社会の実態を知る必要があります。

 グルーズの絵を購入できるのは限られた階層であり、その多くが貴族でした。しかるにアンシアン・レジーム期のフランス貴族たちは、現代の我々の道徳観念がまったく当てはまらない生活を送っていました。

 まず第一に、結婚生活に関して。アンシアン・レジーム期のフランスにおいて、貴族階級の結婚は財産の保持が唯一の目的であり、結婚する当事者の意思とは無関係に取り決められました。十代の少女が四十代、五十代の男性と結婚させられるというようなことが、ごく普通に行われていたのです。結婚に愛情が伴わず、形式にすぎないのであれば、夫婦ともに貞操を守る必要を感じなくなります。それゆえフランスの貴族社会では人妻は男の共有財産と看做され、自分の妻を独占する男は皆の笑い物となりました。貴族社会のまともな一員であれば、自分の妻を独占してはならなかったのです。妻の方でも事情は同じです。妻はそもそも夫を愛して結婚したわけではありませんし、夫が年老いていれば性的に満足させてもらうこともできませんから、夫以外の愛人を求めるのは自然の成り行きでした。こうして男もまた、女の共有財産になります。

 ギリシア・ローマの神々は日常的に不倫をしており、最高神ゼウス、ユピテルこそがその筆頭者でした。それとちょうど同じように、アンシアン・レジーム期のフランス貴族社会には不倫がはびこり、国王こそがその筆頭者でした。十八世紀の貴族はギリシア・ローマ神話の画題を好み、貴婦人たちは神話の登場人物に扮して肖像画を描いてもらいましたが、彼らにとって神話は別世界の物語ではありませんでした。古典古代の神々は配偶者を気にせず色恋に身をやつしていましたが、神々が送る軽佻浮薄な生活はそのままフランス貴族の日常であったのです。

 第二に、育児に関して。既婚者であっても日々恋愛遊戯に明け暮れるフランス貴族、貴婦人たちは、わが子を自分で育てることがありませんでした。夫にしてみれば子供の父親が誰なのか分かりませんから、子に愛情を持たなかったとしても不思議はありません。しかるに妻はというと、こちらもまた子供を愛育することはありませんでした。子供に授乳して育てるのはいわば動物的な水準のことであって、そのような仕事は高い身分にふさわしくないと考えられたのです。それゆえ新生児は生まれるや否や乳母の許(もと)に送られました(註3)。

 フランスの上流階級が閉ざされた社会で常軌を逸した享楽的生活を送るなか、アンシアン・レジーム末期の思想家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778)は、人間の自然本性に合致する質朴な生き方への回帰を唱えました。ルソーの「新エロイーズ」("La Nouvelle Héloïse", 1761)や「エミール」("Émile", 1762)は、心ある人々の間で大きな反響を呼びました。




(上) Jean-Baptiste Greuze, "Childhood", engraved by Alfred Joseph Annedouche, 195 x 250 mm, a plate from "The Art Journal", 1859 当店の商品です。


 貴族社会の自堕落な有り様と、それに対して芽生え始めた批判精神を背景に考えると、グルーズが 1764年のサロンに出品した「村娘の婚約」(婚約した村娘 L'Accordée de village)が大きな感動を惹き起こした理由がわかります。グルーズのこの作品において、婚約する二人は自分たちの意志で愛し合い、家族をはじめ周囲の人々から祝福を受けています。画面には幼児たちも描き込まれています。これから結婚する二人の間にもきっと可愛い子供が生まれるでしょう。母となった少女は田舎の人ですから、子供に愛情を注ぎ、自らの手で育てるに違いありません。雌鶏と雛たちが床で平和に餌を啄(ついば)む様子は、二人の若者が築く幸福な家庭の前表です。

 人間の自然本性に調和した素朴ながらも気高い生き方を、この作品は地に足を着けた表現で描き出しています。ゴンクール兄弟は「村娘の婚約」が高く評価された背景を分析して、上流階級の人々が「神話の英雄的場面、享楽的な裸像、恋愛を主題にした雅(みやび)な小品に飽き飽きしていた」(lassé de galanteries mythologiques, de nudités friponnes et de tableautins galants. )ことを指摘しています。「村娘の婚約」は現代人が見ても美しい作品ですが、貴族階級に属しながらも頽廃的な生活に疑問を感じ始めていた人々は、この作品を見て我々よりもいっそう大きく心を動かされたのです。


 ジャン=バティスト・グルーズの少女像に性的魅力を強調した作例が多いのは事実ですが、少女たちの姿は貴族の頽廃的生活や、その寓意的表現といえるギリシア・ローマ神話のコンテクストではなく、市井の人々の質実な生活のうちに描かれています。グルーズが描く少女たちは、たとえ胸を露出していても、貴族たちの軽佻浮薄さとは無縁の清らかさを感じさせます。グルーズの少女たちが見せているのは、自堕落な神々の裸体とは違って、無垢な裸体なのです。グルーズの絵が道徳的であると言われるのは、このような理由によります。



註1 Edmont et Jules Goncourt, "L'Art du XVIIIe siècle, deuxième série, Greuze, Les Saint-Aubin", Bibliothèque Charpentier, Eugène Fasquelle, Éditeur, 11, Rue de Grenelle, Paris, 1909

註2 作家メルシエ・ド・コンピエーニュ(Claude-François-Xavier Mercier, dit Mercier de Compiègne, 1763 - 1800)のこと。

註3 ちなみに母親自身が新生児を育てず、乳母の許に送ってしまうのは、貴族に限ったことではありませんでした。パリの市民階級の家庭に生まれた新生児は九割以上が田舎に送られ、乳母に育てられました。そのうち半数は新生児の内に亡くなりますが、残りの子供たちも母の顔を知らずに育ったのです。



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